教育について
教育の本質
本来、教育の本質は哲学である。そして、教育は、文化である。
なぜ、性教育を問題にするのか。というより、なぜ、性教育しか問題にできないのだろう。教育を問題にする以前に、すてきな、恋愛について語るべきなのだ。人生について考えさせるべきなのだ。しかし、現行の教育においては、それができない。ただ、性について、生物学的にしか、性行為について教育することができない。それは、現在の教育の根本に哲学がないからだ。というよりも、哲学そのものを否定しているからである。
恋愛は、哲学であり、文化である。すばらしい恋愛を教えられないところに、今の教育の限界がある。
教育の原点は、育児である。だから、教育は、育児の延長でとらえなければならない。育児とは、子育てである。つまり、教育の本質は、教え育てることだ。ところが現行の教育には、育てるという視点が欠落している。教えることばかりに熱中し、育てることを忘れている。
子育てで重要なのは、環境である。かつて、子供の教育は、学校だけが担っていたわけではない。地域社会全体が、何らかの形で関わってきたのである。つまり、教育とは、文化である。
老若男女、地域に住み住人が皆で子供を育てきた。年寄りは、昔語りをし、年長の者は、幼い者の面倒をみ、長じれば、集団生活の中で、その土地のしきたりや伝統を、生活の中で伝えてきた。野山には自然が満ち。子供は、遊びの中から多くのものを学んだ。
最大の問題は、この子育ての環境が、破壊されたことである。そして、社会も、家庭も学校の分離され、孤立してしまった。このことは、教育の統一性を著しく損なっている。親は阻害され、教師は孤立し、社会は隔絶された。そのために、子供は、何が、正しいのか判断できず、混乱している。そして、その間隙にメディアが忍び込んでいる。今や、メディアは、最大の教育媒体となっている。しかし、そのメディアは、商業主義でありながら、言論の自由によって守られている。メディアは、子供が欲しがれば、何でも与える。たとえ、それが麻薬的であろうと、劇薬であろうと、金にさえなれば・・・。
育てるということは、子供達を、一個の良識ある人間として、現実の社会の中で自立して生きていけるようにすることである。そのためには、人間関係を保つために最低必要な常識と礼儀、ならびに、人として、責任を持た生き方ができるようにするための倫理観を、身につけさせることが、教育には、要求されるのである。
子供達に何が必要なのかを知っているのは、保護者だ。ところが、生きていくために必要なしつけ、危険なものから身を守る術といた、親にとっても、子供にとっても、教えて欲しい事、教わりたい事が、現行の教育では、無視されている。
支度と始末が躾られなければ教育ではない。我々の世代は、母親が作った食事をただ、黙って食べて育った世代だ。親の手伝いや家の仕事をさせられて育ったわけではない。食卓に座って出された料理を食べて、食事が終われば後片付けもしないで学校へ駆けていった。食事の後片付けが終わらなければ学校に行くなとは言われたことがない。だから、職場でも他人が支度をしなければ何もできない。以後とが終わったら、後片付けもせずにかえる。
我々の世代は、だから目の前に出された物しか目に入らない。食事が出されても、箸がなければ箸がないと駄々をこね。醤油がなければ、食べられないと母親にせがむ。その癖が、職場でもいっこうに抜けない。
仕事もしかり、目の前の仕事しかこなせないのである。
だから家事のできない娘ができる。常識のない息子ができる。引き籠もるしかないではないか。
学校といわず、世の中全体に、間違ったおかしなアカデミズムが横行している。文学でも、やたら難解な物がもてはやされて、わかりやすいものを認めない風潮は、嘆かわしい。金儲けの仕方や人とのつきあい方と言った処世術、まるで、汚らわしいもののように蔑まれている。
特に、問題なのは、世俗的なものを軽視、侮蔑していることである。生きるために必要なことのほとんどは、世俗的なものである。当然。
多くの教育関係者は、難解で抽象的な観念は教えても、当たり前で、誰もが、当然だと思うような、倫理や道徳といったものは、学校では、教えてはならないと思いこんでいる。なぜなら、そういうものは、封建思想や全体主義、国家主義につながるというのである。馬鹿げている。大衆を馬鹿にしている。
