集    合


 銀河に散らばる星団。変幻自在に結び付いては、物質を形成する原子の世界。静止しているものもその内は、動めき、変化している。目に見えない空間にも、空気や細菌が満ちている。森羅万象、集合離散を繰り返しながら生成発展をしていく。コロイド。
 ただの音の組合せが、なぜ、人を幽玄の世界へ誘うのだろう。美は乱調にあり。音の動き、音の塊が魂を揺り動かす。乱れて。乱れて。
 沸き上がる入道雲。うねる大波。カオス。一塊に見えるものもよく見ると細かい粒子の集まり。
 混沌。乱雑とし、不規則で無秩序にみる集団の動きもよく見ると秩序や規則がある。大海原を回遊する魚の群れ。
 流れ、渦巻、砕かれまた、凝縮し、凝固し、集中する。山野を流浪する野猿の集団。みんな違って見えるが、その中に、共通していることが、隠されている。大地を疾駆する野牛の群れ。渦を巻き、ぶつかり合い、暴走する。一見、脈絡も、意味もなくうごめいているかのように見える塊も、その背後には、偉大な力が働いている。
 自由を求め権力に立ち向かっていく大群衆。血に飢え、歴史を塗り変えた大軍団。一人の力で何ができると言うのか。人は、力を合わせてこそ大きな仕事ができる。烏合の衆も組織され訓練されると爆発的な力を発揮する。なんとだいそれた事をしたのか。徒党を組むと、日頃あんなに弱く、臆病な人間でさえ大胆に狂わせてしまう。集団は、力。集団は、狂気。人は群れると爆発的な力を持つ、そして、狂う。欲望と怨念が、かたまり、人の世を作る。人は、群れたがる。混乱。雑然。類は友を呼ぶ。人は出会い、別れ、やがて一組の夫婦ができ、子が生まれ、一家を為し、そして、一族となる。山野に散らばる集落もやがて街に発展し、都市となる。子供達は、子供達の集団を作り、仲間となって活動を始める。家を離れ、新たな家を興す。この様に家族は、地域社会に、地域社会は国家に、国家は国家連合に発展し、吸収されていく。細かい雨は、河となり、大海に注ぐ。集まり、集まり、そして、離散する。集合。
 この世界は、いろいろな要素の集合体である。人間の肉体も、肉や骨、血液といった個々の要素の集合体と考えてもさしつかえがないのである。肉も、また、細胞の塊である。青空に広がる雲は、一つの塊に見えるが、実体は、水滴の集まり。全体を構成する個々の部分もよく見ると、いろいろな要素の集合体である。また、一つ一つは、何の意味も力もないものが、集まって一つの全体を作ると一つの意味や大きな力を発揮することがある。つまり、この世は、いろいろな要素の集合体であると同時に、いろいろな要素は集合するとまったく違った働きや機能、運動をする事があるのである。
 同じ人間の集団でも、よく訓練され組織化された集団と烏合の衆とは違う。同じ炭素の結晶体でも、黒鉛とダイヤモンドとは、硬度が、全然違う。この様に、個としての存在が、集合したり、集団となるとまったく別の意味を持つことがある。また、集合体の内部、外部に、そして、自律的に、他律的に働く力によって集団全体の働きや動きに違いがでくる。特に、人間の社会においては、顕著である。それ故に、個としての存在や運動を問題にするだけでは、人間の行動を理解することはできない。集合を構成する個々の要素の働きを全体として捉えると個々の働きや機能がより明確になるのである。
 社会は、民族、宗教、男女、人種、思想、世代といったいろいろな集合の集合体である。それを前提にして建国されたのが民主主義体制である。それ故に、それらの集合を尊重しながら、前提の集合を、一つの構造によって統治しようというのが、民主主義の基本概念である。そのために、必然的に個々の集合体の個性や同一性を妨げずに、いかに個々の集合を全体の集合によって包括するかが重大な問題になるのである。そのためには、個々人の思想信条、人種や民族といった個人の属性に関する是非を問題にすると、集合全体と部分を構成する集合の整合性がとれなくなる。全体と部分との整合性を保つためには、個としての人間の共通した部分のみを対象にしなければならなくなる。そして、その共通項の中で、国家社会関係を、維持していくための最低限の取り決めを、制度化する事によって成立しているのが、民主主義社会なのである。