戦後教育と洗脳

 若い人達は、もっと我々の世代から上の連中に怒るべきだと私は思う。
 いい加減にしろってね。自分で言うのも何だが、本当にでたらめなんだから。
 後輩達が凄く我々を醒めた目で見ているの解る。
 醒めて目で我々を見るのはいいけど、自分達まで堕落したら惨めじゃあないか。
 大体、僕らの世代はけじめを付けていない。
 自分達は何も悪い事していないって自分を正当化することと言い訳をすることで汲々としている。
 悪いのは皆、上か、下だと責任を擦り付けるばかり・・・。
 今頃、マルクスでもあるまいに、今だに、マルクスボーイ、反体制を気取っていやがる。
 アホかって言うの・・・。
 それで今の若い連中は、問題意識がないって。
 おまえ等何様だって言うの。
 こんなに世の中、悪くしといて、皆のやるきなくしておきながら・・・。
 その癖、被害者意識が強すぎる。
 おまえ等被害者でなくて加害者だって言うの。
 その上、僻(ひが)み根性が人一倍強い。
 根本に信念や自信がないから、何か言うとすぐいじける。
 自分達は、現実離れしている癖に、斜に構えて、妙に醒めたことを言う。
 おまえ等のは、気持ちわかるよなんて知った風な事言う。
 自分達だけが正しいと思って自分達は聞く耳など持たない癖に、後輩に向かっては、人の意見をよく聞け、とか、問題意識が低いなんて説教をする。
 おまえ等、説教する前に反省しろと言うの・・・。
 糞みたいな連中ですよ。
 永い日本史の中で最悪の世代と言われるんじゃあないかな。
 だけど、なぜ、若い世代がおまえら退場で怒らないのか、解らない。
 我慢強いんですかね。それとも洗脳されたか。
 俺は、申し訳ない気持ちでいっぱいである。
 我々は、いい加減、自分達でけじめつけないといけなって感じる。
 
 国民国家というのは思想を基盤として成り立っている国家である。
 故に、建国の理念、思想を国民は共有する必要がある。故に、教育は義務なのである。

 思想教育というのは、一種の洗脳である。
 質(たち)が悪いのは、洗脳していないと言って洗脳することである。
 民主主義や自由主義を刷り込んでいる。つまりは民主主義的、自由主義的に洗脳している。
 民主主義というのは、歴とした思想である。と言うよりも民主主義体制や自由主義体制ほど思想的な体制はない。

 無思想というのは、もっも愚劣な言い訳である。無なんて、仏教や、道教の考えを参考にしている様に思えるけれど、実際のところ、無思想なんて言うのは、自分の思想に責任を持たないと言っているだけである。
 無思想なんて言うのは、最も思想的なのである。
 ただ、無思想というのは、思想を隠蔽することによる最も卑劣な思想教育であり、洗脳ですよ。
 それくらいなら、キリスト教的民主主義とか、イスラム教的国家主義と思想を明らかにしている方がずっと潔い。
 自分は無思想とか、中立とか、公正と言っている者が言ったら最も怪しい。特に、知識人や、メディア、教育者、政治家、宗教家が無思想とか、中立とか、公正と言い出したら余程用心しなければならない。洗脳の始まりである。
 ただ。無思想というのは、思想を隠蔽することによる最も卑劣な思想教育であり、洗脳である。

 教育というのは一種の洗脳だと言って良い。
 教育というのは、刷り込みですから、一種の洗脳である。
 つまり、国家による洗脳と言う事になる。
 それが悪いと言われれば、教育なんてできないのである。

 自分は、洗脳されていると思っていない人が大勢いる。
 しかし、洗脳というのは、自分が洗脳されていると、気が付いた時点である定時解除されるもので、自分は洗脳されていないと思っているから有効なのである。
 大概の人は、何等かの洗脳を受けていると思っていた方が無難なのである。

 洗脳が悪いと刷り込まれている。
 それも一種の洗脳である。
 しかし、原価値観というのは、一種の刷り込みによるものなのである。
 教育は一種の洗脳だと言う事は認めるとしても、洗脳という教育の持つ一面を隠すことは容認できない。なぜならば、洗脳しない、洗脳は悪いと言って洗脳するのが一番悪辣だからである。

 だったら、自分は洗脳されていないと思うより、自分は、洗脳されたと思っていた方が、余程、気楽だし、また、どう洗脳されたかを確認のしようある。
 洗脳された箇所を確認すると色々と面白い事実が判明する。
 今、若い連中が婚期逃す原因も、洗脳にあったのではと思わされる節がある。

