教育について
教育と思想
教育は、基本的に思想的なものである。
現代日本の教育には、思想がない。だから、どうしたいのか、どういう子に育てたいのかさっぱりわからない。
多くの教師が、民主教育の名の下に、教育の現場に、思想教育を持ち込む事を、拒否している。その結果、雑多の思想が便宜主義的に入り込み、子供達の考え方を汚染している。近代国家は、思想によって成り立っている。思想教育を怖れていては、近代国家は、成立しない。特に、民主主義は、思想的な国家体制である。民主主義に対する教育がなされなければ、民主主義国は成立しない。
反体制的、反国家的思想を民主的、自由主義的だと思っている教師を多く見受けられるが、これは、明白な間違いである。
問題なのは、その国の思想であって、教育上の問題ではない。その国が、目的とするところに、反する教育をするのは、国家国民の意思を無視することである。
それは、戦前において全体主義や国家書義、軍国主義に対する反省からきているにしても、国家国民の意思を無視して、その国の子弟に個人的に教育する事は、思想教育としても最も下劣だ。反体制や反国家も思想である。それを教育の現場で、保護者、国民の了承もなく、個人的に子供達に施すのは、独善であり、一種の独裁である。全体主義や国家主義、軍国主義に対する抵抗は、公の立場としてするべきであり、教育の現場で、しかも、陰に隠れてするものではない。
今の我が国は、無政府主義が横行している。
現在の我が国は、少なくとも制度的には、国民国家なのである。
民主主義は、思想信条の自由を重んじるので、思想教育するのは、許されないと考えるのは、無知な者である。なぜなら、民主主義こそ理念的で、思想的な体制だからである。
思想的なものを無条件に否定することではなく、民主主義の理念を確立し、それを教育の中心に据えることである。
教育を論じる時、言論の自由や思想、信条の自由、結社の自由を持ち出す者が多く見受けられる。それを主張する者の多くが、自分は、思想的には、中立だと言い出す。特に、メディアの人間や知識人という人間に多くみられる。しかし、待ってくれ。本当に中立的な思想というのは、あるのだろうか。それよりも、思想ではないと言って、思想を植え付けられることの方が、ずっと恐ろしい。
組合運動は、基本的な権利の一つである。しかし、労働運動の思想と教育思想とは違う。教育の現場に組合の論理を持ち込むのは、間違いである。それは、政治的な目的に教育の現場を利用しているだけにすぎない。
偏向している人間に、偏向していると言われる事くらい、腹が、立つことはない。真ん中も左から見れば右である。
戦前の体制も、国家として、当然、必要な項目を持っていた。それを一切合切、封建的、軍国主義的と否定するのは、乱暴で野蛮なことだ。
問題なのは、それが軍隊と結びついたことにある。
愛国心もその一つである。
それに、反体制的な人間にこそ、愛国心は求められる。反体制的な人間に愛国心がなければ、それは、ただのへそ曲がりだ。なぜなら、国を変革しようという情熱は、愛国心から発するからである。それ以外の動機があるとしたら、それは、不平不満、個人的な恨み、辛みでしかない。
アメリカ人やフランス人の愛国心は、多くの戦争の時、明確に示されている。民主主義国ほど愛国心が強い。共産主義国は、絶えず愛国心を鼓舞している。愛国心は自然の情であって、主義主張とは関係がない。しかし、戦後の我が国の知識人は、その事を認めようとはしない。
教師の中に、反体制的、反自由主義的な思想の持ち主が多く含まれていることが、問題なのである。それも、愛国心なき、反体制思想である。
思想的に中立であるべきだとして、教育現場には、明確な思想がないことに、建前ではなっている。しかし、自覚しているかいないかは、別に、思想がなければ、教育は成り立たない。さもなければ、教育の統一性は保てない。
ただ、明確にされていない以上、表面に現れた現象から類するしかない。
では、いったい、今の学校の現場の背後にある価値基準、つまり、思想はどのようなものであろう。
生徒の全人格と能力を数値情報に置き換え、序列をつけることによって、選別をする。数値化できないものは、選別の基準、すなわち、評価しないというのが、制度面からみた根本思想である。
そのうえで、教育に携わる者の言動から、彼らの行動規範を推測すると、次のようになる。
試験制度を大前提とし、教科書によって標準化された知識を、集合教育によって画一的に教え込むという事である。
そのうえで、学校の価値観を具体的に、教育者の言動から要約すると、成績が全てで、後は、仲が良ければそれで善いということになる。なぜならば、学校が子供達を管理するためには、最も、都合がいいからである。つまり、現行教育の思想の基本は、いかにして、試験制度の下、生徒や学校を管理するかにつきる。
集団生活や集団行動の為の論理が基本なのだというが、実態をみると、結局は統一と調和であって、全体を一つの単位として、それも管理の単位として、まとめているのにすぎないとしか思えない。
それは、あくまでも管理のための論理であって、集団生活を習得するための本来の思想とは異なる。なぜなら、集団生活や集団行動の基本となる理念が、欠けているからである。
かつては、子供の喧嘩に親は、口を出すなと言われた。それは、子供の世界を一つの自律した社会として尊重し、子供達の健全な意志を、育てようと意図したからである。この様な姿勢は、民主主義社会の基本的理念である。そして、この様な姿勢こそが、子供達に、集団生活のルールと知恵を身につけさせるための論理なのである。
