礼   節


礼    節



 先ず志せ。そして、誇り高くあれ。

 かつて、日本人は、誇り高かった。
 故に、日本人を誰も支配することができなかったのである。言い換えると、日本人を誰も奴隷にすることはできなかった。
 日本は、戦争に負けた。戦争に負けて、自分達で、自分の国を護ることさえ許されなくなった。そして、日本人は、誇りを失ったのである。
 護ると言う事。護ると言う事の意義。何から何を護るのか。それが、国家の本質である。
 礼節とは、恥を知ることである。恥を知るとは、誇りを持つことである。
 なぜ、誇りを持つのか。それは、誇りによって護られているのは、自己存在の尊厳だからである。自分が人として依って立つ処だからである。誇りを守れなければ人でなしになるからである。
 自分の身は、自分で護る。自分の家族は、自分で護る。自分の生活は、自分で護る。自分の仲間は、自分で護る。自分の国は、自分で護る。それが、建国の意義である。
 礼節を知るとは、恥を知ることである。礼節を持つとは、誇りを持つことである。礼の本質は礼の本源にある。
 護るべき事がわからない者は、何を護って良いのか解らないから、気位ばかり高くなり心が籠もらずに慇懃無礼になるのである。
 慇懃無礼な態度は、一見鄭重に見えても、礼節も、誇りもない。自分に対する拘(こだわ)りである。我である。御身大事の保身に過ぎない。護るべきは何か。それが礼の本源である。
 護るべきものは自分で決める。それでこそ自分の誇りは保てる。命を賭けても護らなければならないのが一分である。その一分を尊重するのが礼である。故に、誇りなき者は礼節を知らない。
 戦後の日本人は、愛だの、自由だのと格好(かっこう)をつけていうが、内容が伴わないから愛だと言いながら冷淡、非情であり。自由だと言いながら、実際は、我が儘勝手、放縦に過ぎない。仁も恕もないのである。

 礼節の本源は、仁であり、恕である。
 不仁にして礼なし。
 礼は形に現れる。故に、礼は、形式を重んじる。
 形を重んじるからこそ、その心が大切なのである。

 士は己を知る者のために死す。それが礼の根本である。
 礼は、互いに認め合い、敬い合う心から生じる形である。お互いを敬い、思いやるから成り立つのである。相手を侮蔑したら、礼は成り立たない。些細な挙止動作を取り上げて相手の立場を失わせるのは、礼の本意ではない。

 三顧の礼は礼の極致である。真の敬心は、老若男女、門閥家柄、学歴の別を越え、只ひたすらに恭敬する。誠心誠意、それは、礼の極致である。

 慇懃無礼と言う事。
 相手に対する心からの敬意や思いやりのない態度は、いかに法にかなっていても無礼である。
 人には、人それぞれ立ち位置、立場がある。相手の立場をよく弁(わきま)え、慮って行動しなければ礼に反する事になる。立場というのは、その人個人の問題だけでなく。その人の背後にある諸々の人間関係をも含む。例えば、子であれば親の、妻であれば、夫の立場もある。
 夫ある者に、酒宴の席で酌をさせれば、当然、夫の体面にも影響が出る。子の面前で親を罵倒し、恥をかかせれば、子の面子にも関わる。友を侮辱されれば、聞き捨てはできない。国の名誉を傷つけられれば戦うしかない。故に、礼節は、相手の立場を慮る気持ちが不可欠である。
 相手の面子、面目を潰してはならない。人前で、恥をかかせることは、厳に慎まなければならない。何事も自分の言い分を押し通そうとするのは非礼になる。相手の顔を立て、譲り合うべきところは譲り合う。それを謙譲という。それが礼である。
 相手の名誉を傷つけたら、どれ程、形式にかなっていても非礼である。
 仁や恕がなければ、形式が整っていても無礼である。形式に間違いがなければないほど、相手の感情を逆撫でし、かえって失礼になる。
 逆に、相手に対する思いやりがあれば、多少、形が崩れていても礼にかなっていると言える。
 礼は、形に囚われては、実現できない。しかし、形がなければ礼を表現できない。だからこそ、形に精通する必要があるのである。

