F 自主性


 不思議な事に、自主性を重んじると言っている連中の方に強圧的な人間が多い。
 例えば、マスコミである。人の意見を尊重すると言いながら、独善的で他人の批判を受け入れない。似たように、自主性を重んじるという教育の方が、強圧的で、強制的な場合が多い。自主性、自主性と自主性を強調すればするほど自主性が失われていく。
 その原因が、自主性を強調している当人にあることに、自主性を失わせている当人が、気が付いていない。
 自主性や個性は、自主的にとか、個性的にになんて言われなくても、元々あるのものである。自主性を重んじているという連中の大半が、そのことに、気が付いていないのである。そして、他人と違うこと、言い換えると目立つことをすることが、個性だと勘違いをしている。そう言う連中は、何かと人と違うことをやれと強要する。素直に、自分がやりたいことをやっていても、他人と同じ事をやっているから駄目だと決め付けてくる。いい迷惑である。余計なお世話である。個性なんて自然に振る舞えば、自ずと出てくるものである。それが個性である。
 自主性は、出すものではなく。気が付いて発揮するものである。自分には、自主性や個性がないというのは、言っている当人が気が付いていないだけなのである。
 だから、自主性や個性を出させようとして強圧的になるのは間違いである。強圧的になればなるほど自主性は失われていく。
 極端な話。個性を際立たせようと思ったら、何もかも統一してしまえばいい。皆が同じ服を着れば、その人の個性は自ずとあからさまになる。
 主体性を発揮させようと思ったら、抑え込もうとすればいい。主体性は、反撥となって現れてくる。だから、修行は、極限まで自分を追いつめる。極限まで追いつめられて素の自分が現れてくるからである。個性というのは、余計な雑物を剥ぎ取ることで現れてくる。
 個性というのは、素顔である。飾り気のない素の自分の姿である。人と違うことをやれと言うのはお門違いである。まったく、無意味である。個性でも、何でもない。
 制服を統一すれば、顔と言った身体的特徴が際立つ。だから、個性が際立つのである。一概に、自由に服を選ばせれば、個性が出ると決めつけるのは、間違いである。
 下手をすると自由に服を選べという事が、個性や自主性を発揮させていない原因なのかも知れないと、疑ってかかるべきである。自主性や個性というが、言葉の意味もハッキリしないで踊っているのが実状である。

 個性や自主性を重んじた教育というのは、自己を発揚することである。自主性や個性という者は、その人、その人が、先天的に、もって生まれたものをベースにして形成されるのである。故に、自主性や個性を重んじる教育というのは、観察やフィードバックによってその人間の良い処や主体性を引き出す事以外にない。つまり、自己の発揚である。個性の根本というのは、いわば、素顔である。一人一人の顔は、皆、違う。この差が、個性の源である。
 個性を作るといって、顔を、厚化粧をしたり、整形するような教育が横行しているが、顔そのものを変えたり、作り出そうというのは、個性的というのではない。それは、逆に個性を圧殺することである。厚化粧をしたら、自分の顔が解らなくなってしまう。醜い部分も、厭なところも、気に入ったところも、綺麗な部分も、一切合切、自分の顔そのものを、先ず、認識する事、そして、自分の顔を好きになれるようにすることが、個性教育の根本である。最初から自分というものを否定したところに個性や自主性なんてない。
 その上で長所を伸ばし、短所を抑えるのが自主性や個性を重んじる教育である。土台を変えてしまったらむしろ個性を否定する事になる。
 自分の顔を否定したり、嫌いになるような教育は、個性を尊重する教育とは言わない。それは、教育や教育者が個性的なのであって、個性教育ではない。

