成    績


 学校では成績が全てである。
 しかも、学校の成績は、試験の成績である。試験の成績は、試験問題に左右される。試験問題は、その前提によって決まる。つまり、成績を確定するのは、試験問題であり、試験問題を設定するときの前提にある。成績に影響を与えるのは、試験の結果だけではない。通信簿や内申書も成績は、反映される。通信簿、内申書の成績になると、担任の教師の主観が大きく入り込む。だから、成績を問題にする場合、本来、試験問題の前提と教師の考え方が、一番、重要なのだが、その事は、いっこうに、問題にされない。その上で、成績が全てなのである。どの様な前提で試験問題がつくられ、どの様な考えの先生がそれを教えたのかは、全然問題にされないで、試験の点数だけが問題にされる。つまり、根本を無視して結果だけを問題にしている。それが今の学校の実体である。仮に前提が間違っていたら全てが成り立たなくなる。ところが、試験問題そのものの是非は問題にされたことがない。それで成績である。

 最近、冥王星が惑星からはずされた。それで教育界は大騒ぎである。教科書に記載されている事実と違うというのである。これまで教えていたことと矛盾するというのである。これまでの試験の結果を訂正しなければならないと言うのである。彼等にとって教科書は事実であり、試験の結果は不変なのである。極端な話、試験の成績のためなら、科学的真理など二の次なのである。歴史的事実は、教科書に書かれていることであり、その為にならば、歴史的を改竄してもかまわないと考えているのである。それが成績の本性である。試験の問題の前提は、教科書に書かれていることであり、真実や事実である必要はないのである。要は、結果さえ出ればいいのである。結果は、成績になる。

 成績が悪くて何が悪い。成績が全てではない。成績が悪くても、人間的に素晴らしい者は、沢山居るし。成績が良くても、人間が、悪い奴は、いくらでもいる。

 学を志すというのは、学校に行くことを意味するのではない。人生いかに生きるべきか、自分が何を学びたいかがハッキリしない者が、学に志す事はできない。学を志すと言う事は、学問を究めたいという願望があってはじめて成立する。学校の成績など関係ない。学問が好きでなければ、学問なんて志せるわけがない。学問を究めるというのは、それほど容易い道ではないのである。

 つまり、学問には前提がある。何を学び、何を教えるかが大切なのである。学問は、結果ではない。その志すところが大切なのである。

 勉強は一人でもできる。学問とは、基本的に一人でする者だ。だから、学校に行く、行かないは、学問を志すことと基本的に無縁である。学校に行けなければ、学問ができないと思っているのならば、その時点で、学問を志す資格はない。学問に、試験の成績なんて関係ない。世間に認められることを、どこかの大学の教授になることを目的にしているならば、成績を気にすればいい。しかし、それは、学を志す事とは違う。それは、学問を生業にすることである。学問を生業にする以上、学問は、利権である。利権である以上、それを測る物差しが必要になる。それが成績である。しかし、学問の本質は、利権ではない。志である。利権ばかりで、志がなくなった時、学問の府、大学は、堕落する。故に、学問と成績とは、無縁である。

 成績が悪くて、何が悪い。成績が全てではない。成績が全てなのは、学校という閉ざされた社会の内部においてだけだ。

 現実の社会では、成績が全てではない。過程が、重要なのである。確かに、最終的には、結果である。それも実績である。しかし、現実の社会における結果は、過程との関わりによって発生する。過程を無視しては、いい結果は得られない。また、現実の社会の結果は、学校の世界での、成績とは違う。学校の世界での成績とは、試験の結果を意味する。しかし、試験問題と現実とは、違う。

 教育とは、本来、過程である。過程であるから、習慣を身につけさせることに主眼がある。学校教育では、その過程が無視されるか、欠落している。故に、いい習慣が身に付かない。
 現実の仕事は、毎日に積み上げが大切である。現実の社会では、一朝一夕に成功できるわけではない。スポーツ選手は、日々のトレーニングを怠れば、すぐに体が鈍ってしまい。取り返しがつかなくなる事すらある。商売人は、信用を築き上げるのは、大変だが、信用をなくすのは、簡単だ。一日の怠慢で信用を失うこともあると、教えられながら育つ。ところが、学校では、授業中寝ていても、一夜漬けで、いい点数をとる事もできる。一年に二回か三回の試験で、日々の研鑽を測ることはできない。勢い一夜漬けが横行する。結果、学問に対する本質的姿勢が失われる。楽をすることを覚えるのである。楽することを覚えたら、学問は、成就できない。
 ゆとり教育といって、休みを増やす発想も同根である。学問や修行は、日々の積み重ねが大切なのである。休みを増やせば、日々の積み重ねが、中断する。また、ゼロからやり直さなければならなくなる。休みを増やせというのは、研究者や修行者の発想ではない。こつこつと努力する習慣を身につけさせることこそ、教育の目的の一つである。

