二宮金次郎

二宮金次郎



 最近、ひょんな事から二宮金次郎の伝記を読み返すことになった。
 二宮金次郎は、戦前は、小学校へ行けば、必ず銅像があるほど日本人にとって普遍的な存在だった。それが戦後は一転して歴史から抹殺されていく。
 我々の記憶の中でも、二宮金次郎というのは、薪を背にして本を読んでいる姿しか思い浮かばない。不可解な存在である。子供心に何か触れてはいけない存在、また、時代遅れの存在という印象が植え付けられてしまった気がする。
 だから二宮金次郎という名前を出すことにどこか気恥ずかしさが伴う。

 二宮金次郎の一生を見てみて思い知らされるのは、二宮金次郎は、相手の心の中に眠っている人徳を引き出すのが巧みだと言う事である。
 金次郎は、力づくで相手を従わせるのではなく。道理を説いて、尚かつ、それを実践することによって相手を感化するのである。

 今の世の中は、間違った個人主義、つまりは、利己主義が横行していて狭い視野でしか自分を見ることが出来ない人達が増えている。
 ただ、自分勝手に振る舞っていて、それが結果的には、自分に災いを及ぼしているというのに、それすら気がつかず。自分は、自分のやりたいことを貫いていると錯覚をしている。
 しかし、そういう者の多くは、自分の本当にやりたいことも気がつかないでいる。自分の本当の姿を知らないからである。
 本当の自分とは、他者との関わり無しには生きられない。人と人との関係の中で人間は生きているのである。
 他人を生かすことは、自分を生かすことであり、又、自分は他人によって生かされているのである。そのことを自覚すれば、世の為、人の為に尽くす事が結局は自分を生かすことだと気がつくはずである。

 今、多くの人が自分を見失って鬱になっている。
 例えば、学校を卒業すると自分が何を学んだら良いのかとたんに解らなくなる。それは、自分が本当に学びたいことを勉強してきたのではなく。単に、受験をせんが為に勉強をしてきたからである。
 何等かの使命感や、真理への探求心と言った内面の動機に突き動かされたからではない。
 受験という目標を見失った瞬間に勉強の目標も失せてしまうのである。それでは、自分は、勉強がしたいから勉強してきたとか、激しい受験競争を勝ち抜いたとしても虚しいばかりである。

 自分が学んだことが世の中に役に立ったり、人の命を救ったり、又、生活に困った人の手助けになったり、国の役に立つことが解った時こそ、心の喜びが勉学によって得られるのである。それが報われることである。試験に受かったからと言って本当に向かわれるものではない。

 だから、内面の動機に突き動かされた者は、誰に強制されなくとも勉学に励むし、どんな迫害にあってもへこたれたりはしないものである。

 二宮金次郎は、江戸末期、疲弊した農村の建て直しに一役かった。
 彼の業績を辿る時、金二郎の行った何が、農村の再建に役立ったのかを考えてみた。
 金次郎は、1822年大久保家の分家、宇津井家復興の仕法を命じられて宇津井家の所領の桜町に赴く。金二郎が来る前は、桜町は、物理的に荒廃するだけでなく、精神的にも荒廃していた。金次郎は、物心両面から復興を果たすのである。

 人間は、主体的な動物である。主体性を無視した教育は、人間性を否定してしまう。一人一人が自分なりの使命や目的を見出した時、やる気が起こるのである。それは、単なる自己満足のために勉強をしていたら、結局、目的や目標を見失ってしまう。

 だから、自己満足のためにだけする勉強は、続かない。自分以外の人や組織、社会のために役に立つと思うからこそ勉強にも身が入るのである。

 二宮金次郎も、農村の再建に関わり始めた時は、農民は、勉学の意欲どころか、働く意欲すらなくしているのである。
 ところが、何かのキッカケで勉強を始め、それが、働いている仲間のために役に立つと言う事に気がつき始めると自分が率先して勉強するようになる。自分の為だけでなく、自分のやっていることが他人のためにもなり、又、それ故に、他人にも認められると自覚したときに勉強の目的とその意義がより確かなものとなるからである。
 人に言われて渋々勉強している内は、本物にはならない。
 俺は、何のために、誰のために勉強をしているのだろうと言う疑問に対する明確な答がないから自分の努力が虚しくなるのである。受験勉強が単に志望校の合格を目的としている限り、自分以外の人間には認められないのである。ただ、それでは、勉強は続かない。だから、結局は、親のためという口実を見つけるしかないのである。

 何のために勉強をしているのか。
 勉強の目的がよく解らないで、ただ、ひたすらに勉強をさせられる。強いて言えば、学生の勉強の目的は、受験である。こうなると受験が勉強の全てになる。
 極端な話し、受験以外の勉強は、勉強としての意味を失ってしまう。それは教科でも同じである。

 しかし、受験が目的だとすれば、合格しようとしまいと大学受験が終わってしまえば、必然的に勉強の目的は失われてしまう。

 指導者たる者は、人を使うことより、動かすことを覚えるべきなのである。それを実践したのが二宮金次郎である。

 現代人の多くは、世の為、人の為という言葉を忘れている。
 忘れていると言うよりも、更に悪く、侮蔑している。
 封建的で幼稚だというのである。
 しかし、その封建的で幼稚だとする考え方に支えられて今日の日本が築かれてきたことを忘れてはならない。
 自分の学んだ人が世の為、人の為に役立った時、そして、それに気がついた時、人は無上の喜びを得ることが出来るのである。

 二宮金次郎の一生は、決して体制に阿った一生ではない。むしろ、体制に対して行動をもって抵抗をしたという側面も見受けられる。ある意味で反骨の人である。
 それが、戦時中に体制に利用され、戦後は、軍国主義の象徴のように見られ、あるいは、受験戦争の中で、ガリ勉の象徴のように扱われた。
 いつの間にか、教育の現場から、あるいは、歴史から抹殺されようとしている。
 二宮金次郎だけでなく、塩原太助のように戦前の修身に扱われた人達は、歴史の表舞台から抹殺されようとしている。問題は、彼等が日本人の模範的な人物だったという点である。わけもなく、彼等を歴史から消し去ることは、日本の伝統文化を否定してしまうことになる。

 重要なことは、彼等の何が、修身の教科書の取り上げられ、なぜ、戦後、誰が、彼等を、歴史から抹殺しようとしているのかである。その背後にある政治的思惑の意味することを理解しないと政治の本質は見えてこない。彼等は、政治権力に生きているうちも死んだ後も翻弄されただけなのである。




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