を持つことです。人生いかに生きるべきか。陳腐かも知れませんが、僕は、世のため人のために生きたい。政治家になって世の不正と戦いたい。警察官になって、安心して暮らせる社会を作りたい。真理を探究したい。学校の先生になって子供達を育てたい。正直に生きたい。それでも良いんです。それから、皆を楽しくして、幸せにしたい。それでコメディアンを目指す。
 少なくとも、金儲けをして、出世をするというよりも良い。それでは志が低すぎます。かといって、高邁なものである必要もありません。
 誤解しないで欲しい。金儲けが悪いとか、卑しいとか言っているのではない。金儲けや出世は、手段だと言う事である。人生、いかに、生きるかという問いと次元が違う。手段を目的と取り違えて、自分の行為を正当化することが志が、低いと言っているのです。
 病気で苦しんでいる人を見て、身近な人でも良いんです。例えば、自分のおじいちゃんとかね。そう言う人を見て少しでも、役に立ちたいという思い。それが志です。
 つまり、志というのは、人生の目的です。僕は、こういう生き方がしたいと思った時、志は生まれるのです。そして、そこから、医者になろうと決意するんです。医者になるために、受験をする。それなら、過酷な受験を勝ち抜けるし、自分を見失う事もない。
 ところが、今の子達には、はじめに受験勉強ありです。生まれて、もの心ついた時には、受験戦争に放り込まれている。ひどい時は、幼稚園からですよ。
 だから、志をもてない。もてないまま、成人してしまう。それでは、魂のないのと同じです。どんな生き方をしたいを、先ず決めるんです。そして、どんな生き方がしたいか、人生いかにあるべきか。それを知るために、学ぶのです。歴史を学び、人の生き様を学ぶ。学問とは、本来、そう言うものです。その為に、昔は、よく旅をした。かわいい子には、旅をさせろと昔の人は、言ったんです。

 学に志すというのは、学校に行くことではない。自分が、何を、学びたいかも解らずに、学校へ行ったとしても、それは、学に志すとは、言わない。

 先ず、どんな生き方をしたいかを見極める。次に、何になりたいかを決めるんだ。それが決まったら、何をすべきかが解ってくる。そうしたら、後は、修行だ。修行だと思うと意外と仕事は、決まってくる。なぜなら、何が何でもこの仕事がしたいと思ったら、必死に仕事に食らいついていくから。だから、志が大切なんだ。

 夢と志。夢は、志の源。志すものを具体的に描いたビジョン、構想。その夢を、今の学校は、踏みにじる。握りつぶす。だから、志が生まれようがない。志が方向を失う。

 夢は、夢で終わらせたら意味がない。夢を実現しようとする強い意志が必要だ。その強い意志が志である。つまり、夢の実現に向けた原動力それが、志である。だから、夢だけでは駄目なのだ。志が必要なのである。

 人生、いかに生きるべきかを学ぶ事が、本来の勉強です。だから、以前は、十五歳で成人式をした。それから、自分の人生に責任を持たされた。今は、大学を出たって子供扱いです。一人前の大人の扱いをしない。責任も持たせないから、一人前になれない。
 昔の学問というのは、人の生き様を歴史から学び、自らの生き様を模索する事。先人達の教えを守り、実践する事。だから、歴史と人の道を学び修行をする。それが学問だった。

 しかし、今の学校は、まともなことは教えない。まともではないから、まともなことを教えられないのだ。つまり、人生、いかに生きるべきかを、教えるところではないと、教育者は考えている。では、何を教えるのか。解らない。まともな答えは返ってこない。要するに、まともではないのだ。まともな事を教えていないのだから、まともな人間ほど、まともに悪くなる。純情な人間ほど、まじめに、道を踏み外す。受験勉強を一生懸命やってきて、大学に入学したら、受験勉強でまじめに勉強してきた事は、何の役にも立たない事に、気がつく。社会へでたら、大学で勉強した事が、役に立たない。むしろ、障害、弊害になる。これでは、苦労した事が、自慢にもならない。誇りに結びつかない。志がないからです。だから、主体性をもてないまま、言うなりになるしかない。つまりは、奴隷になるしかない。つまり、今の学校教育は、奴隷にするための、教育である。だから、ちょっと抵抗すると、おまえは、プライドが高すぎると言い出す。植民地根性。奴隷根性である。プライドが高くて何が悪い。大使を抱けである。誇り高くあれである。