そのうえ、日本人は、学問というと、やたら難しければいいという風潮があるが、これは、間違ったアカデミズムである。倫理や道徳は、万人が、納得し、理解できるから通用するのである。一部の人間にしか、わからないようなものを、倫理と決めつけることこそ、独裁主義である。
その結果、人間つきあいに必要な礼儀やマナー、モラル、常識のなく、社会に適合できない人間を、多く生み出すことになる。
その結果、良識や常識は廃れ、秩序や治安が保たれなくなるのである。夜間、安心して街の中も歩けなくなる。年頃の子供を持つ親は、心配で、夜もおちおち眠っていられなくなる。
性教育より、素敵な恋愛を教えることが重要なのに、妙な現実主義をだして性教育ばかりを重視している。性教育する前に、まず、人生について、愛について語るべきなのだ。どう生き、どう人を愛するべきなのか、その肝心なことを教えられない。それは、教育に対する最大の冒涜である。
難解で、高邁な理念、観念的、抽象的な知識ではなく、分かり易くて、具体的なものにこそ教育的価値がある。学校教育で必要としているのは、役に立つ事、必要な事なのである。
哲学は誰にでも語ることはできる。それは、自分の人生について語ればいいからである。人には、それぞれ、生き様、歴史がある。
教育の本質は、高邁な教育理念にあるわけではない。その人その人が、生きてきた証にこそある。教育を問題する時、高邁な理論に捕らわれる事よって、一人一人が、生きていくのに必要なことを、見落としているのではないだろうか。真理は、我々の足下にある。
イジメと自殺は、深刻な問題だ。イジメと自殺の間には、何らかの因果関係があるかもしれない。しかし、イジメと自殺とを同じ次元で扱うのは、間違いだ。なぜなら、イジメは、モラルや思いやりの問題だが、自殺は、人間の存在にかかわる問題だからである。自殺は、どのような理由の下にも許されない。それだけはハッキリさせておかなければならない。その上で、イジメの原因を明らかにするのである。
生きる喜び、生命の尊さを教えられなければ、イジメも自殺もなくならない。そして、これは、人生の本質に関わる哲学的な問題である。
まず最初に、考えなければならないことは、生きることであり、その為には、自分で自分を生かさなければならない。
学校は、人生の全てではない。学校に行かなくても生きていくことはできる。しかし、その逆はない。死んでしまえばお終いである。ところが、学校にいると、学校が全てであるがごとく錯覚してしまう。学校に行けないからといって自殺する必要はない。しかし、学校に対する錯覚が、子供達を逃げ場がないほど追いつめてしまっている。なぜ、子供達は、逃げ場をうしない自殺していくのか。本来、子供達の逃げ場となって、子供達を守らなければならない学校が、子供達を追いつめてしまうのか。それは、何のために子供達を教育しているのかの目的を、教育の現場が、見失っているからである。目的を忘れてしまった原因は、根本的な哲学が最初から欠如しているからにすぎない。その事を直視しないで、ただ、表面的な現象ばかりに目を奪われていたら、問題の解決は、永遠にできないであろう。
イジメも悪いが、自殺はそれ以上に悪いことを、なぜ教えないのか。教えられないのか。それは、教育に哲学がないからである。
自分の行為が、どのような結果を招くかを教えなければいけない。そして、その結果に対して責任があることを学ばさせる必要がある。これは、哲学である。
自殺をすることが周囲にどのような影響を与え、どのような苦しみをもたらすのかを教えなければならない。子供を産むということは、人間としてどういう意味を持つのか。快楽のみを求めてした行為でも、その結果、子供ができたり、相手を傷つけてしまう結果を、招くことがある事を学ばさせなければならない。
今、行われている性教育は、生物学的な意味での性教育にすぎない。それでは、教育の名に値しない。
人生のすばらしさ、生きる喜びと勇気、それを子供達に伝えることができたら、それこ
そ、最高の教育ではないか。
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