仕事の基本


M T P(産業訓練)


私は、これから確実に日本の経営の質は劣化し、日本の産業は没落していくと思います。
なぜ、そう断言できるのかと言いますと、マネージメントの基本動作が失われつつあるからです。
自分は二十代の頃、社員の基礎教育の件で、教育訓練所を訪ねたことがあります。その時、産業訓練所や能率協会、生産性本部と主だった教育訓練所を歩いて廻ったのですが、どこへ行ってもMTPのプログラムを持っている教育機関その時すでになくなっていました。それで吃驚したんです。本来、MTPの本家であるべき産業訓練所でも純粋のMTPのプログラムはないと言われました。なぜならば、MTP各産業を一巡してしまい。需要がなくなったからと言う返答でした。
そして、目標管理とか、品質管理とか、小集団活動、感受性教育と言った一見して先進的で華やかな教育が花盛りで、MTPのような基本的で、地道な教育は廃れていってしまいました。
これは大変なことになると、その時、感じました。
日本の繁栄を支えてきたのは、組織力だと言われます。MTPは、その組織運用、マネージメントの基礎教育です。それを終戦直後忠実に導入し、その基礎教育の上に、QCサークル、目標管理、品質管理、感受性教育などが成り立ったのです。その土台が崩れ去れば、その上に立ったマネージメントも根底から崩れてしまいます。
今、MTPの基本的ノウハウは失われたとききます。今現在でもMTP訓練のプログラムを持っている訓練所はありますが、それは亜流であって本来のMTP訓練とは、異質なものだと聞いています。
MTPは、仕事の基本です。また、組織運用の基本です。つまり、企業理念や目標を実現擦るための手段、道具を用意する為の教育です。
いろいろな良いアイデアがあっても構想やアイデアを仕事に置き換える事が出来なければ、実現する事は出来ません。アイデアや構想が話の話し段階で留まることになります。マネージメントの基礎は、管理です。管理は、事務であり、手続です。その根本、礼儀作法です。
道具や、機械、仕組みには意味はありません。同じように事務や、手続、礼儀作法にも意味はありません。つまり、事務や手続、礼儀作用には、形式が重要なので実体はありません。事務、手続に、礼儀作法に実体を持たせるのは、人です。
車には意味はありません。単なる機械であり、仕組みです。車に目的や意義を持たせるのは、車を使うものです。車は、使い方によっては凶器にもなります。車を役に立てるのは人だと言う事を忘れてはなりません。運転の仕方を覚えれば、悪党でも車を運転することは出来るし、犯罪に使うことも可能なのです。
ただ、いずれにしても車の運転を覚えなければ、車を活用することは出来ないのです。
車の運転は、車の運転が出来るものにとって当たり前のことです。無意識でも身体が動く様になりますし、そうでなければかえって危険です。車の運転を覚えるのに、難しい物理学の知識は必要ではありません。つまり、車を運転するものは、車の仕組みに従って当たり前なことを当たり前にしているだけです。そう言う人にとって車が動かないことの方が不思議なのです。
組織も同じです。ところが、組織の中にいるとその当たり前なことが解らなくなるのです。そして、当たり前に出来なければならないことが、当たり前に出来なくなっている。それが組織の病気です。病気に罹っているのに、目先の華やかな成功例に踊らされている。
しかも厄介なことに自覚症状がなかなか現れてこない。つまり、無自覚なのです。無意識な次元で起こっている、自分は正しいと思ってやっている事の中に潜んでいるのです。その為に原因が掴めない。教わろうという気にもならない。些細で、つまらない、当たり前だと馬鹿にして取り合わない、くだらなく、そして、細かい事柄の中に潜んでいるのです。
凄く良い話で、みんなも納得し、賛成したいるのに、実行できない。又は、決定されない。これは誰かが、反対し、逆らっているのに違いない。妨害し、邪魔をしている人間がいるに違いない。そう思うのが人情です。こうなると猜疑心に襲われる。皆は、俺のことを馬鹿にしているのではないか。実際は、組織運用に基礎が失われていることに原因があるのです。そのことにいち早く気がつき着手しないと組織が土台から崩れ去ってしまうのです。企業であろうと、国家であろうと、破綻する原因は、組織が組織として機能しなくなることにあります。だからこそ怖いのです。
三つ子の魂百までもと我々は躾られてきました。つまり、社会人として当然に身につけておかなければならないことは、三才ぐらいまでにその基礎を躾ておかなければならないという事だと思います。その躾がされてないことが、今日の社会問題の根底にある事を誰も認めようとはしません。
又、何よりも基本が大切だ。基本が出来てない内に応用ばかりしていると身に付かないとも厳しく躾られてきました。ところが社会からその基本に対する躾、教育が失われつつあります。それで応用技術ばかりがもてはやされる。
野球でいえば、基本練習を疎かにして魔球ばかりを研究しているようなものです。それでは漫画になってしまいます。