 大学の入学試験になると、更に、過程は、軽視される。しかも、個々の大学の性格や校風によって試験の傾向が違い、対策も違ったものになる。傾向と対策などという参考書が売れる所以である。日々の積み重ねよりも、要領の方が大切なのである。こうなると、毎日の努力などバカバカしくなる。そうなると、成績とは、何か、その本質的意味がわからなくなる。試験勉強をするときだけ一生懸命になる。しかし、試験問題そのものの根拠が稀薄なのである。学問をするのに、試験勉強は、かえって弊害にすらなる。物理学を学ぶとき、物理の方程式を丸暗記したら、物理の根本概念を考察する時の邪魔になる。試験勉強が終わったら、早く忘れた方がいい。複雑な因数分解は意味がない。
 一時的な一夜漬けは、学業にとって悪い習慣を身につけさせてしまう。更に、学問が嫌いになったら、本末転倒である。大学にはいるまでに、学問を嫌いにさせてしまったら、何のために、学問をしに大学に行く必要があるのか。学問を究める事など、できはしない。所謂、優等生と学者とは、同義語ではない。優等生でも、勉強嫌いはいる。優等生では、学問を究められない。優等生の多くが、平均的だからである。研究というのは、ある種、偏り、偏向である。だから、俗に言う優等生には、むいていない。
 学問が嫌いになったら、職人になった方がいい。職人として道を究めた方が、どれ程素晴らしいか。学者は、全てが聖人君子ではない。人格的に問題のある人間は、沢山いるのである。

 教育とは、習慣論だ。(渡辺昇一著「先知先哲に学ぶ人間学」致知出版社)つまり、良い習慣を身につけさせることが教育の本義だと言う事である。試験の成績のみを重視することは、この本義からはずれる。ならば、現行の教育の本質は何かと言う事になる。虚しくなる。

 本来、試験も過程が重要である。設問の過程が重要なのである。先ず誰が、出題するのか。出題者をどのように決めるのか。出題者が作った問題を誰が検証するのか。
 だいたい、試験問題は、出題者の意図する方向でしか答えられない。では、出題者の意図を誰が、どのようにして検証するのかが、重要になってくる。そこが、明らかにされなければ、試験の結果は、意味がない。出題者の意図が納得がいかなければ、設問自体が、おかしいからである。
 問題を解き、採点する事、もっと言えば、試験の点数だけを問題にするが、本来は、そのずっと以前に深刻な問題が隠されている場合が多い。
 成績とは、あやふやな基盤の上に成り立っているのである。だとしたら、、試験の結果だけを競う、成績にどれ程の信憑性があるといえるのだろうか。こうなると、試験の目的は、選別にのみあると言われても仕方がない。

 試験制度は、本来の目的を見失っている。
 試験というのは、本来、自分の勉強の成果を試しに実験することである。それに対し、現行の試験制度は、選別に目的が置かれている。この事が、試験制度、ひいては、教育制度を著しく歪めている。

 実務に疎い、暗い有資格者はいくらでもいる。それは、資格試験が現実の実務とは、かけ離れたところでなされているからである。

 合格をするための努力。合格点さえとれれば、ヨシとする傾向を生んでしまう。その為に、多少の間違いがあっても仕方がないで済ませてしまう。そこからは、反省心も探求心も生まれない。向上心は、屈辱心から生まれる。他人が許しても、自分が許せないから、同じ間違いをしないために努力する。しかし、自分が仕方がないと納得してしまえばそこでおしまいである。そこからは、向上心は生まれない。
 失敗をしないための努力。失敗をしないことを目的にすることは、還って失敗を呼び込んでしまう。野球でエラーすることを怖れ、人の眼を気にしだしたら、上達はとまる。プロを目指したり、優勝するための努力であれば、救いがあるが、エラーしたことをクヨクヨして、エラーしないための努力をし始めたら、前向きなものをしなくなる上に気持ちが委縮する。そのためにエラーがエラーを読んで最後には精神的に潰れてしまう。

 頭がいい子、性格、人柄のいい子が成績がいいとはかぎらない。

 頭がいいことと、成績のいいこととは違う。その典型的な例が、絵画や音楽である。今の学校教育は、個人の才能を伸ばすことに主眼をおいていない。能力の平均化、すなわち、平凡化に主眼がおかれている。つまり、平凡な人間が評価されるのである。