それ故に、民主主義社会において基本的には思想信条の問題ではなく、制度的、また、技術的なことが最大の問題となるのである。そして、国家、社会を個人の属性から切り離して、純粋な個としての個人を、基本単位としなければ社会全体の土台となる前提と部分が、対立することになってしまうのである。つまり、民主主義体制は、国家、社会を個人の集合体として規定し、個人を基本単位として成立している社会なのである。個人の集合としての社会を前提とする以上、民主主義体制の成否は、いかにして個人を純化し、個人に対する概念をいかにして確立するかが鍵を握るのである。
 近代以前の社会では、個々の集合体が独立していて、相互の交流が少なく、比較的単純な社会であったが、今日、個々独立していた集合体が混ざりあい、社会そのものが、複雑化してきている。つまり、近代以前の社会集団は、閉ざされたものであったが、今日の社会は、開かれ、相互に交流しあう社会なのである。
 この様に、いろいろな集団が、混在した社会が、常態化したのが、今日の世界の姿なのである。このことは、近代社会が、拡大するに従い、深刻な対立や、社会不安を、引き起こす原因となっているのである。この様な、対立や社会不安を解消するためには、単一した世界観から、複合的な世界観へと転換し、それらを共存させる事の可能な体制を確立することが、今日、人類に課せられた急務なのである。そのためには、個々の民族や人種の相違点ではなく、人類の共通点によって立ついがいにないのである。つまり、民主化は、人類を標準化していく一面に持っているのである。そして、それが、民主化の根本的な理念でもあるのである。それ故に、民主主義において人間性が協調されるのは、当然の帰結なのである。
 民主化が推進され、また、民主化を実現しなければならない動機は、この様な歴史的な転換に求めてみてもおかしくないのである。つまり、民主化が実現されないかぎり、個々の集団間の摩擦や抗争は跡を立つことができず、最終的には、同じ天を仰げないほどの亀裂に、発展する可能性をはらんでいるのである。しかも、今日のように兵器が発達している世界では、大国間や民族間の争いが、人類の滅亡といった事態まで発展する危険性を、常にはらんでいるのである。また、今日、人類が抱えている問題点は、地球的規模にまで発展し、世界中の国々が体制や思想の差を乗り越えて共同していかないかぎり、抜本的な解決が不可能なのである。それ故に、この様な対立や争いに終止符を打ち、人類が恒久的な平和を実現するためには、どうしても、世界の民主化が達成されなければならないのである。そして、私達が民主化を推進するためには、この社会の、集合性や複合性を正しく理解しておく必要があるのである。
 数学で言う集合は、先ず最初に数があるが、実際の集合は、ものがまず最初にある。物質は、原子の集合、また、人間が細胞や血液、骨の集合である。数学的な集合は、この様な集合体から定量的な側面を抽出したものである。集合体の定量的な側面を抽出する事によって数の概念は形成された。故に、数の概念は、高度に抽象的な概念である。しかし、ここで扱う集合は、数学的な集合だけでなく、より実体的なものをも含む。即ち、我々の対象とする集合とは、ただ、ものの集まりと言うのではなく、個々の要素が各々属性を持ち、あるいは、個々の要素が働きや、機能、運動を持った集合体をも含むのである。そのうえで、物体を何等かの集合体として捉え、個体としての動きからだけでなく、集合体としての運動として考えるていくのである。また、更に、集合の概念によって対象を分類、分析するための基礎的な理念を明らかにするのである。
 また、集合は、事物や概念、体系の集まりでもある。集合は、事物だけでなく、命題や法則の集合もある。書物は、言葉の集合である。この様に、集合を構成する要素は、事物とは限らないのである。集合は、それを構成する要素によって性格づけられるのである。
 集合の働きを知るためには、集合を構成する要素を知らなければならない。しかし、集合の要素を知るという事は、塊としての全体を分解し、抽象化する効果も副次的に派生させるのである。そのために、集合の概念は、対象を分析する重要な概念に発展するのである。
