修行とは


修行とは



 修行とは何か。
 教育から修行という要素が失われて久しい。
 現在の教育には修行という要素が欠けている。
 かつての教育は、逆に修行という要素が過半を占めていた。
 つまり、教育の目的は、人格の形成にあったのである。
 一人前の社会人として認められるような人格の薫陶が教育の目的だった。
 今の教育は、人としていかにあるべきかという事は、埒外にある。
 道徳や常識、良識は、公的な教育の守備範囲外だと見なされ、主として読み書き算盤と言った技術や知識の取得に重点を置いている。
 しかし、陶冶こそ教育本来の目的である。

 事上の錬磨。

 日本人にとって修行の場は、至る所にあった。日常生活の中にこそ、修行はあったのである。
 例えば、仕事、家事洗濯、掃除、待つことにさえ修行があった。
 特に、トイレ掃除は重要な修行の一つである。
 その修行が日本の教育から失せてしまった。

 一人前の板前になることを以前の日本では修行だと捉えていた。
 今は、料理人を育成するための教育と捉えている。
 だから、必要な知識や技術を教科書や教材を使って教えればいいと考える。
 私は、それを全面否定する気はない。
 しかし、私は、逆に板前の修業を全面的に否定するのもおかしいと考える。
 それは生き方の問題であり、思想の問題である。
 どの様な生き方をするのかは、個々人がすればいい。
 どちらか一方を強制する必要はない。

 板前の修業は、掃除や道具の手入れから始まる。
 掃除とか、道具の手入れを通じて、板前としての心得を徒弟制度によって学んでいく。
 掃除や道具の手入れに意義を見出すのである。
 そして、それは修行の一貫だと位置付けられる。
 板前にとって仕事は、人生修行の一つなのである。
 技術の習得は、それ自体が生きる目的の一つとなる。
 一つ一つ、体得し、習得する事に階級が上がっていく。
 つまり、修行と人生は一体なのである。
 親方と板前関係は、師弟関係でもある。

 だから、技術だけが長けていてもそれで良しとはされない。
 点数さえよければ、良いとする今の教育とはそこが違うのである。
 むろん、板場修行には、板場修行の欠点もある。
 だからこそ、料理教室と併用すればいいのである。

 修行とは、実践である。
 修行とは生きることである。

 修行には単純反復という事がある。
 つまり、単純な同じ事、ただひたすら繰り返すことで技を磨くと言う事である。
 ところが、今の学校教育では単純反復訓練という発想を切り捨てている。
 毎年、毎回、違うことを教える。それが成長だと錯覚しているのである。
 だから一回でも欠席してしまうと後が続かなくなる。その結果、おちこぼれを増やすことになる。
 空白期間が生じたら一生取り戻せなくなる。
 同じ事を二度繰り返すことは、間違いであり、劣っていると見なすのである。
 故に、落第や留年は馬鹿にされる。
 自分が納得してなくても一定の期間が過ぎ、試験を通れば終わってしまう。
 やり直しはきかないのである。
 一度、学校に入ったら、ベルトコンベアー式に、決められた順番に、決められた違う事を毎日、毎年、段階的に教わる事になる。
 それでは、個性を発揮することは難しくなる。
 しかし、修行の本質は、繰り返しにある。
 同じ事を繰り返す。納得がいくまで繰り返す。繰り返すことで成長する。それが修行である。遅い、早いは本質的な問題ではない。ある一定のレベルに達してから次の段階に入るのが大事なのである。
 また、同じ事を同じように繰り返すことで、個性が明らかになる。
 個性は、同じ事を同じように繰り返すからこそ明らかになるのである。
 そうなると経験差がものをいうようになる。
 年齢と伴に人格も技術の磨かれ、円熟していくことになる。それが人生であり、修行なのである。
 だからこそ年功者、年長者に対する敬意が生じる。

 毎年毎年、違うことをやっていたら常に、初心者である。
 しかし、同じ事を十年繰り返せば、その十年の差は、越えられなくなる。
 それが熟練である。その上に熟練の技は成り立っている。
 単純反復を馬鹿にするから、熟練の技は廃れるのである。

 毎年違うことをやっていたら、歳をとると伴に若い者にかなわなくなる。
 そして、若い者は、年寄りを馬鹿にするようになる。
 それが現代の教育である。

 又、訓練という要素も切り捨てている。
 違うことを教えるのだから、訓練をしても意味がない。
 だからテストだけが重要になるのである。日頃の訓練なんて意味がないからである。

 学ぶところは、学校、大学だけが全てではない。

 修行者にとって仕事の場や、生活の場、社会こそが学舎、道場になる。
 生活の中でこそ勉強になる。それこそが修行である。
 遊びも又、修行となる。
 剣道も、柔道も、水泳も、茶道も、華道も、お琴も皆修行である。
 それが日本人の思想である。
 修行は又、美意識に通じる。

 同じ事を繰り返すのであるから、基本的に誰でも入門できる。
 試験に受からなかったから駄目というのではない。
 要はやる気の問題なのである。
 やる気さえあれば、修行は誰にでも始められる。
 試験に受からなければ出来ない学校の勉強とは違う。
 そして、いつでもやめられるし、一生続けることも出来るのが修行である。
 卒業や、定年退職で終わりという学校の勉強や会社の仕事とは違う。
 学校で学んだことの多くは、学校を卒業すると役に立たなくなるし、
 また、会社の仕事は、定年退職すれば、リセットされてしまう。
 しかし、修行は、自分の為に行うことであり、死ぬまで続けることが出来る。

 他人に認められなくても修行は出来る。
 修行は自分の為にする事だからである。
 他人がどう言おうと、他人にどう思われようと、自分が納得していればいい。
 基本的に克己心の問題なのである。
 また、資格がなければ出来ない仕事とも違う。
 修行は生きることに通じているのである。
 単なる労働とも違う。修行なのである。自己実現、自己表現なのである。

 職人の修行を始めるのは、早ければ早いほどいい。
 それは、真の技術は、経験がものをいうからである。
 この修行という要素が失われたことで、教育は、本来の意義が抜け落ちてしまった。
 修行とは生きる意義を体得することなのである。

 修行とは、一芸を極めることである。
 修行が至る所は極致であり、一つの心境である。
 故に、修行は一生続くのである。
 修行という一本筋が入ることで、教育は、心張り棒が通るのである。

 かつての日本人は、生きる事自体を修行として捉えていた。
 今は、違う。
 僧侶ですら修行を求めなくなった。今の僧侶は、生業に過ぎない。
 だから、私は、今の僧侶から教えを受けない。
 日本人にとって本来生きる事自体が修行なのである。
 だから、道と言った。
 生きることは道なのである。人道なのである。






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