 礼は不文律である。故に、絶対にこうしなければならないと言う形があるわけではない。郷にいれば郷に従う。その土地に行けばその土地の礼を聞く。聞くのが礼なのである。それが礼である。
 礼式は創造的な形なのである。創造すべき形なのである。

 人には、命をかけても護らなければならない事がある。それが、一分、面子、面目、体面、沽券である。一言で言えば名誉である。名誉とは何か。名誉とは、自分が依って立つところを護ろうとする感情、自分が自分として生きていくために必要な最低限の条件を守ろうとする感情である。それは、自主独立の気概である。
 この一分や面子、面目、体面、沽券を傷つけるてはならない。それが礼である。なぜならば、その人がその人としていられなくなるからである。日本人としての体面を傷つけられれば日本人としていられなく。女房の面子を潰されて黙っていれば夫ではいられなくなる。親の名誉を傷つけられてそのままでいれば子としての立場がなくなる。聞き捨てならないことなのである。
 自分の名誉を守ると言う事は、人としての道を護ることに通じるである。自分の事は自分で決める。それが矜持である。それは、自分の家族の問題は、自分の家族で始末をつける。自分の会社の問題は、自分達で解決する。自分の国は、自分達で護ると言う覚悟を示すことであり、それが名誉の根源だからである。名誉の根源は、肩書きや財産、門閥にあるわけではない。己にある。
 名誉を守るのは、自分への礼、家族への礼、同胞、同輩への礼、友、仲間への礼、国への礼である。
 我々の世代は、面子に拘るなとか、体面なんてどうでも良いと否定してきた。その結果、日本人のしての誇りすら失いかけている。しかし、昔、武士の体面を傷つけたら只事では済まされなかった。果たし状を突きつけられても文句は言えない。日本人として矜持をなくせば日本の独立は護れない。それでは祖国への礼が保てなくなる。祖先への申し訳が立たない。子孫に対する申し開きができない。礼節を失する。

 体面には深くその人の立場が関わっている。
 物事には、順逆、上下、順序、順番がある。その順逆、上下、順序、順番をわきまえるのが作法であり、礼である。それが立場である。

 相手の立場を慮るというのは、相手が後々、礼儀知らずとか言われないように配慮すると言う事である。一方的に自分の立場を相手に押し付ければ、相手は立場を失う。相手の顔を立てて譲るべきところは譲らないと思わぬところで相手に恥をかかせてしまうことがある。いくら相手を立てると言ってもやりすぎは禁物である。かえって相手を侮辱することにもなる。

 世の中は、型どおりにはいかない。型どおりにいかない世の中にどう折り合いをつけるかが、礼の基本である。おのれが勝てば相手の面子を潰す。しかし、通すべき筋は通さなければならない。そこに礼節の本質が隠されている。
 礼は人の立場をあからさまにする。人は、礼を通して自分立場を主張しようとする。礼には、一人一人の意地や面目の張り合いが隠れているのである。一人一人の意地や面目とは、その人が依って立つ処から生じるからである。故に、それぞれの立場、面目が立つように配慮しなければ収まらない。

 組織を代表する者は、組織の力関係、位置関係が礼儀に反映される。組織を代表する者の名誉は、組織の名誉でもある。国を代表する者の名誉は、国家の名誉でもある。それ故に、立ち位置、席次が問われるのである。そして、そこに主催者の意志や思想が顕現する。