引き籠もりにせよ、ニートにせよ、苛めにせよ、根本は、社会人として生きていく為に、当然、必要な最低限の礼儀作法が出来ない事が根本的原因なのである。人付き合いが出来ないから、ひきこもりになり、仕事にも就けない。その根本を直さないと引き籠もりもニートも解決できないのである。難しい事が出来ないのが問題なのではない。当たり前なことが出来ないことが問題なのである。大切なのは基本に対する躾である。
日本の産業が機能しなくなった時機にMTPを受けた世代が仕事の一線から引き下がった時機と重なります。これは偶然ではないと考えます。何よりも基本、基礎が大切なのです。初心原点に帰ることを忘れ、驕り高ぶっていることが日本の衰退に結びついているだと私は思います。

マネージメントの基本



 企業や国家の破綻は、企業や国家の組織が死ぬことを意味している。組織は、働きである。組織は、働く事によって集団を統制する仕組みである。つまり、組織の死とは、組織が働きがなくなることである。

 組織を規定するのは、組織の働きである。つまり、組織と働きだと言ってもいい。
 組織の働きは、順序、経路(筋道)、位置付け、関係、枠組み、段取り、行為、速度、時間、組み合わせ等によって発揮される。
 組織の働きには、認識、判断、意思決定、行動などがある。
 これらの働きを制御しているのが情報系である。
 組織は、指示、命令、報告で動いている。自主性や自発性によって組織は、動いているわけではない。組織を動かしているのは、指示、命令、報告である。
 自発性や自主性は、組織が機能する過程において発揮される。

 自発性や自主性は、組織を活性化する時に、重要な働きをする。組織を実際に動かすのは、指示、命令であるが、その原動力となるのが、組織を構成する人の自発性や自主性である。組織とは、人の集まりなのである。

 企業活動がコンサルタントによって活性する事がある。その場合でも、単純にコンサルタントの内容によって活性化されるだけでなく、コンサルタントする過程で、コンサルタント業務に伴う一連の作業が組織の働きを活性化する事による場合もある。
 重要なことは、組織が指示や問題を認識し、それを組織内部の働きに変換することなのである。

 組織もシステムの一種であり、事前にプログラムを入力しておかないと動かない。また、プログラム通り動かないと機能しない。
 そのプログラムが手続であり、規則である。そして、手続や段取り、規則をどう組織に覚え込ませるかが重要となる。
 又、組織においては象徴や儀礼が重要な意味を持つ。

 組織では、言葉や思いよりも形を重んじる。なぜならば、組織は、仕組みであり、形式だからである。
 いくら、組織のトップが自分の思いを語ったとしても、それを組織が実行できる形に変えることができなければ、組織はそれを実現する事は出来ない。
 組織は、指示、命令で動いている。自発性や自主性で動いているわけではない。
 組織は、形によって認識し、形によって判断する。正式な手続によって定められた形がない場合は、定型的に繰り返された手順を正式な形として認識する。故に、慣例、慣習が重要になるのである。

