報告・連絡・相談


 世の中にでたら、相談や連絡、報告は欠かせない。しかし、それが最近、うまくできない人が増えてきた。それがフリーターや引きこもりの原因の一つである。報告は、人と人とのコミュニケーションの基本、基礎である。仕事は、確認に始まり、報告に終わるとまで言われている。
 家庭でのコミュニケーションが、最近少なくなってきたという話をよく聞く。要するに、学校での出来事を子供が家へ帰ってきて話さなく、つまり、報告しなくなったのである。報告と言うのは、さほどに、日常的で、何でもないことなのである。それができなくなってきた。だから、子供達は、人との付き合いができなくなり、引き籠もることになる。テレビやゲームだけが問題なのではない。家庭内で会話がなくなったことがより深刻なのである。
 報告というのは、コミュニケーションの基本である。例えば、子供が学校で起きたことを親に報告というか、少なくとも、日常的に話していなければ、自分の子供に何が起きているのかを理解することができないはずである。しかも、報告というのは、ただの話ではない。話を聞くだけでなく、それに何らかの応答をする必要がある。そうすることによってお互いの信頼関係は築かれる。つまり、報告というのは、信頼関係の礎なのである。報告がうまくできなければ、健全な人間関係は築けないと言っても過言ではない。それなのになぜ、報告ができなくなってしまったのだろう。
 第一、報告の仕方も、相談の仕方も、連絡の仕方も学校では教えてくれない。それに、報告をしなければならないような状況にない。また、報告をしたところで誰も聞いてくれない。その上、報告したところで、誰かが助けてくれるわけでもないし、何も解決しない。だから、報告しようと思わない。話したところで相手が何の反応もしなければ、報告には成らない。だから、報告は、報告する側と報告を受ける側の双方に問題がある。
 つまり、報告がうまくできなくなった原因には、報告する側だけでなく、報告を受ける側にも問題がありそうである。親子間であれば、親にも問題がある。つまり、報告するのが下手というのは、報告を受けるのも下手だという事になる。子供が一生懸命訴えているのに、聞く耳を持たない親が増えている、そういう実態も隠れているのである。

 報告は何のためにするのか。誰のためにするのか、なぜするのか、それすら解っていない。報告は、他人のためにやると思っている者が多い。確かに、報告を受けた者は、現状や状況を知り、報告者や関係部署に指示を出すために、報告は、不可欠である。しかし、考えてもみよう。だいたい、報告を受ける者は、大体、大勢の報告を受けることが多い。また、自分が実際にやったことではないから報告を受けただけで全てを理解するというのは国難である。それでいて報告を受けることによって責任が発生する。どちらかというと、報告は、受ける側の者に負担が大きいのである。報告は、される側に得るものがないとまでは言わないが、報告する者の方が得るものが多いのである。

 基本的に、報告は、自分のためにするものです。

 報告に対する間違った認識が横行している。それが、報告は、誰のためにするのかである。報告は、報告者が自分のためにするものである。言われたり、指示されたりしてするものでは、本来ない。逆に言われてするようでは、報告は、本来の目的を達成できないのである。

報告は、自分のためにするものである。一つは、自分の頭の中を整理し、仕事を忘れないために。一つは、自分の仕事を評価してもらうために。一つは、自分の身を護るために。一つは、周囲の理解と協力を得るために。一つは、自分が反省するためにである。そして、自分が次に何をやるべきかを明らかにする。指示してもらうためである。いずれにしても、報告される者よりも報告する者の方が得るものが多いのである。

 報告や相談、連絡というのは、難しいことではない。習慣にしてしまえば何気なくできることである。だから、何気なくやっている者に改まって、報告、相談、連絡をしろと言ってもなかなかピンとこない。ただ、それほど日常的で、基本的な事だからこそ、できない人間にとって深刻なのである。何気なく歩いている者が、足を怪我して歩くことが困難になった時、歩くと言う事が、いかに大変なことかを思い知らされるようなものである。

 昨日、どうでした。いやぁ、昨日は、大変だったよ。朝寝坊して、約束の時間に遅刻してしまった。これが報告である。
 ちょっと相談したいことがあるんですが。これが相談を持ちかける時の切り出し方である。
 さっき、電話がありましたよ。これが連絡である。

 この様な簡単な報告や相談、連絡が円滑にできないと、人間関係がぎくしゃくする。この辺は、理屈ではない。繰り返し経験して身につける以外にない。挨拶のようなものである。だから、教育、躾が最も必要な部分である。なのに、現代教育の中で最も欠けている部分である。それに、挨拶もできない者も増えている。だから、まともな人間関係が築けない者が増加するのである。

 その上、最近では、オーダーを取ることができない。オーダーを取るとは、ただ、相手の指示命令を聞くだけではない。相手の指示命令を聞き、それを確認した上で、自分の仕事に置き換えることを意味する。それができない。それでオーダーミスが頻発するようになる。オーダーを受けて、それを自分の仕事に置き換え、段取りをつけたところではじめて解りましたという。ところが、指示命令を聞いただけで解りましたという。何が解ったかと言えば、言ったことが解っただけに過ぎない。それでオーダーを取ったつもりになるから怖い。さて仕事をしようとするとすぐに困る。何をしたらいいのか解らない。どうした来意の解らない。オーダーを取ったところから、自分達の仕事が始まるのだと言う事が解っていない証拠である。
 例えば、打ち合わせで、会議の日付を決めたとする。ところが、それ以外のことを何も決めず、次の打ち合わせの予定も決めずに散会する。結局、会議まで自分が何をしておかなければならないのかが解らなくなるから、会議まで何もしないでいる。又は、自分勝手な解釈で仕事をしてくる。そして、会議の日を迎える。これでは、まともな会議が開けれわけがない。
 それは、打ち合わせが、会議の日付を決めたところで終わっと思い込むからである。会議の日付を決まってから自分の仕事が始まるのだと言うことが解っていない。
 指示命令は、受けたところで終わったと思っている節がある。指示命令は、その指示通り行動し、結果を出し、報告してはじめて終わる。そのことが解っていない。
 彼等は、難しいことが解らないのではない。簡単なことが解らないのである。簡単なことが解らないのを誤魔化すために、難しいことを言い出すので始末が悪い。

 会って話せば解決するという事は解る。しかし、どうすればあえるかが解らない。どうすればあえるかが解らなければ、いつまでも解決はしない。だから、いつまでも解決しない。つまり、肝心な事ができないのである。できない、解らないのに、解らないことすら認めない。

 話ができないのではない。会うことすらできないのである。これは、男女交際でも言える。結婚できない男女が増えているが、まず、どうすれば異性に出逢えるかが解らない。会っても何を話していいか解らない。そのうえ、次の約束ができない。連絡先も聞けない。妙な知識ばかりが豊富だときている。これでは結婚なんてできるはずがない。そういう人間に限って、こう言うことこそ教わる者、勉強するものだと思っていないのである。だから深刻なのである。

 なぜ、簡単なことが解らないのか。日常的なこと、常識的なことが解らないのか。簡単である。学校では教えないからである。そして、学校で教えていると思い込んで誰も教えないからである。



執務要領
報告・連絡・相談
手順・段取り
形を重んじる
仕事を学ぶ
チームワーク・集団活動を学ぶ
段取りをとる
仕事の論理
井戸端会議と会議は違う
仕事には始まりと終わりがある。
基本
仕事の基本
報告書の書き方
企画書の書き方
物事には順序がある
組織的意志決定
仕事について
組織は情報系である。

形に学ぶ。形を学ぶ。形で学ぶ。
形について

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