 弱い立場に置かれている人間を慮るのが礼である。それが惻隠の情である。
 弱い立場に置かれているものとは、相手の要求を拒めない立場にある者と言うことである。例えば、弟子、部下、子供、下請け等、有り体に言えば恩義を感じている者である。恩義を重んじる者は、律儀な者は、恩義のある人の要求を拒むことが難しい。いくら恩があるからと言って無理難題を持ちかけるのは、礼を欠いている。
 惻隠の情とは、勝者が敗者に対する敬意、思いやりに典型的に現れる。勝ちも負けも時の運、お互いが全力を尽くしたことを讃え合い、結果を水に流す。勝者の敗者もなく対等の礼を尽くす。それが日本の礼法である。
 弱い立場の人間を抜き差しならぬ状況に追いやるのは、著しく礼を欠いた行為である。惻隠の情がないのである。
 相手の逃げ場を断ってはならない。故に、礼には譲り合う精神が求められるのである。それが謙譲の美徳である。相手の逃れる術を全て奪うのは、礼に反する。
 力ある者が譲る。合わせる事のできる者の方から合わせる。それが謙譲の美徳である。

 公衆の面前で恥をかかせてはならない。人を注意したり、叱る時は、余程、注意しなければならない。指導する目的を失うどころか、こちらの面目を失うことがある。人を指導すると言う事は、指導する側も指導される側もよくよく礼節を慮る必要がある。

 相手が神聖として尊んでいる事象は、謹んで侵してはならない。特に宗教上の聖なる物、聖なる場所は敬意を以て接する。それが礼の基本である。他人が信じる物を自分が信じていないからといって侮るのは、甚だしく礼を欠いている行為である。

 礼節の元は、冠婚葬祭にある。礼の本源は、天にあり、神にある。人が敬う対象を汚すのは、恥である。
 冠婚葬祭にこそ、人々の生活があり、文化があり、思想がある。冠婚葬祭こそ礼を凝縮した形である。
 人が敬う物を貴ぶことこそ、礼の本義である。

 魂のない肉体は、骸にすぎない。ただ醜悪なだけである。肉体は魂を失えば後は朽ち果てるだけである。肉体に魂が宿ってはじめて自分がこの世に現れる。魂と肉体とは渾然一体である。
 魂は、純粋無垢にして清浄である。心を強く鍛えなければ、魂の清浄は保てない。心が乱れれば立ち居振る舞いも乱れる。それは生きる姿勢に現れる。
 健全な肉体に、健全な魂が宿る。肉体を鍛えることによって、又、魂をも鍛えるのである。健全な肉体とは、贅肉を削ぎ落とし、姿勢が正しく、均整のとれた肉体を言う。それは、日常の正しい生活習慣によって作られる。
 礼において、心と形は、一体である。

 付き合いという言葉が、最近、聞かれない。我々が子供の頃は、付き合いという言葉が頻繁に使われた。近所付き合いとか、職場での付き合いという具合である。しかし、最近は付き合いという言葉だけでなく、付き合いそのものが廃れてしまった。
 付き合いは、人と人との交流が基本である。しかし、付き合いが形骸化し、人と人との柵(しがらみ)だけが残ってしまった。付き合いが形骸化したからといって付き合いが不必要になったわけではない。人間関係は、普段の付き合いが土台にあって成り立っている。付き合いを円滑ならしめるのは礼儀作法である。礼儀作法から礼の本質が失われたことが問題なのである。付き合いほど人間としての在り方の基本が問われることはない。だからこそ、昔の人は、付き合いを重んじたのである。

 付き合いの上で、自分がされて許せないことをしたら、その時点で相手を見くびったと言われても弁明できない。その覚悟がなければ、その姿勢自体、非礼である。

 それ恕か。己の欲せざるところは、人に施すことなかれ。(論語)

 形には力がある。
 人の悪口ばかりを言えば、本心からその人を悪く思うようになる。乱れた格好ばかりしていると生活も乱れる。生活が乱れれば、心も乱れる。
 故に、姿勢が問われるのである。心の乱れは姿勢として現れる。

