現実と空想の狭間で


 ありもしない事をあたかも現実な様に教え、信じ込ませるのが今の学校である。そして、その作られた現実の上に、成り立っているのが、今の現実主義である。
 意味のない形式を現実主義者は否定するが、その形式が、現実の生活には重要な役割や機能を果たしている事を彼等は理解していない。

 現代人は、写実主義、現実主義という幻想に惑わされている。
 客観的で事実をあるがままに受け入れるというのがくせものなのである。客観的な事実だけを伝えて、判断は相手に任せればいいと言う考え方が主流を占めている。その最たるものが性教育である。モラルや愛について何も教えずに、性に対する知識のみを教える。それが性教育だと勘違いをしている。避妊の仕方を教えることは、避妊に対する考え方を同時に伝えていると言うことを無視している。性という行為は、生きるという行為そのものなのである。性の背後には、生命の神秘が隠されている。だから、性を教える時は、どうしても生きることの意義について語らないわけにはいかないのである。
 それは、教える者の思想、哲学こそが最も重要なのである。自分の思想や哲学を明らかにし、それを教わる側の保護者に選ばせる。それが、民主的な手続きなのである。これは、客観的事実なのだから、誰にも相談しなくてもかまわないと言うのは、教える者の独善である。だいたい、一体誰が、それを客観的な事実だと認識したのだろうか。そのことだって曖昧なのだ。

 対象を認識した時点で客観性は失われる。客観性を重視するあまり、その現実を忘れている。教育は、主観的なものである。教育者の主体性が何よりもの鍵なのである。教育は、事実を教えるだけでは駄目なのである。その事実をどのように受け止め、どのように解釈するかが重要なのである。だから、客観性というのは、教育者自体に求めるべきではない。客観性は、社会や環境に求めるべきである。
 教育者で最も危険な人種は、客観的といいながら、自分の思想を吹き込む人間である。逆に、教育者は、自分がどのような思想、考えに立脚し、どのように子供を教育しようとしているのかを保護者や社会に開示し、社会の了承を受け続けなければならない。それが、教育の客観性である。

 情報を相手に伝える時、伝える側に何らかの意図が働く。写実主義の現実主義、客観的のというのは、要するに自分の意図を明らかにしていない、明らかにしたくないという意図に過ぎない。そのうえで、第三者に現実的でない、写実的でない、客観的でないと非難するのは、ただ、主体性を持つな、自分の意見を明らかにするなと強要しているようなものである。
 かつて、学校には、二宮金次郎の銅像があった。それは、教育する側が一つの手本を示していたのである。手本は、手本である。一つの理想像を示しているのである。それを現実は、違う。世の中は、甘くない。そんな理想的な人物はいないと、現実主義や写実主義を持ち出してイメージを破壊する必要はない。何が真実で、何が事実かは、情報の発信者と受け手の関係の中で問われるべき問題である。現実は、汚いからと言って悪いイメージばかりを植え付けたら、子供達が社会や人生に悪いイメージか持てなくなるのは、当然である。それは、敗戦国根性、負け犬根性、植民地根性であり、現実主義でも、写実主義でも、客観性でもない。
 
 愛を教えずに、性に対する知識を教えれば、人は、自分の行為を自制することができなくなり、責任が持てなくなる。愛こそ、主観的なものである。快楽主義や反家族主義を保護者の了承も得ずに、子供達に教え込む、果ては、洗脳に近いことをするのは、犯罪に近い。逆に、保護者や子供は、学校や教師、教材を選ぶ権利があるのである。

 現代の学校は、不合理な世界である。しかし、学校の内部では、合理的だと思っている。そこに、不合理の極みがある。そして、その不合理さをマスコミが増幅している。学校教育は、二律背反的な論理が多すぎる。

