教育について
受験戦争
受験戦争とは何か。受験戦争の根本は、試験による選抜と競争を基礎とした教育体制が前提となる。つまり、受験戦争は、イコール、試験制度へと帰着する。
現代人はいくつになっても試験に落ちた夢にうなされるという。事ほど、現代人を苦しめる試験とは何か。そこに、受験地獄の本質が隠されている。そして、教育の根本を歪めている原因も、そこに、隠されている。
試験の利点とは何か。それは、一定の基準によって人物の評価をし、選別することを可能とする事である。この試験の利点は、そのまま、試験の欠点になる。
試験問題は、一度、答えを出すと、それで、終わりである。後は、それが正しいか、間違っているかの、検証だけである。しかし、一度、答えを出したら変わらないなどとという普遍的な答えは、現実の社会にはない。それは、決めつけである。
答えを出したら、終わってしまう。何も考えなくなる。これも受験勉強の成果である。後は、採点を待つだけである。しかし、現実の問題は、答えを出したから終わるというわけではない。答えが出たからといって、片づくわけではない。むしろ、それからが、問題なのであり、新たな始まりなのである。答えを出したら、責任が派生する。しかし、試験では、答えを出したら、それでお終いだ。
病気の治療を考えればいい。何らかの症状が現れれば、そこには、何らかの病気が隠されている。同じ病気でも状況や条件が違えば、症状も変われば、治療法も違う。薬も使っているうちに、効かなくなってくることもある。病気の治療法に、これだという解答が一律にあるわけではない。病気の診断は、教科書どおりにはいかない。手探り状態なのである。
第一、病気は、診断をすれば終わりというのではない。診断を下してからが問題なのだ。しかし、試験は、答えを出したら、診断を下したらおしまいである。それでは、何のために医療があるのか解らない。
条件が変われば、答えも変わる。一定の条件はなく。条件以外の要素も働く。病気の原因が特定できれば治療の方針もたてられるが、特定できなければ対策も立てられない。しかも、その診断や治療の正しさは、結果しか出せない。つまり、答えは、結果が出すのである。これが、現実なのである。
答えを出せば終わる。終われば、試験勉強から解放されて楽になる。そういう環境に慣らされると、すぐに、答えを、出したがる。出せば、その答えに、固執することになり、融通が利かなくなる。答えには、出す必要が、なかったり、出せないものが、あることを忘れている。また、長い時間をかけて答えを導き出さなければならないのが、現実にはたくさんある。人生がいい例である。現実では、一度正解になって答えが、後で間違いになることもある。その逆もある。一度出した答えに固執したら生きていけない。
試験に出される問題は、基本的には、受験者とは無縁だ。試験問題を解いたからと言って、自分の試験の成績に関すること以外の、悩みが、解決されるわけではない。試験に出される問題は、学ぶ者にとって必要がないから、興味も関心もない問題なのである。興味も関心もないことのために、長時間にわたって拘束される。これは、一種の拷問である。
まだ、興味がある分、余程、テレビゲームの方が洒落ている。しかし、テレビゲームも地獄のよう現実からの逃避にすぎない。だから、のめり込んでいく。
試験の答えを採点するためには、一定の答えが準備されていなければならない。試験問題を作るためには、勉強の内容を標準化しておく必要がある。試験勉強を教えるためにも、いつでも、答えが出せるようにしておく。あらかじめ答えを準備しておく必要はある。しかし、用意した答えも、状況や条件が変われば違ってくる。
子供達に与えられる問題は、基本的に、試験をするためにの問題である。それは、あらかじめ設定されいて、狭くて、完結した問題である。前提条件もきわめて特殊で、現実にはあり得ない条件が設定されている。現実の問題には、まれな特殊な例、あったとしても、あまり現実に役に立たないか、単純な場合、しかない。
だから、現実の問題には、ほとんどこれらの問題は役に立たない。
歴史において、年代の暗記は、無意味だ。しかし、試験をするしかないから、意味もないことを暗記させるしかなくなる。意味もなく暗記をさせる方も辛い。辛さを感じなくなったら、お終いだ。歴史から何を学ぶか、その本質が失われている。
先生は、苦し紛れに言う。これは、試験の為の勉強なんだよな。
本当の問題は、現実にある。ところが、学校では、問題を、現実から切り離して設定する。これでは、問題を現実に置き換えることができなくなる。現実にはあり得ない問題、絵空事の問題、架空の問題を解かされ、その解答によって評価される。子供達は、現実からどんどん遊離していき、最終的には、現実の問題を解く能力も、気力も失ってしまう。
今の教育の間違えは、答えを出させようとすることにのみ、精力を費やしていることである。しかし、重要なのは、むしろ、問題の設定の方にある。
きちんとした、問題を設定できれば、答えを導き出すことは、比較的簡単だ。難しいのは、現実の世界から問題点を見出し、それをきちんとした問題として設定することである。
子供達は、あらかじめ答えを用意された問題を、これもあらかじめ設定されたやり方で解くことを強要される。しかも、与えられた時間内で問題を解かなければならない。これ以外の答えは、許されないのである。ひどい場合は、採点後の解答用紙すら見せてもらえない。こんな無茶は、他の世界では許されない。点数だけが必要だというのか。
与えられた問題を、与えられた時間内に、与えられたように解く。実際の人生や、現実の社会では、このようなことはまれである。同じ問題を、全員が、一斉に解くから平等なのだという。もし、それが真の平等だとしたら、平等なんてくそくらえだ。平等とは、そんな次元の低い問題ではない。自分たちが、管理しやすくする為には、今の試験制度が一
番都合がいいだけではないか。
試験に合格することばかりを求めていたら、解答を出すことしか考えられなくなる。だから、言われたことしかできない人間が増殖する。逆に、言われたことは、言われたように何でもしてしまう。そこには、自分の考えや判断が働く余地がない。これは、一種の精神異常者である。つまり、現行の教育は、精神異常者を大量に生み出しているのだ。
試験が悪いわけではない。試験が教育の全てを支配していることが悪いのだ。
一度、社会制度として定着すると、いろいろな利権が発生する。その利権に結びついているものが、その制度を守ろうとする。
試験制度にも同様な現象がみられる。試験制度は、いろいろな利権を生み出してしまった。そして、その利権に群がる者は、本来の教育の理想を目指している者を教育の現場から追い出してしまっているのだ。
結局、現行の教育の目的は、試験に、合格することのみだと、断言しても過言ではない。だから、試験の合格率の高い先生がもてはやされるのである。
自分たちの都合や思惑を押しつけるのではなく。純粋に子供の事を考えてやるべきである。そうしなければ、教育を良くすることなど、できはしない。
未来は、子供達のものだ。悪いとわかっていながら、子供達に、与え続けるのは、全人類に対する罪である。
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