 私は、自分の連れ合いや子供を愚妻、愚息というのには反対である。いくら自分が相手に遜(へりくだ)ったつもりでも、連れ合いや子供に対する礼に反する。過剰に褒めそやすのもの考え物だが、かといって、自分のことでもないのに、あえて口にだすまでもない。
 例え、女房と言えども人格がある。子と言えども人格がある。自分の持ち物ではない。自分の持ち物のように扱うのは非礼である。
 夫の名誉は、妻の名誉。妻の名誉は、夫の名誉。親の名誉は、子の名誉。子の名誉は、親の名誉。家族が各々の名誉を守ろうとするから家族の絆は強まるのである。
 国の名誉は、国民の名誉。国民の名誉は、国の名誉。国の名誉を国民が守り、国民の名誉を国が守る。そこに、愛国心と忠誠心が高まり、国の独立と繁栄、国民の福利と安全が約束されるのである。
 謙虚、謙譲は、自らに求めるものであり、いくら家族だからと言って強要するものではない。礼の本質は、思いやりであり、敬意なのである。そして、礼は信頼関係や家族の絆を強固にする形でなければならない。
 自尊心を傷つけるような言動は礼にかなっていない。親しき仲にも礼儀ありである。
 先ず相手を理解し、認めることが礼の基本でもある。
 形に力がある分、初心原点を見失えば、形に囚われてしまうのである。だからこそ仁なくして礼なし。恕なくして礼なし、敬心なくして礼はないのである。
 形に囚われた瞬間から慇懃無礼に変質する。それが礼の難しさである。形がなければ礼は表せず。形に囚われれば、礼は失われる。

 何事も立ち居振る舞いに現れる。だから、姿勢が大切である。呼吸、姿勢は、健康の基でもある。姿勢が悪ければ心も偏る。
 礼は表現なのである。自分の思想や哲学は、言葉によってのみ表現されるものではない。その人のいきる姿勢、有り様によって表すこともできる。そして、行動が伴うだけ依り、その人の日々の行いは、その人の思想哲学に直結しているのである。
 さりげない言動や行いにその人の本心が現れてしまう。だからこそ、礼は実践であり、修行なのである。

 思想、信条は礼として表れる。思想信条を形として表した行いが礼である。

 礼節は、封建的だという者がいる。しかし、それは礼の本質を知らない者である。
 確かに、封建的体制にも礼はある。しかし、民主主義には、民主主義の礼がある。社会主義には、社会謝儀の礼がある。キリスト教には、キリスト教の礼があり、イスラム教には、イスラム教の、ユダヤ教には、ユダヤ教の、仏教には仏教の、儒教には、儒教の礼がある。
 それは、封建体制にも法があり、民主主義にも法があり、共産主義にも法があるようにである。個々の法の是非を論じる事と法そのものの是非を論じる事は違う。封建的体制に否定的であるからと言って、礼そのものを否定するのは愚かである。むしろ、国家体制を改めるのならば、新しい礼法を作り出すことが大切なのである。礼の在り方こそ、新しい国の形、姿だからである。

 力がある者ほど礼は求められる。師は、弟子に対して、権力者は国民に対して、上位のものは下位に対し、先輩は、後輩に対して礼が求められる。そして、その礼が厳しさにも通じるのである。己の心に刃を以て接する時、はじめて礼は実現する。
 力ある者は、自制しなければならない。

 力ある者にとって礼は、自分の力を誇示したり、相手を服従させるものであってはならない。力のある者は、礼によって自制し、己に克つのである。己を鍛えるために、礼はあるのである。だから上に立つ者は、姿勢正しく、清く、美しくなければならない。それが礼の姿である。
 上に立つ者が礼を守るから人は、礼に復するのである。上に立つ者が礼節を忘れれば、礼は守られない。故に乱れるのである。
 上に立つ者が横柄な態度をとれば、下の者は卑屈になる。それは礼ではない。逆に、上の者が遜(へれくだ)りすぎれば、下の者は傍若無人になる。何事にも、一本、筋や芯を通す事が肝要なのである。
 礼は法にあらず。強制力なき規律である。礼に復するのは、人の心の為せる業である。心を正さなければ、人は礼に復さない。残されるのは、ただ形である。その時、礼は、形骸となる。

 戦国時代は、戦に敗れれば、城主が切腹した。幕末において切腹した藩主の名を聞かない。それが、武士道の本質を歪めている。上の者が責任をとる覚悟をするから下の者は、笑って死ねるのである。部下の為に身命を擲つのは、棟梁としての礼である。