 人間が最初に外界を認識する時、対象は、色と光の塊に見えるそうである。また、言葉も判別できず、雑音に聞こえると言うことである。
 人間の認識は、対象を一つの全体として捉えることから始まる。つまり、人は、対象を一つの塊として最初は捉えるのである。塊である実体を特定の次元に照射することによって対象の特性を引き出すのである。人間の観念は、この様にして一旦とらえた対象を、他との比較によって、より高次元のものに昇華、一般化、対象を構成する部分や要素に分解する過程で形成されるのである。集合の概念も、相対の概念もその過程で生じたのである。
 抽象とは、観念に投影された対象の陰影に他ならない。この様な抽象的な概念は、最初は、部分としてではなく、一つの全体として捉えられる。しかも、何を全体とし、何を部分とするかは、任意な意思によって決まる。
 全体と部分は、何を基準にして対象を測るかによって違いがでるのである。故に、全体と部分に対する概念も相対的なものである。集合とはものの集まりである。人を一己の人間として見なすか、組織や社会の一部と見なすかは、その人を問題にしている事柄の性質や目的によって決まるのである。
 対象を一つの塊とみるか、また、ものの集合としてみるかによって対象の捉え方に差がでるのである。人は、一つの塊としての運動か、そのもの自体に関心を持つのである。我々は、人を観察する時、その人自身か、その人の行動に関心があるのである。運動に関心を持ってば力学的な方向に向かい、そのもの自体に関心を持っては分析的になるのである。
 また、対象を一つの塊として捉えようと、集合体として捉えようと、対象を他のものと分割した段階で対象は相対的なものとなる。
 人間は共通のいくつかの要素を持っているが、誰一人として同じ人間はいない。また、人間は、概念や観念によって人間を、識別していてるわけではない。本質的に人間は、直感によって人間を識別しているのである。つまり、人間は、たとえば、太郎さんなら太郎さんを、一つの完成した全体としてまず捉えるのである。そのうえで、他との比較によってより高次の人間として一般化したり、手や足といった部分を識別していくのである。
 対象を識別する過程で、対象を条件づけ、いくつかの全体、ないし、部分に分割をする。それは、実際に対象を分解する場合もあるが、観念の上で行うこともある。そして、この様に集められたものを特定する事によって集合の概念は、形成される。この様にして形成された集合の概念は、数の概念と結び付くことによって更に整合化される。
 任意の集合を一つの体系に映し、集合の特性を分析する事を写像という。一つの集合を基準系や次元に写すことによってその集合の特性を分析したり、幾つかの集合に分割し、分類することが可能となる。この様に、集合体を基準系や次元に投影する事を写像といい、また、分割された集合を部分集合と言うのである。
 二つの集合の間に一方の値を決めると他方の値が決まる一対一の関係が成立する時、両者の関係が関数的な関係にあるという。つまり、二つの集合の元が何等かの規則によって一対一の関係で結び付けられている関係を関数関係と言うのである。また、関数関係によって一つの集合が他の集合に写し替えることを写像と言うのである。
 対象を何等かの次元に写像する事によって集合を単純化し、抽象化する事ができる。単純化、抽象化することによって更に集合を特定する事ができるのである。単純化、抽象化を突き詰め属性を総てはぎ取ると数が残る。この様にして、任意の集合が特定されると、集合は、何らかの要素やものの集まりになる。要素やものの集まりとしての集合の概念が成立すると、今度は、逆に、要素や前提条件によって集合を特定する事が可能となるのである。つまり、前提条件や定義によって集合を特定する事ができるようになるのである。