 組織は、指示、命令によって動く仕組みである。指示、命令を手続によって管理するのがマネージメントの基本である。
 つまり、マネージメントの基本は、組織を運用し、制御するための手順、手続である。
 組織も人工的な仕組みだと言う事を忘れてはならない。

 ところが今の日本では、組織を運用するための段取り、手順を軽視する風潮がある。

 手続とは、形式である。戦後、礼儀作法も含めて形式を封建的だとして否定してしまう風潮が強まった。
 その結果、手続、手順が空疎な過程になってしまったのである。

 マネージャーは、組織に自分の意志を認識させることによって組織を運用、制御することが可能となる。そして、組織は、指示、命令を受けることによってマネージャーの意志を認識する。指示、命令は形式によって組織に伝えられる。
 ところが、今の日本人は、形式を拒絶することで、指示、命令を殊更に、忌避する傾向がある。又、教育でも、指示、命令を封建的で悪い事と教える風潮がある。この様な風潮が、組織が指示、命令を認識する事を阻害しているのである。
 ではなぜ、今でも組織は、一定の働きをするのかと言うと、現代の組織でも、過去の受けた指示、命令が生きているからである。つまり、今の日本の組織は、過去に出された指示・命令に従って惰性で動いているのである。

 組織において、無意味に指示や命令を無視することは、組織の根本の機能を麻痺させてしまう。その結果、組織が機能しなくなるのである。

 よく今の政治は、決められない政治と揶揄される。しかし、決められないには、決められない原因、状況が隠されている場合がある事を見落とすと物事の本質が見えてこない。。
 組織における意思決定は、個人的な意思決定とは異質な論理で動く。組織決定には、役割があり、段取り、手順、手続があり、筋があり、意思決定の形式があり、意思決定の時がある。これらの認識が組織を構成する者に浸透していないと円滑、かつ迅速な意思決定がされなくなる。そして、その要、要にいるのが、マネージャーである。
 多くの人が決められない理由は、無論個人の資質の問題もあるが、それ以上に意思決定の文脈が理解されていないことに依る場合が多い。
 組織的な意思決定というのは仕組みそのものなのである。

 指示、命令は、言葉によるものと形式によるものとがある。形式によるものは、組織の行動や体制に作用する。
 指示、命令は、言葉によって表され、形式によって組織に伝達される。言葉による指示、命令がなければ、指示者の意志や考え方は組織に伝達されない。形式による手続がなければ、組織に各部分に組織の具体的な内容が伝わらない。いずれか一つが、欠けても組織は機能不全に陥り、制御が出来なくなる。

 反対や抵抗の意思を表明する手段には、言葉によるものと、態度や行動によるものとがある。
 言葉で反対することよりも態度や行為によって反対、あるいは抵抗された場合の方が影響が大きい場合がある。ただ、言葉によらなければ、その働きは部分的なものに収まって場合が多い。

 組織の基本的な動作は、実際の組織の活動を通じて伝承される。日常的な活動の行動規範が組織の基本的動作を伝承していくのである。

 組織では、いくら言葉で賛成したり、お追従のようなことを言っても形が反抗的だったり、背反的だと反対していると認識する。例えば、指示されたことを実行しなければ反抗していることと同じである。逆に正式に指示されたこと以外のことをするのも場合によっては反抗していると捉えられる。

 組織においては、手順やタイミングが重要な働きをしている。手順を変えたり、タイミングをずらすことは、暗黙の抵抗と見なされることがある。

 故に、マネージメントで重要になるのは、TPO、則ち、時と場所と場合なのである。

 かつての日本人は、小さい頃から、いろいろな行事や礼儀作法を通じて基本的な組織の運用方法を伝承してきた。
 我々は、よく筋を通せ、段取りをとれ、手順を踏めと厳しき躾られた。この躾は、決して親だけに委ねられたのではなく、地域社会の大人全員が関わってきた。所謂、それが日本人の教育の基本だってのである。