 どの時代でも一種の洗脳行為はされているんである。
 問題は、どの様な意図と目的によってどの様な洗脳がされたかである。
 現代日本人に施された洗脳は、奴隷化、植民地化を目的としたものだと言う事が問題なんである。
 確かに、戦前にも洗脳は存在した。しかし、それは、自主独立のための洗脳だったという点である。

 それくらいなら、キリスト教的民主主義とか、イスラム教的国家主義と思想を明らかにしている方がずっと潔い。

 大体、愛国心とか、忠誠心とか、軍国主義とか、男尊女卑言う言葉に過剰に反応したり、生理的に受け付けなくなっていたらそれは何等かの洗脳教育を受けていたと考えた方が妥当である。
 差別というのは、言葉にあるのではない。意識の方にあるのである。差別的用語として言葉を制約するのは、言葉に責任をかぶせて意識を隠しているのに過ぎない。言葉に原因があるのではなく、原因は意識にある。言葉が悪いわけではなく、差別する意識が間違っているとしたら言葉を制限すれば、かえって問題の本質を見失わせる。逆に、言葉から何等かの観念を連想させ、それを受け付けなくさせるのは、洗脳の常套手段であることを忘れてはならない。
 表に現れた症状を緩和しても原因を断たなければかえって病気を悪化させる。同様に表に現れた言葉を制限すれば根本の意識を変革することを妨げる。言葉を使えなくするのではなく。言葉の正しい使い方を啓蒙することの方が肝要なのである。
 言葉狩りをする者は、何等かの洗脳を受けたか、何等かの洗脳を意図する者であり、大体が差別主義者である。

 世の為、人の為というのも死語である。世の為、人の為等というと何を古めかしいことを言っているんだ。綺麗事だよ。封建的だと笑われてしまう。嘲笑、侮蔑によって負の感覚を刷り込むのに最も有効な手段である。世の為、人の為という言葉を封じ込めることで、公という感覚を失わせ、生きる目的や道徳、道義心まで喪失させたのである。

 私は、洗脳されていたと思う。
 社会に出て気が付いてみたら、愛国心とか、忠誠心、規律や礼節、命令、世襲、同族、一族と言った言葉を生理的に受け付けなくなっていた。
 しかし、自分の生まれた国や故郷、家族が愛せなくなったらお終いである。それが、人間として当たり前の情なのだ気が付いた時、ひょっとして自分は洗脳されてきたのではないのかと自分を見つめ直したのである。
 問題は、一つの価値観を国民の合意の基に刷り込んでいるという事実を明らかにしていないという事である。
 又、教育がどの様な意図の基に行われているかである。
 洗脳されていたときがついた時、新しい境地が開けた。
 私の同世代の人間の大多数は、自分は、洗脳されていないと思い込んでいると私は、思う。
 そして、彼等の大多数は戦前の世代は、洗脳されていたと思っている。
 だから、自分は、洗脳されまいと思う。
 でも、洗脳されまいと思っている間は、洗脳されやすいのである。
 私は、自分が洗脳されていると思った。
 そこで、どこをどう洗脳されたかを自分を実験台にして解析したんです。
 そうしたら、欧米人の凄さが理解できた。
 自分は洗脳されていないとか、されまいと思わせること自体が、洗脳なのである。
 自分が洗脳されているのでは気が付くとある程度洗脳から開放される。