 今の学校には礼がない。
 ただ成績という形骸だけが残されている。教育の本質は、子供達に対する仁であり、恕である。故に、徳を以て接しなければならない。
 ところが今の教育は、子供を思いやる心がない。子供の方を向いていない。ただ、自分達の考えや都合ばかりを子供達に押し付けているだけである。偏差値だけで子供達の進路を決めるなどと言うのは言語道断の仕打ちである。思いやる心がない。
 大切なのは、子供達がどんな生き方をどんな人生を臨んでいるかである。そして、どの様にして子供達を導くことである。そこに師の礼、弟子の礼がある。

 自らの襟を正して他人(ひと)の礼節を問え。

 克己復礼。礼を実現するためには、自分に克たなければならない。最後は自分なのである。
 自分が礼儀を失しているのに、相手の礼儀を叱責することはできない。
 礼は、先ず、親や師に求められるのである。親や師は、自分の生き様を以て子や弟子を導くのである。それが親の礼であり、師の礼である。

 礼の根本は、先ず相手を認めることである。相手を認めずして、仁も恕もない。男は、女を女は男を認めることである。そこから、男は女対する礼が、女は男に礼が生じる。男尊女卑は無礼である。ただ、男と女の差を認めないのも又無礼である。
 相手より自分は常に優位に立ちたいと言うところには、礼はない。礼の根源は、己(おのれ)にある。透徹して目で、己(おのれ)を見つめること以外にない。

 一寸の虫にも五分の魂。人には、命に代えても護らなければならない一分がある。その一分を傷つける行為は最も忌むべき行為である。礼に反する。ただ、護らなければならない一分というのは、護らなければならない場面にいたってはじめて解ることである。だからこそ相手に多するに敬心を片時も忘れてはならないのである。
 志ある者は、どこにでも潜んでいる。真に力ある者は、面には表さない。賢者は時に愚鈍にも見える。いつどこで、どの様な人と遭遇するかも解らない。相手を侮った時から礼は乱れる。
 特に、目下、年下、軽輩、弱輩の者の意見でも忠誠からの意見は、相手が誰であろうと居ずまいを正して傾聴する。それが礼である。礼の根本は、克己心である。
 どの様な意見でも国政を与る者は愛国心から出た忠言には、耳を傾ける。それが、国政を与る者の礼である。
 どんな意見でも愛国心や忠心から出た意見は傾聴に値する。しかし、どんなに立派な意見でも、国を憂い民を思う心がなければ聞くに値しない。
 いくら作法にかなっていても神を敬う心がなければ、神に対する礼は行われない。心より神を敬う心があれば、神はそれを受け容れられる。
 ただ日々生かされていることに感謝する事。今日あることを感謝する事。奉公。公に我が身を奉ずる事。それが神への礼である。

 私は、父に仕事を任された時、父が許す間は、自らの信念に基づいて行動しようと思った。自分の行動を父が必ず許すと甘えるのではなく。自らの信念に基づいて行動し、父が駄目だと言えば、潔く、自らの職を去ろうと思った。
 ある時、私は、自分の信念に従って政府の要人に檄文を送った。父が私淑する方に、あいつは気が違ったか、狂ったかと言われたそうだ。
 その時、父は、あいつは、総理大臣すら恐れないのだと言って私をかばってくれたと母から聞いた。私は、父が自分を男として認めてくれていることを悟った。
 私には、それが何よりの誉れである。

 恐れるべきは自分である。相手ではない。相手が何人だろうが恐れるには足らない。恐れるべきは、自分の怯懦と怠惰である。
 義を見てせざるは勇なきなり。自分に勇気がなく気後れする事を私は恐れる。自分に勇気がなくて為さないことを他人の責任にしてはならない。それは非礼である。