 その証拠に、日本語には、筋とか、手順、段取り、大枠、枠組み、差配、手配、支配と言った言葉か多くある。

 その筋とか、段取り 手順、大枠、枠組み、差配、手配といった言葉も死語になりつつある。それだけ日本人は、マネージメントの基本を失いつつあるのである。

 組織は、第一に、人の集まりだと言う事である。つまり、組織は、人間関係によって成り立っている集合体だと言う事である。第二に、組織は、情報系だと言う事である。第三に、組織は、意思決定の仕組みだと言う事である。第四に、組織は、合目的的な集団だと言う事である。つまり、組織には、何等かの目的があるという事である。第五に、組織は、人工的な仕組みだと言う事である。第六に、組織は、仕事の塊だと言う事である。仕事に応じて、権限と責任、権利と義務が生じるのである。
 これらの要素が組織固有の働きを生むことになる。そして、その働きが、組織固有の法や掟を形成していく。この点を理解せずに社会人教育は出来ない。

 現代教育は、組織に対して否定的だという事からしても無政府主義的傾向が強い。

 企業というのは、組織である。
 組織である企業に基本的に個人の仕事はない。
 一人でやった仕事でも必ず、組織に連携しておかなければならない。だからこそ、組織の仕事は、指示・命令に従って始まり、報告で終わるのである。
 つまり、組織の仕事では、連携が重要なのである。それがチームワークである。
 ところが、組織から連携作業が失われつつある。一人一人がテンデンバラバラに仕事をし、ただ、結果だけをより集めている状態である。
 それでも、組織が成り立っているのは、過去の業績の上に乗っかっているからである。
 それでは、組織としての自律性も、主体性も保てない。状況の変化に対応できないし、新しい事や組織の力を結集することは出来ない。結果的に保守的になるのである。
 そう言う組織のマネージャーの多くは、新しい事に反対しているわけではない。新しい事が出来ないのである。
 そうなると組織は死に体となる。

 組織には、組織を動かす固有の原理があることを忘れてはならない。
 組織が思う様に動かないと多くの人は、組織内部に異論があったり、反対意見や、阻害する者がいると短絡的に判断しがちである。
 しかし、組織が正常に機能しない原因の多くは、組織の成員が組織の原理を知らない事にある。
 例えば、正式、非公式の区別がつかないことである。組織においては、正式か、正式ではないのか、又、公式、非公式の差が重要な意味や働きを持つことがある。
 正式な会議なのか、非公式な打ち合わせなのかによって、また、正式な指示なのか、非公式な示唆なのかで個々の仕事の責任や権限が変質することがあるからである。
 組織においては、基本的に出来ればとか、お願いでは動かない。出来れば、お願いというのは、依願であって指示ではないからである。組織は、指示命令によって動く仕組みなのである。

 組織の個々の仕事には、始まりと終わりがある。始まりがなくて終わりのない仕事、始まりはあるが終わりが明確でない仕事、終わりはあるが、始まりがハッキリしない仕事というのは、組織にとって弊害でしかない。
 そして、個々の仕事の始まりと終わりを確定するのが正式な会議であり、手続であり、指示であり、報告なのである。故に、正式であるか、否か。公式であるか、非公式かが組織においては重要となる。
 反権威、反権力を標榜する者の多くは、組織内にあって敢えてこの区分を明確にすることを避ける。それは、組織を解体する目的があるからである。

 組織は、指示、命令によって動く仕組みなのである。故に、組織にとって重要なのは、組織が指示・命令を正しく認識、認知する事なのである。だからこそ正式な会議なのか、正式な指示なのか、正式な報告なのかが、重要となるのである。正式な報告が成されていない仕事は、たとえ終了していたとしても組織は、その作業が終了していると認識する事が出来ない。だから、その作業は、正式な指示がないがきり誰にも止められなくなるのである。

