現代日本は、不義理、不人情な社会だ。
なぜ、義理もない、人情も解さない国になったかというとそれは、戦後教育の成果である。
戦後教育を受けた我々の世代は、意味も教わらないまま、義理とか、人情というのは、古くさくてかっこうわるいものだと潜在意識に刷り込まれてしまった。
刷り込んだ後に、義理や人情というのは、封建的なのだと吹き込まれた。
しかも、それを後押ししたのか、学校の先生と自称戦後の知識人、メディアや言論界の人間である。
その最たる者がコメディアンである。
以前の演芸の人間は、専ら義理と人情を素材とし、社会人としてのあるべき姿を笑いの中に大衆に啓蒙してきた。
戦後、その日本古典芸能がいつの間にか廃れ、粗暴で、凶悪な人間があたかも日本のオピニオンリーダーであるが如く振る舞っている。その為に、日本の文化は、致命的な打撃を受けているのである。
昔は、やくざだって礼儀があったし、仁義をわきまえていた。今は、その辺の子供だって粗暴で凶悪である。
何を教えるべきなのか。それは、人間として、日本人としての在るべき姿である。人間いかに生きるべきかである。
義理や人情を棄てた結果、日本の教育も行政も不人情なものになってしまった。
親の面倒を見るのは、煩わしいしから、立派な施設を作ってその中に放り込んでしまえばいい。要するに、高級な姥捨て山の建設を行政が率先して奨励している。
子供の面倒を見るのは面倒臭いし、自分のやりたい仕事の邪魔になるから施設を作り、他人に任せてしまえばいい。夫婦の愛情なんて見せかけだけ、快楽さえ得られればいい。
こういうことを公教育で教え、行政が後押しすれば、当たり前に、家庭は崩壊し、家族の絆は、崩壊する。
終身雇用はやめだ。企業は、金を儲けるだけの所で、義理人情なんていらない。人間関係なんて鬱陶しいだけだ。愛社精神だの、愛国心だのは封建思想の残滓であると全体主義者、国際主義者が吹き込んだ。その為に、企業から助け合いの精神が失われ、義理も人情もなくなった。その果てにあるのは、派遣問題である。職場が精神的に荒廃するのは必然的である。
大事なのは、義理であり、人情である。
なぜ、戦後、義理や人情を徹底的に排斥したのか。それは、義理や人情をこの国を支配しようとした者が恐れたからである。しかも、日本を弱体化し、支配しようと目論んだ者達は、国外にいる。それが、物事本質を解りにくくしている。
日本人は、礼儀正しく、道理をわきまえ、愛国心、忠誠心も強かった。だから、日本の文化を頭から否定しようとする勢力に対して結束して徹底的に抵抗した。日本人は、自力で独立を守り通した唯一の有色人種なのである。それに脅威を感じた者達が、教育界と言論界、労働界、官界を使って日本人を
洗脳したのである。
なぜ、日本の行政は、演芸場や芝居小屋を叩き潰し、オペラハウスや映画館にしてしまったのか。よくよく考えてみよう。そして、今、誰が、どんな考えを映画によって広めようとしているのか。そして、誰が、その者の後押しをしているのか。なぜ、誰が見ても不道徳だと思う作品が、海外の映画祭でもてはやされるのかを考えてみよう。
日本を弱体化し、支配しようとする者の意図など彼等は知る由もない。日本を支配しようとする者にとって、手先が自分達の意図を知る必要もないし、手先となる者達が自分達の意図を知らない方がずっと都合が良いのである。
日本人を支配しようと目論む人間の手先になった連中は、自分達は正しいことをしていると信じ切っている。日本が欧米人に逆らったのは、日本人が愚かだったからだと心底思い込んでいる。日本人が誇り高かったからだとは思っていない。
日本人は、愚かだから、白人に素直に隷属することを拒んだのだ。だから、欧米人の思想に無条件に隷従すべきなのだと本当に思い込んでいる。だから始末が悪いのである。
戦後に消されていった言葉を見れば、日本を支配しようとするものの意図が見えてくる。消された言葉には、義理と人情、礼儀、行儀作法、仕来り、礼節、節度、歴史伝統、道徳、修身、修行、修養、孝行、敬老、神聖、敬虔、誓い、絆、愛国心、祖国、忠義、忠誠、世襲、一族、同族、仁義、信義、大義、規律、秩序、誠心誠意、真心、心学、真面目、正直、けじめ、躾、常識、道理、筋道、順序、序列、終身、段取り、手順、貞操、貞節、純潔、純真、無垢、大和魂、精神、男らしさ、女らしさ、男尊女卑、家事、家族、献身、度胸、愛嬌、大和撫子、神聖、裏切り、売国奴、看護婦、男気、意気、意地、心意気、志、面子、面目、沽券、品位、教養、名誉、誉れ、栄誉、英霊、破廉恥、恥辱、恥等がある。
逆に捉えると何を日本人は学ぶべきか見えてくる。