 この様にして定義された集合とは、ある特定の性質や定義によって条件づけられたものや要素の集まりである。特定の性質や定義によって条件付られた集合には、個々の集合それぞれ固有の属性を持つ。つまり、定義することによって集合の持つ性格がより鮮明になるのである。ただし、数学的な次元まで抽象化がすすむと集合の属性は数値的な性格に限定されてしまう。対象の持つ属性を知ることによって個々の対象は、属性毎にいくつかの範疇に分別され、集合化される。この様に、対象を属性によっていくつかの集合体に分別する事を分類という。前提条件や性格付を高めるほど集合は、細分化され、組分けされていく。この様に組み分けされた組を、体系的に整理する事によって、科学は、進歩したのである。
 集合化とは、対象を抽象化、単純化する過程で、体系的に組み立て、整理する事を意味する。抽象を突き詰め対象の属性を取ると、数という性格だけになる。数は、対象の属性に拘束されない性質である。それ故に、対象を抽象化する事によって科学は、数学という共通の言語を持つことができるようになったのである。単純な次元に対象を還元する事によって対象を、より多元的空間的に捉えることも可能となったのである。この様に、集合の概念は、近年、科学、数学の基礎理念として再編成されつつあるのである。
 任意の対象を特定の基準系に写像すると対象の個性がより鮮明に浮き上がることがある。この様に、対象を単次元的なものに還元することは、対象の分析にとって有効な手段である。対象は、複数の要素の集合体である。多元的な対象をそのまま認識するより、単純な像に還元した方が、対象の性格の輪郭をとらえ易くなる。この事によって対象の個性をより鮮明にする事ができるのである。
 単純な次元を組み合わせることによって対象をより立体的に捉える事ができるようになる。同時にそれは、対象を相対的な次元に置き換えることを意味する。次元を組み合わせることによって相対的な関係を明らかにすることが可能となるのである。この様にして人為的に作られた空間に対象を一体一に対応させる、即ち、関数関係を成立させることによって、対象間の演算も可能となるのである。
 相対的関係を一次元的基準に置き換え、その基準系を組み合わせて対象を分析することを線形分析という。組み合わせる基準の数で対象を分析する次元の数が決められるのである。例えば、左右、上下、強弱、高低、善悪といったものである。この様に基準系を組み合わせることによって対象を多元的に分析すると共に一次元的な基準に還元することが可能となるのである。お互いに独立した関係の基準系を線形独立という。その基準の中心、または、原点は自己の投影である。つまり、自己を対象に投げ出して客観的視座の中心とした点が原点である。
 現実の対象は、非線形的なものが、ほとんどである。しかし、理念的に対象を捉え、それを応用するためには、線形的な扱いは、極めて有効である。
 対象を短次元的なものに還元することは、対象を分析する為には、極めて有効な手段である。しかし、だからといってその対象と基準系を同一視することはできない。例えば、性的次元に人間の性格を投影する事は、人間の精神構造を分析する手段として有効であることは、立証されている。しかし、だからといって人間は、性的な存在であると断定する事は、間違いである。元々、人間は多元的な存在である。人間を性的という単元的な次元に投影するのは、その人の持つ特性を分析するための手段に過ぎない。その人の実体を知るためには、いろいろな次元を掛け合わせて多元的なものに再構成しなければならないのである。
 集合を構成する元の範囲は、定義付けや条件付によって設定される。集合は、定義や条件によって範囲が限定される。言い替えれば、集合は、定義付や条件付によって値域や領域が設定されるのである。値域や領域が設定されることによって論理的な厳密性は高まるのであるが、反面、この事は、対象に対する概念が、対象から遊離し、概念が対象を逆に限定する傾向を生じさせる。つまり、集合に対する定義、つまり、概念付が対象の性格を逆に限定することにもなるのである。特に、数学に於てその傾向は顕著である。そのために、現実の集合を考える時、単純に数学的なものだけに還元することは、困難である。