 組織は、その時点その時点で指示、命令が出ていなくても機能する場合がある。
 それは、仮想的な指示、命令、即ち、過去に出された指示、命令や慣例的な象徴的行為を正式な指示、命令として受け止めているからである。そうなると組織の動きは、組織的な意思決定と直接的に結びついていないことになる。つまり、組織は惰性で動いていることになる。つまり、過去の亡霊の指示に従って動いているような状態である。
 その様な場合でも、個々の成員の志気が一時的に高まる業績を引き上げることは出来る。しかし、それは、一時的な成果に終わり、抜本的な変化には結びつかない。
 周囲の状況が変化すれば適合できなくなり、淘汰されてしまう危険性が高い。自律的な意思決定が出来ず。制御不能な状態に陥っているのである。
 日本的経営と言われる組織の多くがこの状態に陥っていると考えられる。また、官僚機構も同様である。

 企業経営者の多くは、経営が上手く機能しない理由を企業理念とか、経営政策だとか、戦略においたりする。あるいは、組織変革がうまくいかない原因を社員の意識に求めたりする。私は、それを否定はしない。
 しかし、重大な要因の一つが正式な会議が開けないこと、正式な指示が出せないことだと思う経営者はきわめて少ない。
 しかし、経営が上手く機能しない根本原因は、組織の基本原理を無視することにある。

 規則やルールは、それが決定されてから、施行されるまでには一定の時間を明ける必要がある。それは、規則やルールを周知する必要があるからである。これなども組織原則の一つである。


 仕事は、作業を組み合わせた仕組みなのである。故に、パーツである作業を漏れなく、重複なく、全て洗い出しておく必要がある。よく一回だけ、打ち合わせや会議を想定する愚か者がいるが、打ち合わせや会議は、ネジのようなパーツに過ぎない。機械を一つのネジだけで作ろうなんて考える者はいない。しかし、仕事に関しては、一回の打ち合わせや会議だけで終わらせようとする者がいる。報告や指示も然りである。必要な打ち合わせや会議の回数を正確に読み出すことが大切なのである。

 全体を幾つかの部分(作業)に分解し、それを共通の要素に基づいて、分類し、それを一定の枠組みよって再構築する。共通の要素とは、動作、行為、成果物、時間などである。

 いつ頃、完成させるのかの目処を想定し、それまでの、大枠の日程を立て、日数を計算する。その上で、やるべき作業を、重複なく、漏れなく、全て洗い出し、その作業を手順、段取り沿って組み立てて計画を立て、必要な人数を割り出し、分担を決めて組織化をする。その上で必要な費用の見積もりを立てて予算かをする。

 どの様にして目処を立てるかというと、大枠を設定し、打ち合わせの数を概算することである。
 打ち合わせの回数は計算するのが容易である。それに対して、作業量を計算するのは難しい。なぜならば、打ち合わせは一律に捉える事が可能だが、作業の多様だからである。
 一つの作業の前後には、打ち合わせがある。一つのイベントに対して最低前後に一回ずつ都合最低二回。最初の打ち合わせは、段取り。最後の打ち合わせは確認。
 打ち合わせ時間は、二分から三分、長くても五分を目安とすべし。

 会議と討論会の区別がつかない者が多くいる。
 会議で自分の考えをいえというと自己主張を始める者が多くいる。これなどは、思い違いの最たるものである。
 会議上で、どう考えるか、どうすると聞かれるのは、仕事上のことで、おまえは、何をしたいのか、どうしたいのか、又、どうして欲しいのかを聞かれている場合がほとんどである。
 方針が定まっている場合は、段取り・手順のことを聞かれているのであり、批評や評論を聞かれているわけではない。又、抽象的な意見を聞かれているのでもない。実務的な問題を聞かれているのである。そのピントがずれると会議は、会議でなくなり、討論会の場と化してしまう。