 今の学校教育では、頭のいい子ほど馬鹿になる。なぜならば、頭のいい子は、先生のいう事が、理解できる上に、先生のいう事を信じてしまうからである。先生が、間違ったことを教えれば、間違ったまま覚えてしまう。学校において、個々の教育者は、自分が教えている事が正しいかどうか検証する術を持たない。大体、教えるという行為は、主体的な者である。ところが、学校では、教師の主体的行為を認めていない。そうなると、教育者は、自分の教えている事に責任が持てない。責任が持てない以上、それが、間違っているかどうかを確かめようがないのである。教える人間が、確かめようのない、自信の持てないことを教えている以上、正しい事を教えようがないのである。このことを前提に考えなければならない。成績の根拠なんてものすごく脆弱なのである。その脆弱な根拠に基づいたものを絶対的な真理として刷り込まれれば、素直で、頭のいい子ほど、馬鹿になる。素直に従っても、反発したところで、成績にこだわっている限り、馬鹿になる。しかし、成績にこだわらなければ、落第するか、おちこぼれる。だとしたら、落第やおちこぼれる事を恐れないで、学問に主体的に関わる以外、逃げ道がなくなる。

 それに、学校では、成績の悪い子か、平均的な子に歩調を合わせなければならない。それでは、頭のいい子は勉強が嫌いになる。

 しかも、日常の授業は、平均的な子か遅い子にあわせる。なのに、受験は、逆に、成長の早い子から選別する。だから、授業がどっちつかずになる。その矛盾を解消する為には、いずれかを差別するしかない。子供の個性や成長の差を無視しているのである。それだけでなくても、子供達に間には、誕生日によって最長一年化の差がある。この一年の差は、低学年では、かなり大きなハンディになる。

 成績と人格とは、無縁である。成績が良くても、性格の悪い奴は、いくらでもいる。成績が全てではない。

 試験勉強というのは、基本的に選別のための競争である。ある意味で仁義なき戦いである。試験勉強、成績の前には、友達も信頼も何もない。出し抜きあいであり、騙しあいである。人が良い人間は、脱落していくのである。指導力や人間性も関係ない。なまじ、指導力を発揮するとおいて行かれてしまう。とにかく、先に行った者勝ちなのである。そうなれば、むしろ人間性や人格は、犠牲にした方が有利である。それこそ、自分一人良ければ、他人なんてどうでも良いのである。だから、成績と人間性は、無縁と言うより、反比例している。いい成績の人間が必ずしも、仲間から信望や尊敬を得られないのは、当然の帰結である。多くの優等生が、学校や教師からの評価を得ながら、仲間内から孤立しているのが理解できないのは、成績と人格が無縁であることに気がついていないからである。いい成績を取りながら、人格を磨くのは、現行の教育制度下では至難の業である。

 先生の用意した答えを探そうとする。その習性は、学校を卒業してもなかなか抜けないで、自分の考えではなく、上司や相手の考えをたえずさぐろうとする。そのために、自分の意見がもてない。
 答えは、常に自分の外にあると錯覚している。しかし、本当の答えは、自分の内側にある。特に、自分が生きていく上での正解は、自分で出さなければならない。

 人生は試験より、ゲームに近い。スポーツの試合に近い。
 テストや試験より、ゲームや試合の方が現実に役に立つ。試験は、職業として成り立たないが、試合は、職業として成り立つ。第一、試合は見ているだけで楽しい。自分から率先して参加しようとする。数学も試合のようにしたら勉強の仕方も違ってくるだろう。::ゲームや試合は、一方的な者ではない。対戦者が、対等の立場で技を競い合う。答えが決まっているわけでもない。日々の積み重ね、努力がものをいう。修練しかないのである。囲碁でも将棋でも実力の差は、ハッキリと出る。審判者が絶対的な権力を持っているわけではない。むしろ、審判者は、公正、中立的な立場が保てる。出題者が審判者を兼ねている場合とは違うのである。その場合の成績と、学校の成績とは、本質が違うのである。成績を競わせるのならば、試合やゲームのようにした方が妥当である。なぜなら、本当の意味の実力による勝負だからである。

 学校では、成績の悪いことは、悪いことだと教える。しかし、成績は、価値観とは無縁なものである。たとえば、カンニングをしていい成績をとった者とまじめに勉強していてそれでも出来の悪い者とを同列に語れない。しかも、試験では、問題意識や日々の努力は測れない。瞬発力だけである。結局、子供たちは、どんな手段をとっても成績がいい者が得だという価値観を植え付けてしまう。その弊害の方が大きい。

 学校教育で欠けているのは、徳目である。この徳目は、成績によっては、測れない。人生、いかに生きるべきかが、根本になければならないからである。教育者が、人格者であるとはかぎらない。しかし、尊敬のできない人から、子供達は、何を学ぶというのだろう。成績だけが全てではない。成績だけで、人を判断してはいけない。少なくとも、その常識だけは失うべきではない。そして、少なくとも、学校という社会は、その常識が通用しない社会なのだという自覚を、持っておかなければならない。





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