公について
現代教育の問題点は、公(おおやけ)という思想が欠落している点にある。
公とは、私(わたくし)の外にあって私を支える人間社会を言う。
私の外にあって何等かの権威によって承認された社会、制度を言う。
国民国家においては、国家、国民、それに準ずる存在を言う。
つまり、公というのは、世であり人である。公に尽くすというのは、世の為人の為に尽くす事である。
それを頭から否定してしまったところに、現代の教育の病巣がある。
その典型が礼節の否定である。
その結果が荒れる成人式である。
礼を否定した者達が無礼だと叱るのは滑稽ですらある。
若者達が反撥するのは、そう言った大人達の欺瞞である。
言うべき事は言い。通すべき事は通すべきなのである。
それが大人である。
大人とは、社会人、公人となることを意味する。
その通過儀礼が成人式なのである。
成人式が荒れるのは、現代日本の教育を象徴している。
粗暴になるように躾た大人が先ず反省しないかぎり、若者は改まらない。
公(おおやけ)とは、共同体を意味する。
公という思想があるからこそ教育は成り立つのである。
公がないところに教育の本義は成り立たない。
その公が、我が国の戦後の教育にはない。だから、道徳が喪失するのである。
公とは、社会である。集団である。組織である。
なぜ、現代の教育が公を嫌うのか。
それは、現代日本の教育が植民地教育だからである。
公が主体性を持つのを嫌がるから公を侮蔑した教育をするのである。
それを公立学校が行うところに、植民地教育の意義がある。
公が好むのは、秩序であり、規律である。
植民地の秩序や規律を守るのは、宗旨国で在らねばならない。
公が秩序や規律を維持するのは、支配する者として甚だ都合が悪いのである。
だから、植民地のメディアや学校は秩序を乱す者を喜ぶ。
公に楯を突くのを奨励する。
不満の矛先を公に向けさせる。
公に結束されたら困るからである。
国が乱れれば、宗主国が主権を侵す口実となるからである。
こうして、宗主国は、植民地を間接的に管理するのである。
公に対する言葉は私(わたくし)である。しかし、私(わたくし)という思想は、公に、反する思想ではない。公と私は、二律背反的に思想ではない。
私を公に背かせるのも植民地に対する教育の一種である。
公と私が一致しなければ、独立の気運は形成されない。
公と自由とは相反する観念だと欧米思想は刷り込む。
それに対し、むしろ自らを律するためには、公を必要とすると従前では、東洋では考えてきた。私(わたくし)と公とが一体となった時、自由は実現する。
人間は、弱い存在である。有り余る権力を手に入れたりすると、自らの限界を忘れ驕慢になる。又、逆において老い衰えたり、進退が窮まり忍耐力が弱まると横暴になる。それでなくとも自儘になりがちである。強くなりすぎても、衰えても自分が見えなくなるのである。
公の大義があってこそ自分に克つことができる。
自らに克つことによってはじめて自分を律することができる。自分を律することこそ自分を生かすことである。
それこそが克己復礼であり、教育の本義である。
だから、東洋においては、修身、斎家、治国、平天下が学問の筋道なのである。それに外れることは道に外れるのである。
公私混同ではなく。公私一体である。
公と私的なものを対立的に捉えるのは、欧米的個人主義である。
欧米人は、根本的に人間不信を基礎としている。
彼等の言う権力とは、支配するための道具である。
しかし、東洋では、信を基礎としている。故に、信望を失うことは、公に見放されることを意味する。
だから、欧米人の言う公とは、機関に過ぎない。
東洋人の言う公とは、人の集団である。家で言えば、家族であり、会社で言えば、社員であり、国家で言えば国民である。
東洋人にとって公は、自己を束縛する存在ではない。無条件に従うものではない。自分の所信を曲げてまで従うべき存在ではない。
一をもって貫く。即ち、自らを修め、家を興し、国を治め、天下を平穏にする。それは、一貫した思想である。私から公までは、一本筋によって貫かれているのである。
又、生きる目標も又、私の延長に公があるからである。