 個性は、所与のものだ。その人が、生まれつき持っているものだ。後から与えられるものではない。それ故に、与えられた個性をいかに磨くかが、教育の本分なのである。
 
 先ず、水で顔を洗い、素顔になることである。そして、素顔の自分を鏡に写すことである。自分の素顔を直視することである。

 価値観や道徳は、後天的に作られる体系である。ことさらに、、この様な、後天的な体系を独創的なものにするひつようはない。個性というのを他の人とは、違う事、他の人にはないこととするのは、おかしい。だいたい、そう言う意味で、価値観や道徳観が、独創的で、個性的だったら困る。その人間は、社会に適合することができない。個性とは、その人が持って生まれたものや持って生まれたものから派生したものを指すのである。

 主体性というのは、綺麗になりたいとか、いい顔をしたいという意志が、その根源である。つまり、自分の意志である。その意志に基づいて具体的にどうしたいのか、それをその人が、自分の意志で決めた時、自主性は、発揮される。外面を美しくしたいと思う者は、お化粧の方法を学ぶだすだろうし、内面から美しきなりたい者は、内面から綺麗になるための努力をするようになる。
 それを、自主性は、内面から出るものであり、外見を着飾るのは、自主性でないなどと決めつけるのは、自主性を重んじていない証拠である。外部からのお仕着せ、強制である。自主性の根源は、その人の意志である。その人の意志を無視すれば、その瞬間に、自主性は、無視された事になるのである。だから、自主性を重んじる教育を標榜する者は、独断は許されないのである。

 自主性を重んじるとは、自信を持たせる事が、前提となる。よく個性を尊重する事と、皆を同等に扱うこととを混同している教育者に出逢う。違いが悪いのではなく。違いによって優劣を付け、自信をなくさせたり、子供達の人間関係に、序列や諍い、党派を持ち込み、先入観や偏見を植え付けてしまうことが問題なのである。

 個性とは、個人差である。差を認めなければ、個性を教える事はできない。男と女の差、一人一人の身体的な差をハッキリと認識させる事によって自己と他との区別を学ぶ。それが教育の始まりである。全ての差を否定してしまったら、自主性だ、個性だと言っても始まらないのである。それは、一人、一人の全人格の否定でもある。平等と、同等の意味の区別がつかない者の錯覚である。また、認識の差別と社会的差別との区別がついていないのである。男と女の身体的、生理的な差を明らかにしても、それが、男と女の基本的な人権を差別している事に、すぐに、結びつくわけではない。
 物理的な差、身体的な差、能力的な差、生理的な差は、人間的属性だが、性差や人種差、民族差、階級的差は、社会的属性である。これらを混同すると差別の本質が見えなくなる。個性を尊重すると言っている教育者の中には、これらの区別がつかない人間が多くいる。差を認めなければ、個性は、成り立たない。これは、個性や自主性の大前提である。

 教育の現場で一番の問題は、教師が、生徒を見ていないと言うか。生徒を観察しても意味のない状況に置かれているという事である。先生がよく生徒を観察し、生徒の個性や成長に合わせて教育しようとしても、それを反映する手立てがない。また、保護者や学校の経営者、地域住民と意見を交わし、それに基づいた協力関係や環境、設備を整える術がない。第一に、生徒当事者と話し合い、カリキュラムや将来への希望を聞き取ることすらできない。聞き取ったところで、進学以外相談に乗れない環境がある。保護者の多くは、進学や学校の成績にしか関心がない。これでは、教育者は、生徒の方を見なくなる。見ても何もできないのだから、虚無感しかもてない。先ず、この環境が問題なのだ。この環境を改めない限り、自主性も個性も絵に描いた餅である。

 主体性や個性を重んじるという事は、観察やフィードバックを基礎としなければ成り立たない。観察やフィードバックを基礎とするという事は、教育は、鏡の役割をすることが一番求められる。つまり、教育に一番要求されるのが、環境を整える事である。言うなれば、個性や自主性は、環境によって引き出されるものなのである。

 教育の大前提は、成長である。つまり、成長過程である。教育者の認識の中に、この成長過程が、欠落しいる事が間々ある。滑稽な事だが、子供の成長過程を全く無視して、教育を議論しているケースがよくあるのである。
 まだ、価値観や主体性が確立していないのに、子供達の、自主性を重んじてなんて平気で言う教育者がいたり、逆に、子供達の考えや人間関係を一切無視して自分達の考えを押し付けている教育者もいる。いずれも、子供達を見ていないのだ。だから結果は、同じである。