 やってしまってから、気がついても遅いことがある。行動する前に、決断をせよ。決断をする前に明らかにする。
 やってしまった事で、自己の行為を正当化するのは、潔くない。それは、弁解だ。覚悟を決めてやった事なら、責任がとれる。覚悟もなくした事は、責任もとれない。一度、道を踏み外すとなかなか元に戻れないのは、それが、自分本来の道ではないからである。最初から、悪いと知りつつやる人間は、あまりいない。正しいと思っていた事が、間違っていたことに気がついた時、人は、道を誤るのだ。自分を許せなくなり、堕落するのである。試みにやった事が、取り返しのつかない結果を招いた時、不幸に導かれるのである。実際過失ほど恐ろしいものはない。軽い気持ちで犯した過ちが、躓きの基となる。それが誘惑である。誘惑は、最初は、些細な事である。出来心である。だから強い意志がなければ、保てない。故に、志が必要なのである。

 ちょっとした出来心で犯した事でも、人にそそのかされてやってしまった事でも、結局、責任をとらされるのは自分である。誰も責任をとってくれない。今の世の中は、誘惑は、多い。そそのかす人間は多い。しかし、その誘惑に負けたら、全てを失うのである。実に過酷な世界である。空腹の時、目の前に美味しい物をぶら下げられて、尚かつ食べても良いよと言われながら、じっとこらえていなければならない。それでいて、食べれば死ぬかも知れないと言う状況を、大人達が作り出しているのだ。志がなければ、誘惑に負けるのが当たり前なのである。

 まともであればあるほど、住み難い。純真であればあるほど、騙されやすい。
 学校で教わった人は、人を信じろと言う事だけ。しかし、どんな人を信じて良いかどうかは教えてくれない。昔は、それを勉強するのが、学校だった。だから、学校で教わったのは、歴史と倫理、徳目なのである。つまり、事例をもって学んだ。今は、歴史といっても、故事来歴、年号を覚えるばかり。試験に、人間の生き様など何の役にも立たない。だから、歴史の時間で学ぶべきものは何もない。人生いかに生きるべきかは、欠けている。結果、まともに、悪習に染められ、純粋に騙されてしまう。
人生に迷う者の多くは、まともで、正しい。自信を持って欲しい。彼等の疑問も素直で、まともだ。それから、彼等の判断もまとも。唯、これだけは、気をつける事だ。君らが、まともであれば、あるほど、周囲の大人や社会からは、受け入れられないことがあるという事。なぜなら、周囲の大人達がまともではないから、周囲の大人は、理解できないんだ。周囲の大人から浮いていると思う君は、周囲の大人達を越えたという事。このことだけは、理解しておかないと。そうしないと、周囲の大人達が、なぜ、君たちに、辛くあたるのかが、理解できなくなる。解らないんだよ、大人達は。だから、君達の事をいろいろと決めつけて、自分達なりに理解しようとする。でも、自分達がまともじゃあないから解らない。だからといって、君たちが、周囲の人間に合わせていたら、自分もまともではなくなってしまう。先ず、自分をしっかりさせることだ。その為には、自分は、間違っていないとしっかりと心に決める事である。そして、自分は、どういう生き方をしたいかを、社会に出る前になるべく決める事。もし、すぐに決められないのなら、落第しなさい。一年ぐらいは、すぐに取り戻せる。定職に就かないと、すぐに、周りの人の目は厳しくなる。だけど、どんな生き方をしたいか決まらない内に、就職をしても虚しい。問題は、そこだよね。大人が言う事、違うだろ。とにかく就職しろだ。就職しないと、大人達は、居心地が悪いんだ。自分達の教育が間違っていたように思えて。実際そうだけど。唯、君たちは、焦る必要はない。理解者は必ず現れる。自分さえしっかりしていればね。先ず、見極めるんだ。
 周りの大人は、心配しているんだ。でも、その心配を口にできないとしたら、それは、一人前の大人として扱っていない証拠。怖いんだよ。君が。馬鹿げているよね。

 でも君が、言っている事が、まともだから、だから怖いんだ。抗弁できないから、イライラするんだ。そこで、またまた、子供扱い。都合が悪くなるとすぐに子供扱い。でも働けという時は、大人だという。勝手だ。
 大人達は怖いのさ。君の言っている事が正しいと認めたら、自分の生き方を変えなければならなくなる。だから怖いんだ。

 自分の生き方に参考にならないものを学ぶな。身につきはしないのだから。先ず、人生いかにあるべきか、いかに生きるべきか。愛をとるか、快楽をとるか。それを明らかにする。そうしないと何もはじまらない。それからでも遅くない。




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