 今、父は哀しいほど老いた。でも、私は先日、父と共に仕事ができたことを心から誇りに思っていると伝えた。それがわたしの礼である。

 父は、小学校しか出ていない。しかし、私も父もそれを恥じたことはない。むしろ誇りでもある。ただの民草であればいい。父ほどの勉強家を私は知らない。父ほど、神仏の本質を見極めている人を見たことがない。人間として、父ほど心豊かな人を私は知らない。父は、私の誇りである。

 私が、日大の物理学科に入校した時、説明会である先生が、私達は、万骨枯れる会を作っていると諭された。一人の天才を生み出すために、我々は、礎となって枯れ腐植土となるのだ。私は、この言葉を未だに忘れない。
 物理科の先生方は、相手の力を認めると生徒にすら敬語を使われた。それが、実力の世界の礼である。私は、今でも、母校、日大を誇りに思う。

 私は、人に意見をする時、匿名は、無礼である。もっとも戒めるべきと心得ている。何事も、先ず名を名乗れである。おのれを明らかにしてこそ、責任が全うできるというものである。最初から逃げていては、話にならない。最初に自分の逃げ道を断つ。それが人に進言する時の礼である。
 先ず名を名乗れである。名を名乗るから、己の所信を貫けれるのである。己の言動に責任を持てない者は、人に意見をする資格はない。ただ一人、命懸けで志すところを述べる。その結果は、甘んじて受ける。弁明、言い訳はしない。全ては覚悟の上である。そして、護るべきは礼である。
 名利を求めるな。ただ誰にも知られず無名に死す。それこそ本望、本懐である。自分に対する礼である。
 口汚く、相手を罵ったり、物事に本質のないところで相手を誹謗することは最も礼に反することであり、恥ずべき行動である。
 権力を持つ者に直言する時、ただひたすらに学んで、学んで、自らを研ぎ澄まし、根拠なき中傷とならないように、冥界にいる覚悟を以て鋭く指さなければならない。
 血反吐を吐くほど、失神するほど勉強をするのである。ただ一時の感情や、独断を以て人に意見をしては成らない。かといって遜(へりくだ)りすぎてはならない。それは傲慢の極みであり、最も無礼なことである。
 ただ、一本の短刀を懐に抱いて身体ごと相手にぶつかっていくかの如き心持ちでなければならない。自分の持てる全てをその一文によって投げ出す覚悟必要である。その瞬間、冥界に入るのである。後は振り返らない。
 そして、言い切る。迷いがあれば文に出る。迷いを断ち切って言い切るのである。
 私は、嗚呼死ぬなと思ったことが幾たびかある。死は怖ろしい。でも、ただそれだけである。逃げてはいけない。
 人に意見をするとは、両刃の剣である。己が傷つくことを怖れては人に意見はできない。後に悔やむことがあってもできない。人に意見をするというのは、相手を傷つけることなのである。自分も満身創痍になることを覚悟しなければ相手を導けない。
  相手の過ち、間違い、欠点に気がつくと言う事は、必ず、同じ過ち、間違い、欠点が自分の身の内にも隠されているのである。その自らの古傷を暴き立て、塩を塗り込むほどの苦しさを味わわなければ、人に意見はしてはならない。それが礼である。
 力のある者に意見をする時は、ただその時に最善を尽くし、裂帛の気合いを以てするのである。その時一度死ぬ覚悟必要である。全力を尽くすことが礼である。相手の逆鱗に触れるのである。死こそ覚悟しなければならない。己に向かって死ねと叫ぶのである。
 言葉の怖ろしさも自覚しなければならない。寸鉄人を刺す。呪詛文が混じれば相手の命をも絶つことがある、重々、覚悟せねばならない。身を浄め、私心を交えず清廉潔白にすることが礼である。
 礼とは気迫である。

 陰でコソコソと批判するのは卑劣である。言いたいことがあれば、正々堂々、面と向かって言う。それが礼である。確たる証拠もないのに悪い噂を流すのも礼節を欠いている。人に忠告するときは、真っ直ぐ相手を見て全身全霊で話をする。又、相手の話を根気よく聞く。武士は刀を脇に置いて議論をしたのである。一期一会。その瞬間の全てを賭けるのが礼である。自分の言葉に命を籠めるのである。それが礼である。

