教育ってなあに


教育に中立、公正、公平はありうるか


日本は、敗戦によって多くのものを失った。
人心もその一つです。
そこから、多くの勘違いが生まれたのです。

その勘違いの最たるものが、中立、公平、公正という理念である。
中立とか、公平、公正というのは、基準にはなり得ない。
もともと、自己の基準を放棄した発想だからである。
中立とか、公正とか、公平というのは、
意見の対立が生じた時、
第三者的な立場で調停したり、
判断、裁定しなければならない際に、
用いられる概念である。
このような発想は、その人の立場によって成立するものです。
つまり、一方の当事者と利害関係がないという意味で用いられる。
主観に左右されない、
つまり客観的でいられるという事である。
これは、裁判官やスポーツの審判員に求められる姿勢である。

教育者は、裁判官とも、審判員とも違う。
裁判官や審判員に求められる役割と、
教育者に求められている役割は、異質なものである。
教育は、教える側も、教わる側も当事者なのである。
特に、教える者は、自己の信念に基づいて教育しなければならない。
教えるという行為は、人に考えるための基盤を与える行為である。
言うなれば行動規範や価値観を形成させる行為である。
つまり、教育という行為そのものが、
自己の価値観に基づいて為されるものであり、
客観的にはなり得ないのである。
教育というのは、極めて思想的なのである。
客観的な立場で人を指導すると言う事は不可能である。

最終的には、自分が何を信じているか。
自分の立ち位置の問題なのである。
自分は真ん中に立っているつもりでも左から見れば右だし、右から見ればゆだりなのである。立場は視点よってあるいは相手の立ち位置によって変わるのである。
中立とか、公正とか、公平というのは自分がそう思っているのに過ぎない。
それこそ独善である。

当事者間において、一方の当事者が、
自分は、中立だの、公平だの、公正だのと言い出したら、話はややこしくなる。
当事者間においては、お互いが各々の利益に基づいて行動しているのだから、
公平な立場、公正な立場、中立な立場には立ち得ない。
強いて言えば、各々が、自分の立場を明らかにすることぐらいである。
その場合でも、各々が、自分の思想信条を明らかにしてもらわなければならない。
自分の思想、立場を明らかにしないで、
相手の思想や立場を非難するのは、卑劣である。
それこそ、不公正の極み(きわみ)である。

公正、公平と
強いて言うなれば当事者間で話し合い、
合意に基づいて教育する必要がある。
あくまでも、公正に固執するならば、
当事者各々の考えを尊重し、
一方の当事者の意見だけに基づかないと言うぐらいである。
しかし、それでも一番、子供に責任がある
保護者の意見が優先されるのが至当である。

国旗、国家を肯定するのも、否定するのも、その人、その人の思想信条なのである。
何も国家、国旗を認めている者だけが偏向しているわけではない。
国旗、国家を否定している者も偏向しているのである。
愛国心について教えるのが悪いのではない。
愛国心について教えないのが悪いのではない。
愛国心とは何かを明らかにしようとせずに、
愛国心の是非を論じるのが悪いのである。
愛国心というならば、
その前提を明らかにしなければならない。
何を前提条件として愛国心を定義するのか。
確かに、国粋主義者や軍国主義者の言う愛国心もある。
しかし、同様に、共産主義者の言う愛国心もある。
無政府主義者の言う愛国心もある。
自由主義者の言う愛国心もある。
共和主義者の言う愛国心もある。
軍国主義的な体制を前提とするのか、
自由主義体制を前提とするのか、
社会主義体制を前提とするのか、
それによって愛国心の在り方は違ってくる。
国の為に闘えという愛国心もあれば、
平和を守れという愛国心もある。
その前提をお互いに明らかにしないまま、
隠したままで議論するのは卑劣である。
愛国心は軍国主義者の専売特許だなんて決めつける事はないのである。
国を愛するからこそ、人々をの幸せを願う。
国の為にただ犠牲になれと押しつける事は、真の愛国心ではないはずである。国家は国民の犠牲の上に成り立っているわけではない。
国を愛するが故に守るのである。
愛する事のできない国は誰も守りはしない。
理念はレッテルではなく。
中味である。
大切なのは、表題ではなく、何を教えるかである。
要は、自分は、そして、相手は、どちらの側に立っているかの問題なのである。
中立、公平、公正の問題ではない。
自分という者を考えずに中立的な人に教わりたいというのならば、
自分対して何の影響もない第三者に
誰に教わったらいいのかの判断を任せる以外にない。
その場合でも、その人の思想から逃れる事はできない。
さらに、自分の思想を一方的に殺すしかない。
そのうえ、親の意見も無視するしかない。
そうなると、親とは何か。
子供に対する親の責任を最初から否定する事になる。
とにかく自分という者を否定しない限り、
中立や公平、公正というものは成り立たない。
つまり、中立や公平、公正は、客観的基準だからである。
公平、公正と言っても何に対して公正であり、
何に対して公平であるのか、
その基準を明らかにしなければ、
公平も公正も成立しない。
真ん中も、右から見たら左だし、
左から見ると右になる。
ならば、自分の立ち位置を確認しなければ
何に対して、
右なのか、左なのか確定しない。
つまり、中立というのは、極めて、相対的な概念なのである。
つまり、公正も公平も中立も、本来主体的な概念であり、
当事者であるかぎり、その人の考え方から逃れられない。
またも当事者でなくとも、
自分という立場からは逃れられない考え方なのである。
それが意味するところは、中立や公平、公正という基準を根本的理念にしてしまうと、
自分が、当事者になることを、最初から放棄することになる。
つまり、この世から、当事者が居なくなることになる。
これは、個人主義の根本理念に反する。
純粋に客観的立場に立てる存在は神以外にない。
自己も他者も超越できる存在は、神のみだからである。
教育者が、公正、公平、中立な立場に立とうとしたら、
自らを神にする意外にない。
そして、将に、学校の現場でそれが行われている。
先生は、学校において神のごとく振る舞い。
教科書は聖書となっている。

教育も、メディアも公正、公平、中立には成り得ない。
人間は神にはなれない。
なりえない事をなりうるとして教育をしているだけである。
教育やメディアの中立など
サッカーのワールドカップを中立に応援しろと言うくらい愚劣である。
神になれない人間が、客観的というのは、無責任なだけだ。
つまり、公平、公正、中立と言って
自分の立場を曖昧にしているだけである。

教育者は、教育の当事者である。
教育の現場から逃げられない。
しかも、教育というものは、最も、哲学的、思想的、理念的なものである。
このような、教育に携わるものが、
中立で、公正で、公平な立場に立つことはできない。
それをいえば、最初から、自分の責任を放棄することになる。
問題は、一方の当事者である生徒や保護者、
そして、社会との折り合いの問題である。
だからこそ、教育とは、受ける側に選択の権利が、
保証されていなければならないのである。
同時に、教育の影響を受ける、社会や地域コミニティに、
それを監視する義務があるのである。

教育に携わる者は、自分の思想信条を明らかにすべきである。
為政者は、教育の理念を明らかにしなければならない。
教育の当事者はそれに従わなければならない。

それを教育を受ける側が、受け容れられるか、
受け容れられないかの問題である。
教育を受ける側の当事者が、
受け容れられなければ、教育は成立しない。
だから手続きが重要なのである。
それが民主主義である。

教育とは、思想的なものである。
教育こそ思想なのである。
思想を明らかにできない教育は、それ自体矛盾している。



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