しかし、今の教育現場からは、そのような理念が見受けられない。あるのは、事なかれ主義と官僚主義であり、競争の原理による人間関係の分断である。つまり、集団を個々人の内面的な価値観によって自律的に統制しようとするのではなく、競争の原理によって人間関係を分断し、いくつかのグループに分割した上で、階層的な差別によって、集団を外部から管理しようという思想である。この様な考えに沿って集団を管理するためには、極力管理される側の人間に自律的な意志を持たせないことである。そして、この思想を制度的に支えているのが、試験制度と偏差値である。
集団が、自分たちの論理によって自分たちの規律を作り、それによって自律的に秩序保つようにする。それが、民主主義教育の本来のあり方だ。しかし、それを教育の現場では認めない。いい例が、イジメと自殺である。
本来、弱いものイジメは、その集団の中で解消させるべきものだ。かつては、どの集団でも、ガキ大将がいた。そのガキ大将が、掟という不文律を定め、指導力によって弱い者イジメを封じ込めてきた。今の学校では、ガキ大将や校則以外の掟の存在を認めようとはしない。しかも、イジメられる側の人間に、イジメをはね返すような強い自律的な意志を育もうとはしない。そして安直、いじめた側をすぐに悪者に仕立てる。ていのいい責任の回避だ。それでいて、自殺が、一番悪いとも言わない。だから、弱い者は自殺によって問題を解決しようとする。いや、そうするしかないのだ。その結果、集団の統制は効かなくなり、反面、個人の意志は弱くなった。結果、イジメは、歯止めをなくし。耐えるだけの意志をなくした者は、死んでいくのである。
数値に、すなわち、成績に表せないものは評価しない。これが試験制度下における教育の論理である。そして、これが受験戦争を生み出している。受験戦争は、受験地獄でもある。全ては、成績よって判断される。人格もだ。すなわち、成績が全てなのである。
陰でどんなに良いことをしても認められない。善行は、成績には、反映されない。そんなことをする暇があったら、勉強をしなさいと叱られる。どんなに正しいことをしても、ほめられはしない。逆に、和を乱すと責められる。
これも明らかに思想である。
問題なのは、この様な思想が、無自覚なままに、教育の現場を支配していることだ。
そして、教育の現場で決定的な役割を果たしている成績の根拠となるのが、使えない英語、不必要な高等数学、死んだ歴史、無意味な法則なのである。これでは、子供達は救われない。
結局、教育の基盤となる思想がないから、教育の目的が、見失われるのだ。目的がハッキリしないから、とりあえず、成績で全てを計ろうとする。その成績の根拠には、何の内容もないのだから始末が悪い。
歴史を学ぶ意義は、生き方を学ぶ事にあって、年号を暗記することではない。しかし、生き方を、試験の問題に反映する事はできない。試験をするために、意味もなく年号を暗記させるのである。しかし、一度試験の結果として成績が、実体を持つと成績だけが一人歩きを始める。今の教育制度は、結果的にみれば、この様にして成立したとしか考えられない。元々、教育としての魂がないのである。何の根拠も実体もないのである。
教育そのものが、何の理念も、目的もなく、既成事実を積み上げたものにすぎない。学力の向上といったところで、実社会に通用しない学力では、意味がない。ゆとり教育といったレッテル貼っても中身がない。そんな、意味のない、とってつけた理由を付けるのは、やめるべきだ。
最近、世話をみようとしたり、面倒をみようとすると素直に応じない人間が増えている。私にも覚えがあるが、人の好意を素直に受けとめられないというより、何か、魂胆があるのではと、ついうがった見方をしてしまうのである。相手の魂胆が見え見えの方がかえって安心する。そのくせ、相手に利用されることを極端に嫌う。臆病なのである。そして、そういう、自分がまた、いやになる。その繰り返しである。
まず、最初に隠し事や嘘があったら、信頼関係は築けない。現行の教育制度には、最初に嘘やごまかしがある。土台からして教師と生徒の人間関係はもろくできている。そりうえ、受験戦争によって友人関係は、ずたずたに引き裂かれる。この様な人間関係の中に長くおかれたら、なにも、信じられなくなったとしてもおかしくない。人を信じることを教えられない教育なんて最低だ。今の教育は、人を信じることを教えるどころか、人を信じられなくしてしまう。
人の世話や面倒をみるのは、目先の利益だけが目的ではない。志を同じくしたり、愛情があれば、人の世話をしたり、面倒をみるのは、親が子供の面倒をみるのと同じ事であり当たり前なことだ。何ら不自然なことではない。かつては、親子関係だけでなく、師弟関係、先輩後輩関係といった人間関係の中では、当たり前にされてきた。この当たり前にされてきたことが、最近では当たり前ではなくなってきたのである。根本にある信頼関係が揺らいでいるのである。
しかし、人間関係の根本にあり、その信頼関係をを支えてきた思想が失われれば、快楽か、損得計算しか残らない。それでは、欲望か、金だけの人生になってしまう。
思想がなければ、結局、快楽主義しか残らない。それは、現在の教育に端的に現れている。今の教育には、モラルがない。だから、打算しかない。人としての生きる道がない。ただ、利害得失だけに支えられた人間関係でしかないのである。思想のない教育は、魂のない肉体のようなものだ。骸にすぎない。醜悪なだけである。
命の尊さを教えないかぎり、イジメも自殺もなくならない。試験でいい成績を取ることよりも、友達とうまくつきあえないことよりも、命の方が、よほど大切なのだ。
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