 私は、アメリカ大統領であろうと、日本の総理大臣であろうと、自分の信じるところを述べてきた。その時は、先ず名を名乗ること、そして、寸鉄も身に付けぬ事、そして、ただ一人で立ち向かうことを心に決めてきた。
 誰に知られる必要もない。徒党を組むことなく自らの信念にただ一人殉ずるのみである。それが礼である。
 アメリカの大統領も日本の歴代の総理も礼を以て答えてくれた。それが礼である。

 礼は信の源であり義の源なのである。
 形によってによって人を信じ、形によってによって義を涵養する。それが礼である。そして、それが礼の本質でもある。故に、礼は生活の隅々にまで浸透する。又、礼から仁や恕が失われれば、礼節は権力者の道具にしかならなくなるのである。それを以て礼を否定するのは間違いである。

 信義に関わることは、相手が軽い気持ちで行った事でも重く受け止めよ。それが礼である。例えば相手が軽い気持ちで約束をしたことでも、約束は約束。自分はこれを重く受け止め信を違えることがあってはならない。それが礼である。又それであってはじめて信義が固まる。

 礼は平静を保つためにある。形によって乱れをなくすのである。
 事に当たりて明鏡止水の心境をもって臨まなければならない。それは、日頃の心がけである。日頃の心がけを鍛えるのが礼節である。
 心乱れれば、大事を成就することはできない。人に意見をするのにも、真意が伝わらず、心の乱ればかりが相手を無用に刺激する。いかに平静を保ち、済んだ心で事に臨むかが肝心なのである。

 誇りでもなく。遜(へりくだ)るでもなく。ただ恬淡と己に正直に生きる。それが自分に対する礼である。そして、忘れてはならないのは、自分への礼である。自分の生き方に対する礼である。それでこそ、己(おのれ)を保つことができる。

 戦後の日本人は、士や武人に対する礼を忘れた。士や武人に対する礼を忘れて、どのようにして国を治め、国を護るというのか。

 今の日本人は、礼節を忘れた。特に、政治家や国防、治安の任に当たる者に対する礼節を忘れた。
 選挙になると政治家に土下座をさせ、また、酒宴の席に呼びだしては、酌をさせる。これ程礼節を失した行為はない。国民は恥を知るべきである。いやしくも、政治家は、国民に選ばれて国政を与る士である。学ばなければならないことは沢山ある。政治家が、自尊心を失い、誇りを失うことは、国家の尊厳を傷つけることである。政治家が誇りを持ててこそ光輝ある国造りができるのである。
 政治家を驕らせる必要はないが、名誉や志を傷つけるのは最悪である。
 政治家が誇りを持って国政に当たれるようにするのは国民の礼である。国や治安を護る者の名誉を守るのも国民の礼である。
 また、政治家も軍人も警察官も、自制すべきである。故に礼を尊ぶのである。礼は一方にのみ求めるものではない。双方に求めるものである。
 国民も政治家も礼を忘れた時、圧政が始まるのである。軍や警察が礼を失った時、国は乱れるのである。

 礼の本性は、恩である。恩に対する感謝の念が礼となるのである。恩返しこそ礼の基本である。礼の本義は、感謝の念である。
 親の恩、師の恩、友の恩、子への恩、後輩や弟子の恩。お客様の恩。取引先の恩。先達への恩、戦争で死んでいった人々への恩。その恩に対する感謝の念を形に表す事が礼と基本である。
 親への恩が孝となり、友への恩が信義となる。兄弟姉妹への恩が悌となる。国への恩が忠となる。礼は、孝の体であり、信の体であり、義の体、悌の体、忠の体である。

 立つ鳥跡を濁さずと言う。為すべき事を為したら、痕跡も残さずこの地上から己を消し去る覚悟をする事。それが、後から来る者に対する礼である。
 人としての生き様、死に様を見せる。それが親の子に対する礼である。

