日本人とは
日本人の原風景は、第一に、無垢、第二に、純真、第三に、素、第四に、自然、第五に、清潔、第六に、簡潔、第七に、単純、第八に継続、第九に、正直、第十に、象徴、即ち、様式美にある。
現代日本の思想の源流は、焼け跡派と言われる連中にある。
彼等は、物心が付いたときに軍国主義の洗礼を受け、バリバリの軍国少年として少年期を過ごす。それが日本の敗戦によって百八十度、変わって、今度は、自由主義、民主主義の洗礼を受け転向させられる。そして、最後に、マルクス主義、共産主義の洗礼を受ける。
教科書を黒く塗りつぶすことによって自分達の過去を抹消することを強いられた世代である。それが戦後の知識人のルーツである。
自虐的、主体性がないと言われる彼等の由縁は、その鬱屈とした、複雑な生まれた時の事情によって刻み込まれる。
憎いアメリカに憧れて欧米流の思想を呑み込まされ、屈辱的な想いを隠して多感な青春時代を過ごしたのである。そこに現れたのが社会主義である。彼等にとって自由、革命、社会主義は、一括りにされて神話となった。だから、今でも、自由主義と社会主義の区別がつかない。全て革新である。
そして、彼等の影響をもろに受けたのが、団塊の世代、所謂(いわゆる)、全共闘世代である。全共闘世代の青春は、反米と共産主義、暴力革命、反体制闘争に明け暮れる。それが彼等の言う正義である。
その本質は、無政府主義であり、反倫理主義、行き着くところ、虚無主義と無政府主義、快楽主義、刹那主義である。不可解なことに、全体主義や独裁主義と無政府主義が同居する。
保守派と言われる人間にも、革新派という人間にも根本には、心情的な繋がりがかいま見られる。それが、現在の政治を解りにくくしている。
それは、大東亜戦争という戦争を日本人として総括できない事に最大の原因がある。そして、それ故に、日本人の原風景と対峙できないことが問題なのである。
日本人は、心の故郷を失い。荒廃した心象の中で自らの発祥の地を喪失してしまったのである。
焼け跡派と称する世代は、自分達の教科書、即ち、自分達が生まれてすぐに刷り込まれた価値観を黒く塗りつぶし、リセットしてその上に、ま逆の価値観を上塗りされたのである。
その瞬間に彼等の自尊心は、こなごな打ち砕かれた。それは、心の奥底、深層部分に深い闇をもたらした。その闇が彼等の思想を歪め、卑屈にしているのである。僻み、妬み、やっかみ、根性がひねくれ。真っ直ぐ素直に世の中を見ることができなくなった。鬱屈しているのである。そして、無批判に共産主義を受け容れた。思想なんてファッションに過ぎない。だから転向も早い。無節操なのである。所詮、貞操観念なんてないか。そのくせ、人の評判ばかり気にする。
鬼畜米英と喚いていた人間が、ギブ ミー チョコレートとアメリカと縋り付き。忠勇愛国と言っていた人間が反体制派として国の責任を問う。信じていたものが嘘となり、嘘が真実となる。誰の性で、皆、世間が悪いのだそう言い聞かせるしかなかった。何せ焼け跡に育ったのだから・・・。
帝国主義者が民主主義者に宗旨変えし、軍国主義者がいつの間にか反軍の権化となる。
更に悪い事には、善と悪との尺度が戦前と戦後に分かたれ、戦前の日本的な物全てが否定された事である。歴史も伝統も文化も全てが戦前からの価値観は、悪として一括りされて葬り去られた。そこで標的にされたのは、日本的なものだけではなく。東洋的な思想、即ち、中国の古典をも併せて全否定されたのである。文明は、欧米にしかないとされ、それを黙って受け容れた。
大宅壮一の提唱した無思想の思想が象徴しているように矛盾を矛盾として認識する事もできなくなった。その結果、反体制的独裁者、暴力的平和主義者、差別主義的同権論者、反権威主義的権威者といった得体の知れない人間が生み出されるのである。しかも彼等は無自覚なのである。まるで鵺の如く主体性がない。人の目ばかり気にして、何も決められずに、表で人に迎合し、裏で人を嘲る。
それが今、日本の中枢を担う世代へと成長した。
今の日本の思想を牽引していると言われるのは、風刺も、信念も、覚悟も、道徳観もない、ただ金目あてなだけのお笑いである。尺度は、売れるか売れないかだけ。内容は下品、ゲスでもかまわない。ただ笑わせればいいと思っている。芸も、礼も、節度も、何もない。
