学ぶ喜び


 今の学校は、馬鹿でひねくれた人間を大量生産している。
 なぜなら、勉強は、馬鹿馬鹿しく、くだらない、つまらないものだと思いこんでいる者が、教えているからである。さもなければ、元来、面白いはずの、学問を、これほど、退屈で面白くなくなるような教え方はできない。それは、教える者が、学問の面白みを理解していない証拠である。
 だいたい、教える者に、学ぶ姿勢がない。教えてやっているとしか見えない。生徒を高見から睥睨して、見下している。生徒達から学ぶものは、何もないと言いたげである。教えるということは、学ぶことである。教わると言う事は、学ぶと言う事である。つまり、学ぶという一点において生徒と先生は、対等の立場に立てる。教える側に、学ぶ姿勢がなければ、生徒との間に共感も共鳴も生まれない。未熟だから、どうだというのだ。未熟だから、人を指導することができる。未熟でない人間に、人を指導する力はない。なぜなら、共鳴共感がないところに、教育は、成り立たないからである。
 勉強が、嫌いでおもしろくないと思っている人間が、教えれば、ひねくれた人間が生まれるのは当然である。結果的に、教わった者は、馬鹿になる。結局、何もできない癖に、気位ばかり高い、世間知らずで、礼儀知らずの人間を大量生産することになる。

 誰のために、勉強するのと聞くと、大概は、自分の為よと答える。しかし、なぜ、何が自分のためかというとハッキリとは答えない。それに、肝心の自分とは何かが曖昧なままである場合が多い。本当に自分のためにする勉強なら楽しいはずである。その喜びがない。それは、教える者が、学ぶことの意義、喜びを知らないからである。

 現代教育の悲劇は、勉強の嫌いな人間が、教育しているという事に原因がある。
 働くことが嫌いな人間、労働を罪悪視している人間は、休みを増やすことしか考えない。
勉強が嫌いな人間に学ぶことの喜びを教えられるはずがない。

 勉強を面白くなくしているのは、先生である。勉強自体が、面白くないのではない。勉強というのは面白いものだ。

 子供は、好きなことはすぐに覚える。漫画の主人公の名前や車の名前は、すぐに覚えられるというのに、学校の勉強となるととたんに記憶力が悪くなる。いかに、教える事が下手かの証拠である。しかし、だからといって教え方を反省している教育者は、聞いた事がない。教え方が悪いと言うより、生徒が悪いとした方が楽である。

 先生にむかって教え方が悪いとは言えない。しかし、それが、いけないのだ。また、授業が、面白くないと言うのも、いけないことになっている。それもおかしい。授業が面白くなければ、勉強に身が入らないのは、当然である。

 労働は、喜びである。勉強は楽しいものである。
 しかし、現代人は、労働や勉強は、苦痛であり、辛いものだと決めてかかっている。労働や勉強は、辛く哀しいのは、怠け者の発想である。
 年をとったら、仕事をせずに、のんびり暮らせというのは、働く喜び、学ぶ喜びを知らない者の戯言である。人生で最も辛いのは、労働や勉強ではなく。何もしないで無為に過ごすことである。その証拠に、多くの年寄りは、死ぬまで、現役でいたがる。それを無理矢理仕事を奪い取っているのが、現代社会である。