 浩然の気を養えと言う。

 孟子は言う。
 自(みずか)ら反(かえり)みて縮(なお)からずば、褐寛博(かつかんぱく)と雖も吾惴(おそれ)れざらんや。自(みずか)ら反(かえり)みて縮(なお)ければ、千万人と雖も吾往かん。

 顧みて、自分に非があれば、どんなに賤しい(いやしい)、とるに足らない人間でも恐懼(きょうく)するが、顧みて自分が正しいという確信があれば、この世の中全てを敵にまわしたとしても、吾一人になっても、突き進んでいく。

 千万人と言えども吾一人往かん。
 ただ一人。ただ一人。

 これこそが礼の精神である。
 相手の名誉、誇りを傷つけたら、例え、それがどの様な人間でも私は、畏れる。しかし、一度相手が自分の名誉を傷つけたら、例えそれが誰であろうと、相手が幾千万いようとも、我ただ一人往く。それが礼である。
 名誉の大元は、大義である。もし、顧みて為さなければならない大義ならば、例えどの様な困難な状態でもひたすらに立ち向かっていく。その現れが礼の本質なのである。

 韓信の股くぐりという故事がある。大望を抱く者は、小事に囚われずに如何なる恥辱にも耐える。それが自分に対する礼である。礼の根本は、克己心である。くだらぬ破落戸(ゴロツキ)と争って自分を失うのは、親に対する、又、同志に対する、そして、天に対する礼に反する。自分は何に対して恥じるべきかを知らなければ、礼の本質を理解することはできない。

 礼を感じる心とは、恥ずかしいと思う感情である。しかし、ただ恥ずかしいと思うだけでは、人は臆病になる。恥ずかしいと思う心が志となった時、礼は成立する。
 
 経営者というのは、自分の死んだことを想定しなければ、事業継承について明らかにすることはできない。なぜならば、事業継承は、自分が居なくなった後の問題だからである。自分が死んだ後、さった後のことなど話されるのは気色の良い物ではない。当然部下も話を切り出しにくい。この様に、相手が言い出しにくいことは、自分から切り出すのが礼である。
 自分が居た痕跡も残さないほど地上から消し去る事、それが経営者が、事業を引き継ぐ者にできる対する最後の礼である。

 ただ実践あるのみ、言葉ではなく、姿勢を持って示す。それが礼の本義である。相手への尊敬の念、敬慕の念、感謝の念それを形に表したものが礼である。
 ただ三尺下がって師の影を踏まず式の礼は、形式に過ぎない。大切なのは、師に対する思いである。師に対する思いをいかに行動として表すかである。その時、形は意味を持つのである。

 人生は、真剣、真面目でなければならない。真剣、真面目に向き合わなければならない。いつその時が来るか解らないのである。

 世の中が悪いとか、時代が悪いと、自分が何も為さないことを他人や社会のせいにする者がいる。理想的な学校がないというのならば、学校を作ればいい。理想的な人に出会えないというのならば、捜せばいい。自分が何も為さない理由にはならない。いつまでも自分が何も行動も決断もしない言い訳、弁明をするのは、自分に対する礼を欠いている。決断しないのは、行動を起こさないのは、自分の問題である。志を持つのは、自分を生かしている存在に対する礼である。

 誰がこの国の名誉を守るのか。自分の国や、親や、兄弟や、友や仲間、師の名誉を誰が守るのか。敬愛する国や人が侮辱された時、身命を賭してその名誉を守るのが礼である。

 私には、どうにもならない怒りがある。誰がこの様な国にしたのか。誰がこの様な日本にしたのか。誰がこの様な世の中にしたのか。我々ではないか。
 間違っているというのならば、我々が自らの過ちを認め、自らを正さない限り、良くならない。人を責める前に、自らを責め、悔い改めよ。それこそが子供達への礼である。
 我々が姿勢を正さない限り、この国は良くならない。己を正当化したり、言い訳をするのではなく。悔い改めるしかない。その上で為すべき事を為す。
 それが、我々のために犠牲になられた方々に対する礼、後からくる者に対する礼、国家に対する礼である。





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