恩師と先生


 学校の先生とは、違う。学校のは、教科書に書かれている事を、教える事を職業、生業としている者、自分でも認めているが、労働者である。それに対して、師とは、人生いかに生きるべきか、全人格的な素養を教え、導いてくれる人である。師に求めるのは人格である。人格なき者を師とは認められない。
 学校の先生が教科書に載っていることしか教えられない労働者なのに対し、師は、弟子と同じ道を歩く者なのである。つまり、師と弟子は、同じ志を持つ者なのである。師も又、求道者であり、修行者、先達者なのである。
 故に、弟子は師に盲従する者ではない。時に、師にとって弟子は、最大の競争相手となる。互いに切磋琢磨してこそ師なのである。


 三歩下がって師の影を踏まずと言うのは、弟子の礼であり、師の望む礼ではない。弟子が師に恩を感じて始めてとるべき礼である。なぜならば、師に求めるのは人格だからである。そして、師は又、同じ道を歩む求道者だからである。

 師に挑むのは良いが、師に勝とうと思うのは不遜である。師に学ぶ事は、人生である。人としての生き方である。その師に勝とうとするのは、驕慢、不遜である。
 それが、師に対して弟子のとるべき礼である。

 師に学ぶ事は、全人格的な事である。言い換えると、人としての生き方である。
 良き師に出逢えることは、最高の幸せである。
 良き師に巡り会えたら人生が変わる。それくらいの影響力を師は持っている。
 だからこそ、良き師を求めて旅するのである。

 人々は、生きる為に色々な手立てを尽くす。その手立ての一つから生きることの真実を掴み取ろうとする。故に、師に至る道は、各々別々である。だから、師は、学問の師、剣道の師、華道、茶道、書道の師など多様である。入門は広く多様なのである。学校のように狭く単一ではない。
 入門は、広く幾つもあったとしても、学ぶべき処を突き詰めると人間いかに生きるか、即ち、人生の在り方に至る。つまり、究極の師は、人生の師である。

 生きる為の指針を与えてくれる者こそ師である。故に、師には恩がある。そして、その恩は、究極的な恩である。

 学校の先生は、教科書に載っていないことは、教えてくれない。教えてくれないというよりも教えられない。逆に言えば、教科書に載っていることは、是々非々は別にして教えなければならない。それが先生の仕事だからである。
 教科書には、人生については何も書かれていない。と言うよりも、人生について何かを書いてはいけないことになっている。それは、思想教育になるからだそうである。
 ただし、先生が思想ではないと判断した事、或いは、先生個人の意見は、教科書に書かれていなくても指導して良いことになっているらしい。それは、教育者と言うより、労働者の権利だと言う事である。

 人として一番肝心な事は、教えてはならない。
 それが今の学校の教育方針だぜ。おかしと思わない。大体教えたくとも今の学校の先生には教えられないさ。
 誰も、学校の先生に人格など今は求めていないからである。そして、先生自らもそんなことを期待してはいない。期待されたら困ると思っている。それが今の学校の真の問題なのである。

 何事も、礼に始まり、礼に終わる。
 掃除に始まり、後片付けに終わる。
 それが決まりであり、それを学ぶ事が学問、修行である。そして、それを教えるのが教育であり、それを教える事ができる人が師である。
 故に、最初の師は、母であり、父である。

 根本は、単純明快で一見容易く見え、簡単に理解できる。しかし、それを実践するのは非常に難しい。最後は、克己心に至る。
 おのれの弱い心の前に立ちはだかるのが師である。

 先ず天を敬い。人を尊び、書物を大切にせよ。

 始まりは、書物を師とし、成長するに従って、人を師とし、最後には、天を師とする。それが学問修行の道である。(「言志四録」佐藤一斎)
 
 師は、自らが選ぶのである。今の学校の先生というのは、原則的に自分では選べない。そこが師と学校の先生との決定的な違いである。
 学校の先生は、自らを労働者としてしまっている。そこも又、師とはえらい違いである。
 師も又、弟子を選ぶ。簡単には、入門させてもらえない。禅寺では、今でも門前で三日待たされるのが習わしになっている。今は、形式でしかないが、本来は、修行の一環である。それほど、師は厳しく弟子を見極めた。弟子にとって師は全人格的な存在であり、寝食を共にして鍛えられたのである。
 その様にして形成された師弟関係であるから、師弟の絆は、何よりも強固なものであった。

 師は、自ら探し求めるものである。良き師は、容易く見つけられない。故に、良き師を求めてかつては、諸国を旅したのである。全国各地を尋ね歩いて師を捜し求めたのである。それが遍歴の旅である。武士であれば武者修行である。

 師を求めて古今東西の書を読み。
 人と出会い。切磋琢磨する。
 その究極に存在するのは、神であり、天である。

 天は人間を試したりはしない。その必要がないからである。天に挑むのは、人間である。それは、人間の力が有限であるからである。
 天に挑むのは人間の本性。しかし、天に勝とうとするのは人間の愚かさの証である。


先生とは呼ばないで
師弟関係

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