公があって己の志も公の大義とすることができる。
公があるからこそ生き甲斐もあるのである。
私の命には限りがあるが公の大義は不滅である。
そして、その大義は、子孫のために生きている。それが人の道である。
故に道徳が成り立つ。
道徳は、己(おのれ)の善と公の大義が合致したところに生まれるからである。
私善をもって公を正す。それこそが志すところである。
自分の信念がなければ、公を糺すことはできない。
公を否定したら道徳は成り立たない。
道徳がなければ礼節は生じない。
礼節をもって公を糾し、自分を律する。
私善は、廉潔によってのみ保たれる。
廉潔は、礼節に現れる。
礼節は姿勢である。
それが克己復礼である。
公とは、共同体を意味する。共同体とは、お互いに助け合って生きていく仲間を指して言う。
共同体とは、人間集団、社会を意味するのであり、君主や独裁者のような個人を指しているわけではない。むしろ、君主や独裁者すら従うべき存在である。
だから、公共の正義を公義というのである。それは、その社会に属する者、全てが従うべき掟、不文律、道徳である。
公に仕える者を公僕と言い。真の忠とは、公に対する忠と朋友に対する恕である。もし、権力者が公義に反する行為をとればそれを糾す事が忠である。服従のみが忠義ではない。公義を護って断固として立つ、それこそが忠義である。誠忠である。
日本人にとっての神とは、公の象徴である。故に、忠義は信仰に近い。
共同体とは、人間集団を元とする。故に、公は、人間関係を中心とする。公を知るとは、公の目的を明らかにし、人間関係を知る事である。公の目的とは、その集団の存在意義を知る事である。そして、人間関係を成立させている筋道、道義を知る事である。故に、公を成り立たせている人間関係を知るためには、公の筋道に基づいて己の立ち位置(たちいち)を知る事である。それは、己(おのれ)の立ち位置に基ずく、自分の公の役割を知る事である。それは、自分の立ち位置に基づく公の行動、行動規範を導き出すことを意味する。
共同体とは、家である。家というのは、血縁関係に限ったことではない。英語で言うホームである。人々が、寄り集まって生きていく為の空間である。自分達を護ってくれる場所であり、心の源、故郷である。最後に変えるべき場所である。無条件で受け容れてくれる仲間である。故に、国は国家なのである。
共同体は、砦である。世間の冷たい風や、周囲の的から最後に身を護ってくれる砦である。だから、一致協力して護るべきものなのである。誰も護ろうとしない、家族や、会社、国家は、護りきれるものではない。最後の砦である家族や会社、国家が崩壊したら、人間は脆いものである。だから、共同体によって自分も家族も仲間も守るのである。そこに恩義がある。
親の恩、仲間の恩、国の恩、それは情であって理屈ではない。理屈が先にあるのではなく、人間と人間との繋がりが先にある。それが東洋思想の核である。
公と私は、対立関係にある働きではない。普段は、一体となって働いている。しかし、時には、矛盾し相反する働きをすることがある。
義理とは、公の関係をいい、人情とは、私の情を言う。義理と人情は、本来一体の物である。しかし、利害が絡むと義理と人情が反目することがある。同様に、忠は、公に対する働きをいい、孝は、私の関係である。だからこそ、義理と人情、忠と孝、いずれを尊重すべきかは、永遠の課題なのである。ただ、義理と人情、忠と孝は、本来、反目し合う関係ではない。
刀をもって自制する。
公のために、身を捨てて戦う。それが私である。
それが武士道である。
故に、忠とは、ただ隷属することを意味しているわけではない。
忠たらんと欲すれば、志をもって全体の中で起立するのである。
全体を活かすためにこそ、自分を活かす。
それが忠義の本然である。
公を学ぶ事、それが人の道を明らかにすることである。
東洋人にとって公の道義は東洋思想にこそある。
東洋思想の源流は、中国古典にある。だからこそ、中華の復興に尽力すべきなのである。
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