 集合には、形而上のものと形而下のものがある。そして、形而下の集合には、有機的集合と無機的集合がある。形而上的な集合とは、数学や論理と言った観念によって形成される集合である。形而下の集合とは、実体的なものの集合である。今日、形而上的な集合概念が、形而下の集合概念より発達している。また、形而下の集合の働きや運動は、形而上的な力に支配されているという観念が、近代科学の基礎を形成している。つまり、形而上的な集合ではなく、形而下の集合体の働きを考える時、集合体に形而上的な力がいかに作用しているかが重要な問題である。そのために、形而下の集合は、形而上的な集合概念の下位におかれる場合が多い。しかし、現実の社会は形而下の集合体が主である。現実の社会を理解するためには、形而下の集合概念の解明かと確率が肝心なのである。
 形而下の集合概念には、有機的な集合と無機的な集合がある。今日、無機的な集合に関しては、自然科学の発達によって、形而下の集合の概念が確立されていないとはいえ、かなり研究が進んでいる。それに対し、有機的な集合に関しては、まだまだ、研究の過程である。しかし、人間の社会に一番近い集合は、有機的な集合であり、国家や経済活動の解明にとって重大な鍵をこれから握るものと思われる。
 今後は、社会科学の分野においても集合の理念は、重要なものになるであろう。例えば、日本人とか、有権者というものをどの様に定義するかによって政治経済の根本まで変革させてしまう可能性がある。しかも、この事は、国民の権利と義務の及ぼす範囲を特定することを意味することになるのである。日本人、ないし、日本国民と言うものをどの様に定義するかは、日本人という集合を確定することを意味するのである。そして、国籍に基づく権利を基盤とした社会においては、法的に定義される事によって確定される、日本人の集合の範囲が、重要な意味を持つことになるのである。この様な問題を扱う場合、集合の定義を明確にしておく必要がある。ところが、この様な日本人に対する定義によって確定された集合体は、必ずしも、従来、我々が、直感的に捉えている日本人像と同一なものになるとは、限らないのである。
 自然科学は、定義づけによって物理的に集合の範囲が限定できるものが多い。ところが、社会科学においては、この定義や条件付が曖昧で、そのために、範囲が限定できずに値域や領域の境界線が確定できないものがある。抽象化が難しかったりして、性格的に定義したり、条件付る事が、困難な対象は、集合の範囲を確定することが困難である。例えば、政治的な意味での宗教や民族の定義のような問題は、いろいろな勢力の思惑や歴史的な問題が、絡んで一定の定義を特定することが、極めて困難である。つまり、宗教や民族、人種に関して一つの集合としてくくることができない問題があるのである。一つの集団を、横断的にも、縦断的にも、統一された一つの集合として定義する事が、困難なのである。そのために、社会は、いくつもの集団が複合的に重なりあった社会として見なさなければならないのである。
 集合の概念は、元々抽象性の高い概念である。この様な概念を現実に活用するためには、色々と難しい問題を必然的にはらんでしまうのである。ただ、集合の概念は、論理の基盤を成立させているものである。つまり、集合の概念をしっかり理解しておかないと合理的な発想は、成立しないのである。つまり、個々の概念の定義を明確にすることによって論理の基礎が形成されるのである。ところが先にも述べたように、現実の問題には明確に定義することが困難なものが多くある。できるだけ厳密な定義にしたがって論理を組み立てようとしても、どうしても曖昧なものを含んで定義していかなければならないのが現実である。特に、日本人は、勝手にレッテル張り付けて定義を曖昧にしたままで集団をくくってしまう傾向がある。ところが、現代社会は、曖昧な定義で自分勝手に集団を特定したり、それに基づいて議論を成立させるほど甘くはないのである。そのために、日本の政治や経済の合理的な正当性は、極めて脆弱なものになってしまっているのが、実状である。
