過信と自負



 自分は、高校時代、理数系に進学したいと言ったら、おまえの成績ではとても無理だと思い上がるなと先生に叱られた。自信過剰ではないかとも・・・。
 でも、自分は先生に言い返したんだ。自信過剰で悪いですか。自信過剰で苦労するのは、自分ですよ。

 確かに、お陰様で自分は、二年も浪人をし、苦労した。しかし、後悔はしていない。

 若い頃の自信なんて空手形みたいなものだ。あると言えば、あるし、ないと言えばない。だから、僕は、後輩に傲慢になれと言ってきた。その上で、礼儀は守れと指導してきた。礼儀知らずの癖に卑屈な奴が一番始末に悪い。

 自信というのは、自負でもある。そして、自尊心でもある。

 ただ、成績が良いだけの優等生の自信というのは、始末が悪い。今の学校で教えていることときたら、ただ知識偏重で、人間として生き方、歴史観や人生観など何も教えていないからである。今時の優等生は、百人一首は、暗記しているかも知れないが、感動する心は学んでいない。だいたい、学んでいる時間も余裕もない。ただひたすら西圏に合格することを至上命題にしているからである。
 だから、物知りと言うだけで、いざという時の心構えなど何もないからである。世い゛きに対する自信はあるかも知れないが、人としての自信があるかどうか解らない。本来、そう言う人間を思い上がりというのである。しかも、的はずれなところを根拠にして過剰なほどの自信を持っている。
 彼等の自負もただ学校の成績の延長線上にしかない。今の学校の教科書には、憂国の志も、師に対する礼も、社会に出てからの作法も載ってはいないのである。
 世間知らずの癖に、全知全能の力を持ったが如き錯覚をさせる。危ういことである。学校で一番の成績を取ったりすると自分は、天才でこの世の中で一番賢いが如く思い込んで、他人に対する思いやりも礼節も失う。それこそ過信であって、思い上がりなのである。

 私の言う過信というのは、過信しなければ、自信すら持てない人間に言っているのである。
 大体多くの人間は、若い頃に多くの失敗や挫折をする。失敗や挫折を恐れて何もできなくなるのを恐れるのである。
 若いと言うことは、経験が浅く、未熟であることをも意味する。だから傲慢になれと言うのである。若い頃は傲慢なくらいが丁度良い。
 やれ、おまえは若いから、基礎ができていないからと若い者を臆病にする者が多くいる。しかし、若い頃こそ失敗を恐れずに色々なことに挑戦させるべきである。又、若いからこそ許されることも多くあるのである。
 若いという理由だけで、可能性の芽を摘むのは間違いと言うより、罪である。
 ただ礼節だけは教えなければならない。

 成人式で我が儘放題、やりたい放題、勝手放題に振る舞う成人が増えたと言うが、礼節をなくしたのは、文句を言っている者達である。
 礼節とは、形式である。堅苦しい、封建的だ、形式だと礼節を否定し、たたき壊してしまったのは誰か。今更、礼儀知らずと文句言ってもはじまらないではないか。

 自分と戦い。礼節を護ることを教えてはじめて過信を自信に変えることにすることが出きるのである。

 大切な事は志すことである。
 自分が世の為、人の為に何ができるのか。それを突き詰めることである。突き詰めていけば過信も自信に変わる。それが自負である。
 今日、世の為、人の為などと言うと笑われてしまう。それがいけないのである。世の為人の為という言葉も死語である。誰が、何の目的で、死語としたのか。それは、日本の若者に志を持たせたくない勢力である。
 そんな連中の口車にのってはならない。

 自分の国を、郷土を、家族をどの様にしていくのか。若者は、過信なほどの自負を持つことである。傲慢と言われようともである。過信は、夢となり、希望となる。その時、自分の生きる道が開けるのである。

                content         


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2010.9.7 Keiichirou Koyano

教   育