確かに、この世の中に悪党は多い。だが中でも許せないのは、正義感面し、自分のやっていることは正しいと信じ切っている悪党である。偽善者である。偽善者というのは、善悪の基準そのものを持ち合わせていないか、歪んでいる者達である。
子供達に何を教えるべきなのか。
日本人として誇りを持てないようになることを公立学校で教えるべきなのか。日本人でいることが恥ずかしくなることを教えるべきなのか。日本人であることを恥ずかしく思うようになれば、国際貢献ができると言うのであろうか。
誇りと自信があるからこそ、日本人は、日本人として社会貢献、国際貢献ができるのである。
小学校の先生は、生徒とは対等にはなれない存在である。小学校の先生は、生徒にとって圧倒的な権力者なのである。学級においては、先生は独裁者なのである。その自覚なくしては、教育者は勤まらない。
独裁者である教育者が右と言えば、右になり、左と言えば左になる。白人とは、凄いものである。どこをどうすれば、人間は言うことを聞くようになるかを知り尽くしている。人間の尊厳など関係ない。ペットや家畜を調教するように、人間を調教する。
支配者から見れば、教師は、調教師に過ぎない。
彼等にとって一番始末が悪いのは、誇り高き民族である。
子供達に何を教えるべきなのか。
それは、人間として生きる術である。生きる術と言っても金儲けの仕方や処世術の類を教えろといっているのではない。人間、いかに生きるべきかの根本を教えろといっているのである。
それは道徳である。道徳とは思想である。人間の生き様である。
それを教えずして何を教えようというのか。
子供何を教えるべきか。
それは克己心である。
教育には、学習と修行という二つの手段がある。学習とは座学を専らにし、修行は、実践、経験に基づく。
戦後、日本は、なぜか、修行という手段を棄て、学習のみに教育を特化した。その為に、人間形成が疎かにされたのである。
修行は、自分の心身を鍛えると共に、社会人として必要な素養、即ち、礼節を、身を以て修得させることである。修行が軽んじられた結果、礼節が失われ、引き籠もりが増えたのである。
教えるべきは、克己復礼である。
自由は、克己心によって涵養される。なぜならば、自由とは、自己を律することによって得られる境地だからである。放縦を自由とは言わない。放縦こそ、自由の対極にあるものである。なぜならば、放縦は我を忘れることだからである。放縦とは、茫然自失した状態だからである。
教育というのは、結局、先生、即ち、師によって決まる。
かつては、弟子は師を選んだ。しかし、今、師と言われる者は、教師という職業に就職した者をいう。つまりは、月給取りであり、公立学校においては、公務員である。誰でも免状があって、就職口が決まれば教師になれる。
月給取りであり、又、公務員である教師は、師である前に労働者である。ちゃんと組合もある。
生徒も保護者も師は選べない。必然的な教えられることも選べない。
月給取りであり、公務員である教育者は、教えるのは作業の一貫であり、ちゃんと、標準化も、マニュアル化もされている。教育という作業の過半は、試験に合格するための技術を教える事である。それが教育だと教えられているし、確信もしている。毎年、単純な作業を反復繰り返しをしていれば、定期的に、基準に基づいて評価され、待遇は上がっていく。
公務員である教師は、身分保証がされており、余程のことがない限り、例えば、国家に楯突いても解雇されない。解雇されそうになれば組合が護ってくれる。故に、組合に対して忠誠心が高い。
破廉恥罪でも、有罪にならない限り教育者としての身分は保障される。
教育というのは、
教え育てるとあるのに、なぜ教える事ばかりに偏って、育てることを忘れるのだろう。
だから、答えを想定せずに君は、どう思うかと問う先生はいない。だから、人は育たないのである。
いつでも答えは、先生の方が用意していて、子供達の考えや答えは、最初から入り込む余地がない。頭から、予め決められた答えを教え込むことだけしか考えない。
最初から子供達が疑問を持ったり、好奇心を持ったり、考えたりすることは許さないのである。
教育者は聞き耳を持っていないのである。
教師が子供達の方を向いていない。
教師には、子供達の目の輝きが見えないのである。
自分が子供達から学ぼうという姿勢が最初からないのである。
子供達を最初から教育から排除しているのである。
子供達に教育する者が心を開いていないのである。
自分が心を閉ざしていてただ、子供達に心を開くことだけを求めているのである。
教育とは、教え育てることである。そして、その根本は、自分が学び、育てられることでもある。
それを忘れた教育は、魂のない抜け殻に過ぎない。