 おもしろい事、楽しい事は、イコール悪い事、間違いだという傾向が、現代はある。勉強や仕事は、元々つまらないものであり、辛く、哀しく、苦しいものだ。だから、休みを増やそうと思っているのではないだろうか。しかし、勉強や仕事を面白くなくしているのは、そう思いこんでいる者達である。勤勉や勤労は、彼等は、罪悪だと思いこんでいるのではないのだろうか。
 だから、休日を増やすことばかり考えている。しかし、本来、勉強や仕事が楽しければ、休みたがらないものである。逆に言えば、仕事や勉強は、つまらないもの、苦痛なもの、辛いものと思うから休むことばかりを考える。休みが、楽しいというのは、それだけ、勉強が、つまらないという事である。その証拠に、遊びに休みはない。休みには、遊んでばかりいる。しかし、遊びは、勉強の原点である。遊びと勉強を区別し、遊びは楽しく、勉強は辛いと思っている者がいれば、それこそが、間違いである。遊びと勉強は、区別できるものではない。勉強の原点は、遊びである。子供達は、多くのことを遊びから学ぶ。それから考えると、学ぶことは楽しい。
 勉強や仕事は、元来、楽しいものである。でなければ、これほど学問も、科学技術も、発展するはずがない。
 教育機関が休みを増やすと言う事は、自己否定である。つまり、自分達が勉強をつまらなくしていながら、学問は、最初からつまらないものだと否定しているのである。つまり、教える者が、勉強はつまらないと最初から決めてかかっているのである。それでは、勉強が楽しくなるはずがない。

 ゆとり教育というのが、やたら休みを増やす事を意味しているように思える。しかし、休みを増やしたところで、ゆとりは、生まれない。

 子供は、一つのことに興味を持つと熱中する。熱中すると寝食を忘れる。しかし、だからといって、それを、ゆとりがないとは、言わない。

 かつては、暇を作るなと、言われた。暇を作るとろくな事をしない。小人閑居して不善をなすである。休みというのは、かえって、ゆとりを、なくしてしまうと言う事を先人達は、経験的に知っていたのである。休みを増やすことより、楽しみを教える事の方が、ゆとりを生み出す。解らないから、つまらないから、ゆとりが、もてないのである。
 休みを増やせば、ゆとりができるというのは、愚かな事である。それは、ゆとりというものの本質を知らぬ者の戯言である。休みを増やす事とゆとりとは、無縁である。ただ、あまりにも忙しすぎるとゆとりがなくなると言うだけである。逆に言えば、暇すぎてもゆとりがなくなるのである。何事も程々がいいのであり、過剰になれば、ゆとりがなくなる。

 学ぶ事は喜び、働くことは喜び。だから、学問も労働も本来、強要、強制されるものではなく、自発的にするものである。

 しかし、勉強の嫌いな教育者は、常識はずれで、役に立たないことを難しくして教えようとする。だから、学問は、役に立たなくておもしろくなく、難しいものだという先入観を子供の頃から植え付けてしまう。そこに悲劇がある。
 結果、学問は実用的ではない。実用的なものは、学問ではないという偏見に支配されるようになる。そして、学者は、このような偏見によって象牙の塔を築き、そこに立てこもり、世の中から、隔離された、隠遁者のような、生活を送りながら、全く世の中のことに無知蒙昧であることが、当然であるかのように、振る舞うことが許されるようになるのである。そして、この世で最も非常識な、人間によって、子供たちは、教育されることになる。
 勉強や労働は、本来、楽しいものである。しかも、生きていくために役に立つ、というより必要不可欠なものである。学問とは、本来実用的なものである。実用的でないものは、学問ではない。

 本来楽しくて、おもしろい勉強や仕事をつまらなくするのが学校である。
 その証拠に、学校へ行く前は、目をキラキラさせて、なぜ、なぜと質問していた子供が学校へ行くととたんに勉強に興味を失う。

 身近で、役に立つ事を、楽しく学ぶという事が、学問の基本である。教育の本質は、学ぶ喜び、労働の喜びを、植え付けることにある。しかし、現代の学校教育は、学ぶ喜びや働く喜びを教え込むどころか、反対に、学ぶことや働くことを苦痛にしてしまっている。これではいくら休みを増やしたところで、ゆとりなど生まれるはずがない。

 引き籠もる人間や、登校拒否する者は、働くことや、学ぶことが、苦痛になっていることを見落としてはならない。勉強も仕事も、本来は、強要しなくとも楽しくてやりたがるものなのである。腹が空けば、食べるなと言っても食べる。職や知識に対する欲には、同じような飢えがあるはずなのである。






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