性教育


 マスコミは、卑怯だ。マッチ・ポンプという言葉がある。
 自分で煽っておいて、それを犯罪者がでると商売のネタにする。つまり、放火しておいて、火を消す消防士みたいな人間を指して言う。
 将に、今のマスコミがそうだ。強姦をする事をそそのかしていて、女を知らないなんて男ではないなんて言っておいて、馬鹿みたいに信じた奴は、犯罪者にされてしまう。そして、一生を棒に振ってしまう。でも、今のマスコミは、一事が万事、そうである。
 だから、純真な子ほどイカレてしまう。まともであればあるほど、まともに悪い事をしてしまう。
 女の子とまともに口がきけない奴なんていくらでもいる。受験勉強ばかりしていて、大学に入ったら、色情狂みたいな書き方である。何が言いたいんだ。何にを、勉強してきたんだと言いたくなる。まともに口を利けないで知識ばかりが先行すれば、暴力的になるのは、当然の帰結。人との付き合い方を教えないで、興奮ばかりさせた者の罪だ。マスコミは、罪作りなのである。
 とにかく、高校と大学、大学と社会とのギャップが大きすぎる。高校から、大学へ上がったら、受験勉強の世界から、全くの遊びの世界へ、大学から社会へでる時は、今度は、急激に自立した社会人としての責任を問う。これでは、子供達はついていけなくなる。一年一年で区切っている学校の論理である。

 一人の人を愛することと、快楽主義とは、二律背反です。この事をちゃんと教えておかないと。自分が、どちらの生き方をするかを決めなければなりません。私は、どちらが良いとは言いません。決めるのは、あなただ。
 唯、何も決めず、つまり、志もないままに、女を抱けば、後で苦しむことになる。やってしまったことで、自分の生き様が左右されてしまうからです。
 もし、間違っているときがついたら、そうです。取り返しがつかない。それこそ、神にすがるしかない。僕は、それでも神様がいると信じている。そして、志した後は、結果です。一人の人を愛し続けようとしていもなかなかうまくいかない。でも重要なのは、あなたが、何を望み。どういう生き方を選んだかですよ。快楽主義を選んだら、純粋の愛は、捨てる事だ。
 とにかく、過ちを誘うような事をしていて、間違ったことをしたら、自己責任だと糾弾する。

 生きていくために、何が、必要かという問題は、学問にとって無意味だとはじめから決めつけているふしがある。ひどい場合は、必要性というのは、学問にとって有害、悪いことだとすら言う。学問とは、無用の用などと訳の分からないことを言って子供たちを混乱させる。
 初めから間違っているから、誰も、子供たちに、なぜ、学校に行かなければならないかについて、説明が付かない。

 性教育が典型的である。性に対する知識ばかりを教えて、性に関連した肝心なことは何も教えない。人を愛する事、子供を産み育てる事、愛する人と共に生きることの意義、性に関することより、性行為が、引き起こす諸々のことを教えようとしない。家族とは何か、夫婦のあるべき姿はどういうものか、親になることの意味。そんなことはお構いなしに、性に対する知識だけを与えたらどうなるか。教育者が、それを理解していない。
 知識だけ教えて、生きていくために、必要なことを、何も教えないか、独善的で、極端なこと、また、道徳に、反することしか教えていない。問題はそこにある。子供たちは、教えられた知識が、正しいか悪いか、どうそれを、扱っていいのかの判断ができない。判断ができないから、どうすればいいのかを教わりに学校に行くのだ。ところが、教育者は、子供の個性を尊重すると言って、一番肝心なことを、教えようとせずに、逃げている。つまりは、教えなければ、教育者として責任を問われないと思っているからだ。
 とんでもない。教育者が教えないと言うことは、最初から、自分の責任を放棄しているにすぎない。何もしないから、責任がないというのは、本末転倒である。
 結局、性に関して、子供たちは偏った知識だけを与えられ、暴走していくことになる。

 自分のやった行為と結果とが結びつかない。性的関係を持てば妊娠したり、病気になる可能性がある。妊娠すれば、子供が産まれる。子供が産まれれば、子育てをしなければならない。そういう関係が見えない。

 性に対する知識を教える前に、命の尊さを教えなければならない。人を好きになると言うことの意味を、人を愛すると言うことが、どういうことなのかを、子供を産み育てると言うこと、老いるという事、病気になるという事がどういうことなのかを教える必要がある。そして、幸せの形について語る必要がある。

