教育について
民主主義教育の目的は、自己の確立である。
民主主義の根本は個人主義である。根本の個人の確立が、教育の目的となる。その個人の核が、自己である。故に、民主主義教育の最終的目的は、自己の確立にある。
自己の確立とは、自己の善悪の判断を、自己を基本にして、できるようになることである。自己の価値観を基礎とした個人の自由意志を、最大限に尊重することによって成立する社会、それが個人主義社会であり、民主主義社会とは、この個人を単位とした社会を言うのである。
個人主義というのは、自己中心の思想である。自己中心というと、これまた、錯覚する者がいる。自己中心と言う事は、自分さえ善ければ、何をやってもいいという事だと言い出すのである。そういう人間にかぎって、たいがい、自分さえ善ければの部分が抜け落ちて、何をやってもいいと言うところだけが残る。前提は、自分が善いことをしているという事だ。しかも、善いという部分を自分勝手に解釈して、自分の行為を正当化する事を意味しているのではない。
個人主義の前提には、個人としての価値観がある。つまり、根本に善悪の基準がなければならない。そして、その基準に基づいて、その人の行為が、計られるのである。行為を正当化するために価値観があるのではない。
元々、自己中心主義には、個人主義と利己主義がある。利己主義は、自己を確立することなく、つまり、主体性がないのに、自己の欲望や感情の赴くままに行動し、それを正当化しているに過ぎない。そこに、正義はない。
教育の目的は、生きていくのに必要な術や知識を身につけさせることである。つまり、確立された自己が、自力で、現実の社会を、生きていけるようにする事である。いくら学術的であっても、使えない英語を教えることではない。なぜなら、それでは、英語圏の国に行ったら生きていけないからである。
生きていくために必要な知識は、一般常識である。ところが、この一般常識が、学校では育たない。なぜならば、学校においては、一般常識が通じず。教育の現場に携わる人間に一般常識がないからである。それに元々、教育現場では、一般常識を教えることを目的とはしていないのである。つまり、一般常識を必要としていないのである。そのうえ、教育現場は、一般社会から隔絶され、隔離された特殊な社会である。これでは、一般常識が身につくはずがない。
しかも、教育の現場に社会一般の常識が通用しない。それが最大の問題なのに、誰もそれが異常だと思わない。
その人にとって有意義な事とは、その人にとって必要なことだ。その人の人生にとって不必要な事は、有意義なことではない。無意味な事だ。確かに、学問の世界には、一見して不必要な事に見受けられることもある。ただ、それも長い目で見れば必要なことである。必要なことには、違いがない。有意義であるか、ないかの基準は、自分にとって必要であるか、ないかだ。
必要なことを教えないで、必要のない事を意味もなく教えている。
なぜ、歴史を学ぶ必要があるのか。それを考える上で、歴史から何を、学ぶのかという視点が、欠けている。それでは、歴史を学ぶ目的も意味も見いだすことはできない。だから、どうでも良いことを暗記さて、歴史を嫌いにさせても平気でいられるのだ。理由はどうあれ、歴史教育をした結果、歴史を生理的に受け付けない生徒を生み出したら、その教育は、有害なだけで、何の益もない。
得にならない人間とつきあえば、人生、損をしてしまう。人間関係の基本は、損得勘定である。ところが、得か損かという基準で、物事を測る事を、卑しい事と教育している。処世術は、みっともない事だとも。その為に、現実を直視する眼が養われない。、それでは、損得勘定のできない人間ばかり育てしまう。確かに、世の中、損得勘定だけで、わたっていけるほど甘くはない。しかし、損得勘定を頭から、否定してしまうのはおかしい。重要なことは、一人前の社会人を育てることなのだ。
現実を、正しく認識できないのは、子供である。常識のない、現実離れをした者が、隔離された特殊な世界で、観念だけの抽象的な事を、意味もわからずに教える。結果は、世間知らずで、常識のない人間を大量生産することになる。
放任的なものであろうと、知識偏重なものであろうと、教育に方針がある限り、思想は不可欠である。ものを教えること、それ自体に何らかの思想が、自覚しているか、無自覚であるかは別にして、入り込んでいる。人を指導する立場にある物は、すくなくともそのことを自覚していなければならない。それでありながら、自分は、思想的には、中立的だと言い張る。これでは、子供である。
繰り返しいうが、生きていく上で、必要な知識や術を、身につけさせること、これは、教育にとって不可欠な命題である。
この必要性を、教育の現場では認めない。認めないどころか、否定的ですらある。学問とは、この世に、不必要なことを、教えるから意義があるとまで、言っている教師がいる。そこまで言わなくても、学校で教えることは、もともと、世の中には役に立たないものだ、学校は、処世術を教えるところではない、それに、本来、教育の目的は、世の中に出て役に立つことを教えることではない、そういうことは、家庭で、教える事だと、多くの教師が主張している。
英語教育で言えば、教師の発音を治すことが先決である。そうしないといつまでも、使えない英語を教え続けることになる。しかし、それが大事なのである。高邁な教育論を論ずる前に、現実を直視するべきである。
学校では、金儲けの仕方は、教えてくれない。教えてくれないどころか、金儲けは卑しいことだと教え込む。ところが、実際の社会ではお金は大切なものだ。子供は、価値観の狭間で悩むことになる。結果、現実をとれば、学校社会では嫌な奴になる。彼らもイジメの対象になる。どうする。どうする。
いいじゃないか、学校は学校、現実は、現実と使い分けるか。学校ではいい子、でも一歩外にでれば・・・。こうして子供は、小ずるくなる。これが、教育的効果か。
学校で教わったことは、いざという時や肝心な事には、何の役にも立たない。これでは、子供達は、学校に行く気になるだろうか。学校で、何を、学べばいいというのだろうか。
教育の目的は、子供達を絶望させることでも、自信をなくさせることでもない。子供達に、幸せな一生を送るための術を、教えることだ。
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