 洗脳されたという事を前提とした上で、論理の分岐点のどこを変換すると、どの様な結論になるかを検討した方が、何をどの様に洗脳されたかが分かり易い。

 言論の自由と猥褻の自由とを置き換えるとどんな洗脳が可能なのかとか。

 ごくありふれた、普通の、どこにでもある、誰にでも起こりうる出来事とという嘘。ごくありふれた、普通の、どこにでもある、誰にでも起こりうると言う前提をさも自明であるかのように前提とし、世の中の出来事の全てを前提とされたら、物事の本質は曖昧模糊としてしまう。尚更、極めて特殊で異常な出来事ですら普遍的な事象に取り違えられてしまう。これ自体が洗脳のキーワードになる。
 ごくありふれた、普通の、どこにでもある、誰にでも起こりうると言う前提ほど、抽象的で非現実的な前提はない。ごくありふれたとか、普通とか、どこにでもある、誰にでも起こりうると言うのは、普遍的前提なのである。つまり、何を基準として普通というのか、、どこにでもと言う前提ほど所在不明な前提はなく、誰にでもと言う誰は何を指すのかが曖昧である。つまりこれ程、欺瞞的前提はないのである。
 そして、この様な普遍的事象に基づいていきなりある種のさも当然の帰結のように結論を持ってくる。これは、ある種の結論を刷り込むための前処理なのである。
 所在不明の高齢者問題を扱った特番でも、数十年も親子が音信不通で、母親の世話を見ていた長男がホームレスになり、母親は、三十年前から所在が解らなくなった例や子供に障害があり、就職先が見つからないで、親の年金が頼り生活している例などを出してごく普通でありふれたと言う。ハッキリ言って普通の家庭ではない。問題がある家庭だからこそ対策の立てようがあるのである。普通の家庭とするのは、国家や社会そのものの変革、もっと過激に言えば革命に結び付けたいから言うのである。

 思想でないものを思想と言い。思想を思想でないとすり替えるなんてお得意である。
 哲学者を凡人と言い。凡人を天才という。
 異端を正当と言い。正当を異端という。
 その背後に意図するもの何かを明らかにしていくことである。
 愛国者が敵国の愛国心を否定する。
 その為の手段として敵国のメディアや教育機関を使うのは、常套手段である。
 洗脳しようとする者は、自分の意図や自分の存在を秘匿する。
 そして、実際に洗脳の実行者は、自分が洗脳のために利用されていることにも気が付かない。最も。それが効果的な洗脳の手段である。

 洗脳する者が、なぜ、自分の意図や思想を秘匿する必要があるのか。それは、洗脳する相手にとって不利益な目的が洗脳しようとする者の側にあるからである。
 例えば、相手を奴隷化し、或いは、相手の国を植民地化するために、洗脳しようとしたら、相手に自分の意図を気づかれたら拙い。相手を自分の言いなりになるように調教しようと言う目的があったら相手に目的を知られたらお終いである。目的を達成することが困難になる。相手の主体性や人間性を破壊する目的があったり、相手国の秩序規律を乱して主権や独立を危うくしよう等という意図が隠されていたら、余程根性がねじ曲がった者でないかぎり言うことを聞くまい。

 戦後、所謂、革新的知識人というのが狙い撃ちにしているのは、家族制度や婚姻制度である。また、国家主義や民族主義、封建主義、軍国主義である。しかし、家族そのものや婚姻制度そのものと、民主主義や自由主義とは無縁である。国家の在り方を否定するのと国家そのものを否定する事とは、意味が違う。それは無政府主義であって自由主義も民主主義手もない。反国家主義や無政府主義を自由主義、民主主義と言い換えて洗脳しているに過ぎない。彼等は勝者に媚びへつらったに過ぎない。
 今の世の中の風潮は、戦後教育の成果が現れてきたのに過ぎない。家族が崩壊し、結婚できない男女が増えているのは、その現れである。その様に仕向けた張本人達が今更、少子高齢化と大騒ぎをし、このままでは日本の文化が失われ滅んでしまうと騒ぎ立てるのはおかしい。成人式で今の若い者は礼儀知らずだ等とどの面下げて言えるのか。自分達が日本の歴史や文化を中絶するように、規律や秩序が乱れるように洗脳した結果なのである。

 そして、その為に、我が国が危機的な状況に追い込まれているその事実こそ認めるべきなのである。

 自分が生まれ育った国や故郷を愛せなくなったらお終いである。自分を護り育んでくれた家族を愛せなくなったら、自分を愛せなくなる。
 家族を愛せなくなるように洗脳をしたから、育児放棄や虐待なんて問題が起こる。そして家族が崩壊する。少子高齢化だとか、生涯独身だとか、無縁だとか、人口減少などと騒ぐけれど、騒いでいる張本人達がその種を蒔いたのである。家族を愛せなければ家庭など持ちようがない。家庭が崩壊すれば子供は増えない。子供が増えなければ、民族は衰退するのである。日本民族が衰退することを誰が望んだのか。そこに洗脳の意図が隠されている。知らないとは言え、洗脳をしようとする者の手先となって働く日本人の罪は大きい。

 反体制、反権威と踊らされているうちに我々は、自分達が護らなければならないものを自分達の手で破壊しようとしているのである。



洗脳
洗脳U



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