 マネージャというのは、作業段取りを制御する事が主任務なのである。監督は、選手ではない。選手は、自分のプレーだけに徹すればいい。しかし、監督は、全体を見渡して、個々の選手に指示を出さなければならない。その差を理解しないとマネージメントは出来ない。
 仕事がうまくいかない原因の多くは、個人の能力の問題よりも、手順、段取りの悪さに起因する場合が多い。それを個人の能力の問題と錯覚している内は、根本的な問題の解決には至らないのである。なぜならば、組織が上手く機能しない原因が掴めないからである。
 スポーツでも、力の差によって勝敗は決まるかもしれないが、少なくとも試合は成り立つが、選手や監督がルールを知らなければ、護らなければ、試合そのものが成り立たなくなるのである。

 何事にも、始まりと終わりがある。人生にも始まりと終わりがある。舞台にも始まりと終わりがある。音楽にも始まりと終わりがある。小説にも始まりと終わりがある。試合にも始まりと終わりがある。何事にも始まりと終わりがある。
 特に、仕事においては、始まりと終わりが大切な意味がある。始まりと終わりを明らかにする事が仕事を成就する為の大事となる。
 ところが、最近は、この始まりと終わりがハッキリしない仕事が増えている。だからしまりがないのである。なんとなく始まって、ダラダラといつまでも終わらない。
 仕事の始まりは、決断である。終わりは確認である。作業は指示に始まり、報告で終わる。
 又、礼に始まり、礼に終わるとも言う。スポーツは宣言で始まり、宣言で終わる。つまり、始まりと終わりには形がある。それが儀式であり、礼である。それが、けじめである。要するに、現代社会はけじめがないのである。いつ始まったのかが解らず。いつ終わったのかも解らない。そんな仕事は仕事とは言えない。
 儀式や礼は、形式であり、意味がない。意味は、儀式や礼を行うことによって生じるのである。
 始まりや終わりと言ってもむずかしく考えることはない、二、三分のスタッフミーティングを設定するだけでいいのである。簡単なことも配慮できなくなりつつあるのである。礼や儀式は、形を作る。礼や儀式によって始まりと終わりを作る。
 その為に、始まりと終わりの儀式は不可欠である。アメリカのドラマや映画を見ると事ある毎にスピーチを設定している。
その簡単な設定だけで仕事が引き締まることを忘れてはならない。

 今の管理者は、筋を立て、その筋に沿って作業、段取りが組めないから自分の経験の範囲内でマネージメントをしようとする。大体、そう言う人間に限って奴働き、即ち、一担当者としての働きしか経験がないから、筋の通った仕事の経験が少ない。だから、頭がカチカチに固くて、状況に合わせた判断が出来ない。組織が硬直化してしまうのである。

 会議というのは、一種の真剣勝負である。
 会議の前提は、時間や場所、式次第、そして誰を出席させるのか、又、誰が議長や書記となるのかと言った設定によって決まる。
 誰が口火を切るのか。それによって会議全体の様相が変わる。
 発言では、先ず大切なのは、何から切り出すかである。高飛車に行くのか。それとも低姿勢に行くのか。それが構えを決める。
 発言と発言の間合いも重要である。
 要するに、かみさんになんて言おうかな。ママに叱られる。そうなると必死に話の構成を考える。そう言う感性である。ところが仕事となると鈍感になる。
 それが、甘えになるのである。
 だから、物事が決まらなくなる。
 話し合いの結論が出たら、速やかに、指示命令に置き換え、仕事にする。これが肝腎なのである。
 結論を誰に報告するのかを意識して会議やセミナーを受けると話の内容の焦点を定められる。