 また、教育者にも個性がある。教育者の自主性や個性を尊重しなければ、生徒達の個性や自主性を伸ばすことなどできない。それ以前の問題である。教育者は、無味無臭な存在ではない。また、透明な人間にもなれない。むしろ、個性的で自己主張が強い者である。その個性や自己主張を否定したら、教育は成り立たない。という事は、教育者も環境の一部だと言う事である。個性的でない人間や何の主張もしない人間が居たら、それ自体が、不自然である。結局、教育者も一個の人間として素の自分をさらす事が、要求される。

 自主性や個性を伸ばそうとした時、何が一番問題なのかといえば、こうしなければならないという決めつけなのである。
 自分達は、自主性や個性を伸ばすつもりだが、実際にやっているのは、違うのではないのか。そういう、問題意識を持って、常に、自分と生徒と環境を見直し続けることが大切なのである。そして、自分を見直すこと自体が、教育なのである。自由に服を選べという事が、かえって個性や自主性を発揮させていない原因なのかも知れないと疑ってかかる事が必要なのである。

 個性に応じた教え方をするのが本来の教育の在り方である。個性とは、いろいろの個性である。生徒の個性もあるが、教える側の個性もある。教える者と、教わる者の個性が、相互に刺激しあい、共鳴し合うところに教育は、成立する。

 現代教育で、何が、一番問題なのか。教育を担う人間に学ぶという姿勢がないことだ。特に、現実から学ぶという発想に乏しい。学ぼうと姿勢のない人間が、人を教えようとすること事態、滑稽である。

 教える一方では人は傲慢になる。教えるという事は、業の深い仕事である。学校出たての人間が、先生、先生と奉られ、生徒達の生殺与奪の権限を握ってしまう。そのうえ、狭い世界の中で、誰からも指図されることなく、生きていこうと、思えば生きていける。まともな神経でいられる人間の方が少ない。まともな神経でいようと思えば、常に、自分の師と呼べる人をいただく姿勢が必要だ。そして、その師こそ、生徒達なのである。

 失敗した事に教わる事もある。失敗こそ、良き師なのである。失敗や過ちは、許されないと思うから、先生は、自らの非を認められなくなる。自らが自らの非を自覚しながら、その非を認められない。それでいて人を指導する立場を守らなければならない。それでは、自分で自分が許せなくなる。これは、拷問である。人格を破綻させてしまう。教育者は、教育者である以前に一個の人間であるべきなのである。だから、こそ自分の過ちや失敗に学び。自分も一個の修行者として子供達に望む時、自ずと教育者としての道が開けるのである。

 教育とは、現実から何を学ぶかから端を発している。現実から学ばないから、どんどん教育の現場が、現実から乖離していく。つまり、教えることが現実離れしていく。教育される事と現実の行動規範や思考パターン、価値基準が矛盾していく。教えられた者は、教えられた事を忠実に守ろうとする、現実の社会に適合しなくなる。そこに、無意味な葛藤が生じる。しかし、苦しんでいる当人にとって深刻な問題なのである。それが高じていくと自己の同一性を失い、自己が分裂してしまう。自己の分裂を防ぐためには、主体性を喪失する以外にない。

 教えようとばかりするから、無理をする。つまり、それでは自分の限界以上のものは、教えられない。良いコーチという者は、自分の実力以上の者を指導育成する。
 人から教えてもらうことのできない者は、人の上に立つことはできない。先生は、人から教えてもらうことができない。故に、先生は、人の上に立つことはできない。
 学ぶと言うことは、最大の教育。教える、教わるという一方通行なものだが、成長は、教わるという受信と教えるという発信のバランスがとれてはじめて効果が上がる。言葉は、使わないと覚えない。生徒に学ぶ、子供に学ぶことができてこそ真の教育者なのである。

 教育も教育者も自然体だから、自由教育というのである。




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