 人は、認識した以上のことは、できない。教えたこと以外の事を答えてはいけないと指導しながら、正解を教えたこと以外におく。

 学校では、教えた事、つまり、学校が想定した事以外、想定してはならないと教える。そして、学校で、想定する事は、特殊な事であり、日常生活では役に立たないという事を前提としている。結果的に想定した事以外、何もできない人間を育て。日常てきな事、つまり、生きていく為に必要な事が想定できない人間に仕立てていく。結果、いざというときに何もできない人間を大量に生産していくことになる。
 また、指示や命令は、強制することだから悪いという風に教育する。その上で、先生が指示すること以外、聞いてはならないと教える。そうすると、指示がなければ、何もできない癖に指示される事を、いやがる人間になる。そのような人間は、まともな、社会生活が営めなくなる。
 英語をとって教えれば、歴然としている。日常的に使われている、発音しているのと違うという前提で、英語を教えていながら、日常会話ができないと叱るのは、不条理だ。ところが、学校では、英語教育は、読解力だと強弁する。しかし、いつどのような理念の基に、英語の教育の目的は、読解力におかれたのか。また、どのような手続き、どのような合意の基に為されたのかを明らかにしていない。
 真空中における物理現象を教えられても、この世界で真空なのは、宇宙空間しかない。だから、物理学は役に立たないと言うのは、極論である。
 教育者は、この世に絶対的なものはないと言っていながら、自分達を絶対視させる。
絶対的な事は、絶対にないという事自体、矛盾している。相対的という概念を正しく理解せず、論理的にだけ理解しているからそうなる。観念的だから、相対的なだけなのである。
 そんなことはないと彼等は、反論するが、試験制度は、学校で教えられている範囲でしか解答がなく、その解答が絶対に正しいという前提がなければ成り立たない。つまり、全国一律に同じ解答をだす事を、これ自体が非現実的で、あり得ないことだが、前提としないと成り立たない。これは、学校の教えていることは、絶対だと言っているにすぎない。学校教育は、試験制度をベースにすることで教えている事があたかも絶対の真理であるかのように思いこませる。そのくせ、いくらこの世の中に絶対的なものはないと教える。これでは、教える側自体、自己矛盾を起こす。先生でも間違いを犯す。問題は、先生が間違うこともあることを認めないことだ。間違いを認めずに自己矛盾を解消する手段は、非合理で独裁的な手段で、答えを強要する以外にないのである。試験制度の実体がそこにある。なまじ、科学的だと言うから、尚、子供は、混乱するのである。
 思想信条の自由で思想教育は悪いと言いながら、自分は思想教育をする。元々、最も悪いのは、理念なき教育が一番悪いのだから、思想信条の自由を出すだけ愚かである。だいたい、思想なき教育なんて醜悪なだけである。そして、教えるべき思想を決めるのは、教師ではない。保護者であり、地域住民であり、国家である。今日のように、教育者を選べない体制下ならばなおの事である。保護者や地域社会を無視して、勝手に自分の思想を子供に植え付ける事は、犯罪行為である。
 また、学校は、躾をするところではないと教える。躾は、家庭でするものだと。その上で、親の価値観を否定する。更に、メディアは、自分達には、社会的権威がないと言いながら、体制的な権威を否定し、反道徳、反社会的な行動規範を圧倒的な力で刷り込む。そうすると、礼儀や作法、道徳のない者が育つ。それを道徳がないと言って批判する。メディアにとっては、反社会的な行動規範を刷り込む時に儲かって、犯罪が起こると更に儲かると二度美味しいのである。
 いずれにせよ。素直な子供ほど影響を受けやすい。

 競争は悪いと言いながら、試験で競わせる。皆、同じだと言いながら、個性や独創性をも持てと指導する。差を付けてはならないと教えながら、偏差値で評価する。自分の為だと言いながら、何が自分の為になるのかを教えない。学校が全てではないと言いながら、進学以外の選択肢を与えない。言葉では、役に立たないと言いながら、必要だという態度をとる。何事も疑ってかかれと言いながら、学校で教える事は、無条件で信じろと言うより、暗記しろ。暗記するというのは、信じるか否か以前に、鵜呑みにしろという事だから、もっと強烈である。