 仕事においては、時間を与えればいいと言うわけではない。
 時間を与えすぎると蛇足が生じる。余計な時間をかけないことがコツである。
 また、先に時間を切ってからやることを決めるのが手順である。二時間後に打ち合わせることとすると先に決め、それまでに何をするかを決める。そうすれば、作業の内容を特定することが出来る。

 物事には、順番がある。
 誰もが正しいとし、賛成し、協力するといっているのに、上手く話が進まない。それは、手順、段取りが悪いのである。ところが多くの人は、手順、段取りが悪い事に気がつかない。だから悪意が働き感情的になる。
 物事には、段取りがあるのである。つまり、順番が大切なのである。
 しかし、見た目や表面的には、段取りや順番は無意味である。無意味に見えるから、退屈で、どうでもいい、些末なことにしか思えない。だから馬鹿にして、真剣に話し合おうとしない。
 しかし、将棋も、麻雀も、囲碁も手順段取りを競うゲームなのである。本来、手順や段取りは面白いことなのである。
 物事の順番、段取りは、時と場所と人、状況や前提によって変化する。また、作業の順番の組み合わせは一通りではなく、無数にある。だから、事前に打ち合わせる必要があるのである。
 手順や段取りが形に定型になったものが、手続や礼儀、作法である。だから、礼儀作法が重要なのである。そして、礼儀作法は、その下地になる社会の仕組みや価値観を反映し、また、社会の仕組みや価値観を変えていく力が潜んでいる。形を変えると社会が変わるのである。 言葉を変えると人格も変わる。

 先ず手順を確認する。その次ぎに段取りを組む。それが仕事の定石。
 出だしの日と最終日を決める。そして、出発点から終着点までの間の区割りをして何回正式の会議を開くかを決める。その上で大枠を設定し、段取りを決める。段取り手順は、一般に責任者と担当者決め、主旨、目的を確認して、日時・場所・関係者や出席者を特定し明文化するところから順に開始する。

 仕事の手順は、昨日、明日、今日の手順で考えると組みやすい。
 今日だけのことを考えても仕事の段取りは組めない。
 仕事は、明日につなげることを考える。

 次ぎに何をやるのかが鍵である。仕事には流れがある。前後、左右、上下を考えずに仕事の段取りを組むことは出来ない。基本的に組織の原則に則って仕事はするのである。組織では、一人では仕事は出来ないのである。

 打ち合わせで重要なのは、第一に、次ぎいつしますか、次ぎに何をしますかという事。第二に、それまで何をしなければなりませんか。そして、最後に、ところで自分は何をしたらいいですかの三点である。それが、明確でなければ何も決まっていないのと同じである。

 今、解っている事とやってある事を明らかにする事が原則である。解らない事を解ったし、やっていないことをやっているとするから言い訳になる。
 解っていない理由ややっていない理由は、聞かれた時以外応える必要はない。
 解らない事は、解るものに聞く。出来ないことは、できる人に任せる。
 解らない事、やっていない事を明らかにしたところから仕事は始まるのである。

 相手の言っている事が解るというのと、何をしたらいいのか解るというのは次元が違う。
 基本的に解っているというのは、自分のことである。場合によっては、自分の考えすら解っていない。だから、そこに仕事や組織が必要とされる要因がある。
 先ず、自分が何をやろうとしているのか、解ろうとしているのかを知る事、明らかにする事である。そこに、真の目的や目標が隠されている。
 他人の欲求を目的としても自分が何をやろうとしていることは理解できないのである。
 先ず自分の目的、立ち位置、立場を明らかにする事である。
 その上で、常に次を考える。
 次回の詳細を決めない打ち合わせは無意味である。