 現代社会は、社会を形成する集合や要素を、どの様に定義するかによって築き上げられたといっても、過言ではないのである。人間を、民族を、宗教を、国民を、企業を、犯罪者をどの様に定義するかによって、社会の基盤となる思想が、確定するのである。しかも、近代の法治主義は、従来、我々が、直感によって漠然として捉えていた概念ではなく、法によって明確に定義された集合を、その根拠とするのである。つまり、国民をどの様に分類するかが、近代法の根幹を為しているのである。そして、それに基づいて国民の権利と義務が細かく規定されるのである。例えば、成人と未成年者の権利と義務の差、妻帯者や親の義務は、法的に定義された分類に基づいて為されるものである。この様に、集合の概念は、近代法の基盤を形成しているのである。
 現代社会は、集合の塊である。しかもいくつものの集合が重なり合い、さしずめモザイクのような状態を呈しているのである。その上、これらの集合は、人為的な集合もあれば、歴史的な集合、自然発生的な集合もあるのである。近代社会は、市民や国民を思想的に、また、論理的に定義し、人為的な集合概念を土台にして築き上げられてきたのである。この様に、定義に基づいた社会は、その定義を実体的なものとするための手続きが重要になるのである。近代社会に於て合理性や論理性が貴ばれるのは、人為的な集合概念を土台にしたことによる必然的な帰結である。
 人間性と言う属性以外の属性を排除し、人間性以外の属性を自己の自由な判断に任せるのが民主主義である。国王や独裁者と言った個人、全体主義や国家主義と言った権力機構による支配ではなく、国民という国家を構成する要素、元を最小単位として成り立つ国家体制が民主主義である。この事は、民主主義は、より集合的な世界である事を示しているのである
 近代社会を構成する四つの要素、即ち、近代科学、近代会計学、近代スポーツ、民主主義は、集合の理念を何れもその根底に抱いている。形而上的な集合の理念によって形而下の現象を理解し、支配しようとする考え方である。
 現代社会において法や哲学といった形而上的な集合が、土台となって現実の社会形而下の集合を成立させている。物理的な世界も、法則や数学と言った形而上的な集合の論理が形而下の現象を説明するために用いられている。しかし、形而上の法則も、結局、形而下の現象から導き出されたものである事を忘れてはならない。しかも、現実の集合は、カオスである。無秩序で乱れた運動や状態を常に呈するものが多い。現実の現象は、同じ現象を繰り返すことは稀である。ほとんどが二度繰り返されることがない。自然界には、一つとして同じものはないといっても過言ではない。それは、現象が集合的であるからである。この事が観念によって作り出された集合との違いである。そして、現実の社会は、混乱と無秩序の中にあるのである。この様な、無秩序で乱れたものの中から秩序を見いだし、または、秩序を与え、状態を安定させる事が、社会においては平和を、自然においては環境の保護を維持するために不可欠なのである。故に、現実の社会を問題にするとき、形而上のみならず形而下の集合両面から検討する必要がある。
 形而下における集合の研究は、混沌、混乱、雑然としたものや状態、現象の研究である。近代社会が集合の論理を土台にしているならば、人間の社会の出来事も、自然界の現象も集合的な運動を土台にしているといっても過言ではない。流体や状態の力学は、まさに、集合の力学であり、群衆や組織の心理学は、集合の心理学である。この様に、集合は、自然科学、社会科学の根底を為す現象なのである。
 理念的な集合は、線形的だが、現実の集合は、非線形的である。また、個体の運動より集合体の運動の方が当然複雑である。なぜならば、集合体の運動は、全体の運動と部分の運動があるからである。それらが、複合されることによって不確定な動きとなるからである。それ故に、現実の集合体の運動の基礎は、確率、統計的なものである場合が多い。つまり、再現性のない、不可逆的なものがほとんどである。現象は一回かぎり。人間として変わらなくても同じ人はいない。現実とは、このように共通な面を持ちながら各々個性があるのである。




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