 子供を産むと言う事が、何を意味するのか。子供を育てると言う事はどう言うことか。子供産むためには、どんな準備をしなければならないのか。子供を、産めばどんな影響がでるのか。その影響も、肉体的な影響。生活に対する影響。人間関係に与える影響。経済的影響。社会的影響。法的な問題。教育をどうするのかは、自分の生き様の問題に直結している。それに、自分がその土地で生きていこうと思ったら、その土地のしきたりや、風習も覚えておく必要がある。また、出産関わるいろいろな優遇制度やその為の手続きの取り方。保険みたいなものの活用法。産院の種類や付き合い方。気をつけなければならないこと。病気の事。薬の事。それら、諸々の問題を教えないで、性教育しかしない。
 生きていく為に必要な事は、日常的で些細なことの処理である。その些細な事が処理できなければ、社会生活を送れなくなる。一つ一つは、些細でつまらない事でも、それが、集積した時、重大な問題を引き起こす。人は、悲惨な事件が起きた時、そのきっかけとなったことばかりに注目するが、きっかけになった事象は、ある種の引き金に過ぎない。一つの事象の背後には、無数の些細な出来事が隠されているのである。
 それに、性教育と性の知識とも違う。どのような知識を与えるかは、社会的合意に基づく必要がある。少なくとも、保護者の了解を取る必要がある。一部の教育者の偏った考え方で、知識を教え込まれたら、保護者は、責任が持てなくなる。知れば、知ったことで行動を起こす人間が現れることを覚悟しなければならない。一部の人間の独善や偏見で、教育をするのは、犯罪行為に等しい。学校で教えているのは、人間としての有り様ではなくて、性の断片的知識と、生物学的な知識だけだ。しかし、もっと大切なのは、人間としての有り様である。
 子供を産むための心構えも姿勢もできないのに、子供を産んでしまう。その結果、子供を育てられなくなって、育児放棄、幼児虐待が、増えてもおかしくはない。それを解決する手段として、保育園の数を増やしたり、供稼ぎを奨励するのは、逆効果である。問題は、家族の在り方をしっかりと見直す事が肝心なのである。
 生きていく為に必要な事を教えないで、社会に放り出していて、責任を問う。論語に「教えずして殺す、これを虐と謂う。戒めずして成るを視る、これを暴と謂う。」今の教育の現状からすると、日本は、暴虐の国になっている。

 その人が、必要だと思うなら発端は、好奇心や興味があることでもいい。ただ、興味や好奇心は、その人自身の内面の問題である。国が、学問を強要する以上、教育を受ける者に必要性を説明する義務がある。
 要は、自分が学ぶに値するかである。

 男と女は違う。その違いを前提として、男女差別のことを問題にするのと違いを認識しないで問題とするのは根本的に違う。前提条件と事実をどう認識するかの問題である。前提条件と事実を確認する必要がある。
 神が存在するか、その神はどのような神か。神を信じる者にとって、それは、明白な事実だ。神を信じぬ者にとってもそれは明白な事実だ。しかし、そこから、全く違う世界だ。
 ただ、いえることは、何も信じない者には、あやふやな世界しかないということだ。

 自分が、どんな生き方をしたいかを知らずに、つまり、志もなく、仕事に就くのは、愛する前に女を抱くようなもの。できれば、愛を知ってからの方がいい。でも、大人が言う事、違うだろ。とにかく経験しろだ。焦る必要はない。理解者は必ず現れる。自分さえしっかりしていればね。自分がどんな愛し方をするかを決める事だ。先ず、自分の意志を、見極めるんだ。

 恋愛のすばらしさを教えずに、性教育をしてどうするの。百万言を費やしても、恋を教える事はできない。でも、恋をすれば、恋の本質を理解することはできる。概念として恋愛を教える事は、虚しい。だから、物語る。物語は、教育上不可欠なもの。しかし、物語を試験するわけにはいかない。だから、恋愛は、学校の教科からはずされた。試験できないから。恋愛で、合格って何。それは、人生そのもので評価するしかない。でも、最も重要な事。
 愛を学校では教えられない。だから、知識としての性教育をする。だったら、何も教えるなって言うの。大学生が、強姦をしたって。それって、愛する事を教えずに、性教育をした結果でしょ。それで、今の若者にモラルがないと責めるのは、お門違い。間違ったことを教えたおまえが悪い。

 志が大切なのである。愛する事が大切なのである。







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