 日本の経済力の低下の原因の一つに、日本の経済を支える管理職層の実務処理能力の低下が上げられる。兎に角、最近の管理者は、仕事の話や実務の話が嫌いである。
 実務というのは、本来地道なものである。単純作業の反復繰り返しが基本である。だからこそ、技術の向上が経験によって望めるのである。ところが、最近の若い管理者は、この単純繰り返しの作業を嫌う。
 実務というのは、個々の部分を見れば、細かくて、つまらなくて、くだらない作業に見える。それ故に、実務的な話は兎角馬鹿にされる。実務を理解しない者にとって、当たり前なことをくどくどと話しているようにしか感じられないのである。
 その結果、打ち合わせた内容を理解せず、勝手な行動に走る。
 第一に、言ったことを守らない。決めた事を実行しない。そのくせ、言われたこと以外のことをやったり、やってはならないことをやってしまう。つまり、余計なことばかりして、余計なトラブルを引き起こしてしまうのである。
 実務の基本はチームワークである。一人でも、実務を無視して勝手な行動や言動をとれば全体の仕事が破綻してしまうのである。
 結局、実務の根本は、克己復礼である。仕事とは、一種の修行、事上の錬磨なのである。

 昔の親や教師は、子供達が、世の中や社会に出たときに困らないようにと生きていく上で、必要な基本的なこと、例えば、挨拶の仕方とか、口のきき方、礼儀作法を事ある毎に躾、教えてきた。本来、それを教育と言っていたのである。
ところが、それを俗に言う闘争世代、つまり、我々から我々の一世代上までの世代の人間が、反体制、反権威の名分の本に総てを否定し、打ち壊してきた。
 その為に、我々の世代以降の世代は、世の中や社会の中で生きていく上に必要な素養を習得できない内に世間に放り出される事になったのである。
 これからの社会は、この事を前提として考えなければならない。つまり、社会人として必須の素養を身につけていない人間を前提として社会生活していかなければならないという事である。
 俗に言う、ニートもそうである。又、ストーカーも然り、また、インターネット中毒、引き籠もり、苛め、鬱、自殺、登校拒否、家庭内暴力、薬物中毒これらの事象の多くは、人と人との関係が築けないことに起因する。

 問題意識を持てと言うが、今の学校教育は、問題の解き方を教えても、問題の設定の仕方は教えない。世の中に出たら、八、九分が問題設定、問題認識である。そこで重要になるのが問題意識である。問題を認識できなければ、いくら解き方を覚えたところで始まらない。
 教育とは、環境や習慣が重要である。問題意識もないままに、ただひたすらに問題を解かせ続けさせるのが、学校である。始まりがないのだから、終わりもない。大体、プロセス、過程もない。
 それを小中、最低、義務教育の九年間、更に、高校の三年間を加えて十二年間、更に、大学に行けば、四年間を加えるのだから、馬鹿になる。問題意識も持てないままに世の中に放り出されるのである。考えてみたら、ゾッとすることである。
 しかも、成人に達し、社会に出たら、社会人として世の中に出るために必要な常識を身につけているという事を前提とされてしまうのである。
 成人式で、常識がないと叱る前に、自分達が常識を持たせるような教育をしてきたかを反省すべきなのである。
 かつては、常識がないと思われるようなことをしたら、親の顔が見てみたいと言われたものなのである。

 かつては、遊びの中で、遊び仲間によって集団生活の基本的なわきまえを体得してきたし、又、家庭の中や親戚が必要な事は、日常生活の中で躾てきたのである。子供の頃から親の仕事の手伝いをさせられて、生きていく為に必要な事を身につけてきたのであるが、今の学校教育は、そう言うことを総て否定して、学校という狭い社会、教室という閉ざされた空間の中で、ただひたすらに与えられた問題を解くことだけに専念をさせたら、しかも、教える者が社会経験に乏しいときたら、常識外れの人間が育つのは、必然的、帰結である。
 人と人との付き合いが出来ない人間が増えるのは致し方ないことである。しかし、それでは職場は成り立たなくなる。だから結局、職場で挨拶の仕方から躾なければならなくなる。これからの日本は、当たり前なことが当たり前に出来ないことを前提として考えなければならないのである。






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