素養、教養がない者は、救いがたい。なぜならば、素養、教養が効能を発揮するのは窮した時だからである。困った時こそ、素養、教養が問われる。年をとって力が衰えた時、窮地に陥って判断に困った時、貧窮した時、途方に暮れた時、挫折したり、絶望した時、挫けそうになった時、人が妬ましく思った時、他人が皆、自分より優れているように思えた時、孤独な時、孤立した時、どうしたらいいかわからなくなった時、何も決められなくなった時、責任をとらなければならなくなった時、後進に道を譲る時、自分の過ちを認め悔い改めなければならない時、謝るべき時、名誉を傷つけられた時、気後れした時、怠けたくなった時、誘惑に負けそうになった時、不正に荷担させられそうになった時、臆病になった時、失敗した時、人が信じられなくなった時、自分を見失い掛けた時、自信をなくした時、失恋した時、不遇な時、そんな時こそ素養、教養が力を発揮する。
素養、教養で大切なのは歴史と古典である。
日本人なら日本史。そして、ギリシア、ローマ史。中国史である。古典は、中国古典と聖書、コーランは不可欠である。いずれにしても、歴史と古典をもっと重んじるべきである。歴史と古典を軽んずるのは、現代人の驕慢の為せる業であり、悪癖である。
何を教えるべきなのか。
最近、統計を使った教育が脚光を浴びている。また、予備校や塾、家庭教師が大流行である。
新しい教育方法が基準としている統計情報は、あくまでも数値化できるデータを素にしている。予備校や塾が重点的に教えているのは、試験に合格するための技術である。
何を教えるべきなのかという視点が最初から欠落し、結果だけを問題としている。
それ姿勢自体が、教育の本質からして問題なのである。
教育以前に、教育そのものの目的が損なわれている。
何を教えるべきなのか。
それは、人として生きていく為に必要な事である。
社会人として生きる術(すべ)である。
ところが今の学校では、人として生きる為に必要な基本的な素養を躾るのは、学校はなく、家庭だという。
では、学校では何を教えるというのか。教師個人の政治的信条を教えることが学校で教えるべきだというのであろうか。
今の学校では、愛する事を教えるより先に性欲を教える。人間には、愛よりも性欲の方が大事であり。愛ばかりでは生きていけない。欲がなければ生きていけない。或いは、愛なんかない、あるのは欲ばかりだ。欲望に従って生きればいい。愛と欲とは同じだ。それが人間の真実だと言わんばかりである。愛なんか教える必要はない。性欲だけを教えればいい。その様な考え方は、現代の風潮を象徴している。
愛は、目的であり、性は手段である。どちらも大切であり、各々に役割がある。しかし、愛と性とは異質なものである。愛は、高めるものであり、性は、必要によって抑制すべき働きである。
大切なのは、愛と性の違いを知り、それぞれの働きに応じて自分を律(りっ)する術を教える事なのである。際限のない欲望をいたずらに開放すれば、愛は失われてしまう。
今の学校では、人として、社会に出た時に役に立つことを教えようとはしていない。教えようとするどころか、不必要だと決め付けている。挙げ句に、社会人として必要な知識や常識とは、正反対のことを学校で教えているとしたら、これは、歴とした犯罪に等しい。
今の学校は、反体制主義者、反権力主義者、組合主義者の思想教育の場と化しているようにすら見える。
何を学校では、本来、教えるべきなのか。
それは、人間いかに生きるべきかである。
だから、根本は思想であり、哲学なのである。
倫理観であり、人生観、世界観なのである。
現代社会の病巣は、その根源的な部分が曖昧となり、揺らいでいることなのである。
しかし、本来それは、難しいことではない。
どの様な宗教や哲学でも共通している部分である。
十善に過ぎない。
親や子を大切にし、兄弟、姉妹仲良くする。
人を傷つけない。乱暴はしない。
人を殺さない。
人の物を盗まない。
嘘はつかない。騙したり、脅したりしない。
約束は守る。信頼を裏切らない。礼節を守る。
過度の飲酒は控える。他人に、迷惑を掛けない。
欲はかかない。浮気はしない。思いやりを持つ。
物を大切にする。無駄遣いはしない。浪費はしない。
神仏を敬い。日々感謝する事を忘れない。天に恥じる行為はしない。
教えるべき事は、難しいことではない。
人として当たり前なことを躾ることである。
人間いかに生きるべきか。
人生について教えるべきなのである。
そして、その根本は、愛する事であり、信する事である。
生きる喜びである。
学校の先生というのは、人生の師であるべきなのである。
故に、かつては、聖職と言われたのである。
教育者というのは、徳を磨かなければならないのである。
そして、生き様そのものが生徒、弟子達の手本となる生き方をすべきなのである。
師とは、求道者であるべきなのである。