 観念的な価値基準と行動規範を、切り離して別々に刷り込むために始末が悪い。言葉で言う事と態度で示す事が、正反対では、子供達は、混乱をする。そして、観念と行動とを使い分けるようになる。観念的価値観と行動規範が分裂してしまうのである。
 しかも、理念と行動を別個にして植え付けられるために、教える側も教わる側も矛盾に気がつかない。ただ、混乱と不信感だけが残る。

 更に、子供達は、実物にあう前に、仮想的なものにであう。そして、本物を知ったように錯覚する。JRにかつてディスカバージャパンというキャンペーンがあった。結局、しかし、どの風景も行ってみると予め見たことがあるのである。日本発見ではなく、日本確認なのである。やたらとカブトムシに詳しいけれど本物のカブトムシは、デパートでしか見たことがない。そんな子供が増えている。更に、質が悪い事に、書物から得た知識でもなくなりつつある。テレビやビデオ、写真から得た知識なのである。それは、仮想現実なのである。そして、仮想現実を現実と取り違える危険性を常に孕んでいる。
 仮想現実と現実とは、違う。仮想現実は、どこまでいっても中には入り込めない。現実は、逆に、外へはでられない世界なのである。故に、そこから育てられる感性は、本質から違ってくる。頭で解っても、行動には現れない。それが、現実になってしまう。
 危険な事は、頭で理解できてもそれを回避する行動ができない。やってはならない事と理屈では、解っていても行動を抑制できない。やらなければならないと解っていても、行動に移せない。そういう人間になってしまう。
 火災が起こっているのに、火を消すどころか、逃げようともしない。人を殺してはならないと解っているのに、自分を抑制できずに人を殺してしまう。しかも、現実に何が起こっているのかの自覚がない。自覚がないから、正常でいられる。又は、日常生活が続けられる。これらの行動が現実に起これば狂気である。しかし、それが、通常な世界になりつつあるのである。
 意識と行動が結びつかない人間は、モラルがあってもないような者である。そういう人間ばかりになったら社会秩序は保てなくなる。現在の学校教育の危険性がそこに潜んでいる。そして、それは、学校内部で、先ず、現実になりつつあるのである。

 子供達は、仮想現実のなかにいる。仮想現実の世界では、双方向の働きがない。テレビやビデオの世界には、こちらから対象に直接アクセスすることはできない。そのうえで、強い刺激を与え続ける。内容は、勧善懲悪なものが多い。ただし、悪の定義は、送り手側が勝手にしている。その上でハッピーエンド、つまり、結末が決まっている。送り手側は、影響がないと主張している。つまり、制作者や送り手は、影響に対して無自覚、無責任だという事である。
 子供達は、テレビの中に自分達のヒーローを見る。そして、彼等を愛し、憧れる。そのヒーローがテレビやビデオの中で、悪い奴にいじめられる。しかし、そこは、自分が入り込むことのできない世界。その世界の中で、残虐な行為が繰り広げられる。それでいて、最後には、いつも、ヒーローが勝つ。そこには、自己と対象との関わり合いがない。そして、常に、同じ結末が用意されている。その間に強い刺激が繰り返される。これは、明らかに洗脳である。しかも、無自覚な洗脳である。その上、リアリティを追求すればするほど仮想現実は、現実化に乖離していく。こんな事を繰り返せば、子供達は、現実に対し、無反応な人間になる。
 認識の過程で、フィードバック機能が働かなくなるからである。

 フィードバック機能が働かないと言うのは、原因と結果が直接当事者に認識できない、結びつけられない状況である。原因と結果の間の過程が長くなればなるほどこのフィードバック機能は、働かなくなる。
 車を運転する時、ブレーキを踏めば、減速、停止。アクセルは、加速。ハンドルは、方向の変更。この様な関係が頭の中に入っている。即、自分の行為が結果に結びついている状況では、環境の変化に対応することができる。
 教育においては、このフィードバック機能が重要な役割をはたす。
 過程が長くなると擬似的なフィードバックで代行しようとする。その典型が試験制度である。 

 学校教育の最も深刻な弊害の一つは、断絶である。つまり、自己と家庭との断絶、自己と社会との断絶である。それらは、学校が、現実の社会から乖離していることに原因がある。




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