落語にせよ、講談にせよ、浪花節にせよ、演歌にしても、思想が根底にあった。それを陳腐と焼け跡派は嘲笑う。
しかし、かつての日本の庶民は、笑いながら、思想や道徳を身につけていったのである。噺家だってプロとしての誇りを持っていた。貧乏でも噺家としての意気地を重んじたものである。だから、下ネタで笑わせるのは邪道だと戒めていた。脇の下に手を突っ込んで笑わせるようなになったら、お終いだと自制していた。噺家にも噺家としての誇りがあった。命を掛けて話を護ったのである。
結局、焼け跡派と称する連中は、黒く塗り込めた部分を捨てきれずに内心奥深くひた隠し、表は、自由主義、進歩主義の仮面を被る。名誉白人と言われて増長し、有色人種を見下して、その実、黄色人種としての劣等感を引きずり続けている。
礼節を封建的、形式的と否定し、それを自由という名で笑って誤魔化そうとする。
戦後の日本人は、思想の核を失ったのである。
戦争に負けて自分の心の芯を黒く塗りつぶし、その上に、自由、民主と書き、アメリカに憧れ、ギブ ミー チョコレートと恥もなく手を出して生きのびた。アメリカが、ベトナムに手を焼くと反米左翼とアメリカへの敵意を剥き出しにし、自由、民主を塗りつぶしてその上に、反戦、平等、社会主義と健忘症になったかのようにその時の流行に併せて書き換える。
結局、二重三重に価値観を上塗りして、自分達本来の価値観を見失っている。その卑屈に歪んだ価値観から捨て鉢で無責任、投げやりな刹那主義的、快楽主義で自分の生き様を正当化しようとする。だから言い訳ばかり。言い訳ばかりをして生きていくようになる。彼等にとって自由というのは、自分を正当化するためだけにある。言論の自由というのは猥褻を正当化するためにあるわけではない。
無縁、無縁と言うが、自分から家族を否定し、家族の絆を断ち切ったのだ。今更何を言う。
なぜ、愛国心が、軍国主義や独裁主義、国粋主義、全体主義だけに結びつくのか、私には解らない。軍国主義者、独裁主義者、国粋主義者、全体主義者は単に愛国心を利用しているだけに過ぎない。
愛国心は、国民国家にこそ求められる。国家という概念は、国民国家の成立と伴に確立された概念だからである。だから、愛国心は、民主主義国や共和主義国、自由主義国、社会主義国にこそ必要なのである。
決定的なのは、焼け跡派には、国家という概念が欠落している。ある意味で植民地の人間なのである。宗旨国であるアメリカのご機嫌ばかりをとっている。多くの焼け跡派は、他国から侵略を受けたら、妻子を差し出し、自分達は戦わずに逃げ出すと広言して憚らない。そして、それが反戦平和だと曰(のたま)う。
叛逆と自己否定。結局、焼け跡派の本音は、叛逆と自己否定につきる。だから、自虐的と言われても仕方ない。粗暴にもなる。どうせ俺なんかとすぐに自分を卑下して、ひねくれる。それを延長するとどうせ日本人なんてとなる。兎に角、逆らったり、疑ることばかりを教える。何も信じられない。信じるのは馬鹿のすることなのである。素直な人間は気に入らない。焼け跡派や全共闘世代の作った小説や映画を見ればよく解る。自分達は、どこまでいっても、被害者か悲劇の主人公なのである。悪いのは、皆、世間。世の為、人の為にという意味が、役に立つというのではなく。世の為、人の為に俺はこんなにねじ曲がったという事になる。全てが受け身なのである。自分達が進んで世の中をよくしようなどと思わない。よくしようと言うのは、格好つけだけである。よくしようにも、根本思想がないのである。あっても、余所からの借り物に過ぎない。
世の中に綺麗事はないさと自嘲ぎみに、ひねくれて、乾いた笑いをする。
それが今、日本の運命を担うべき世代の本性である。
斜に構えて、己を卑下して、卑屈に、恥を忘れて己を無様に笑い飛ばす。
それが、今日のお笑いである。
自暴自棄なだけである。
本当にお笑いぐさである。
いつの間にか、自分の思想の正体を見失って、結局行き着くのは無政府主義である。
無政府主義というのも体のいい隠れ蓑で、実体は、エゴイズムでしかない。挙げ句の端に、金金金の拝金主義に陥る。
何を信じ良いのか解らないから、得体の知れない神に縋り付く。それも単なる現世利益を求めてである。信じたつもりで騙される。
要は主体性がないのである。魂が抜かれてしまったのである。
反体制的思想に染まった学校では、統制、規律、秩序は禁句となった。
愛国心は反動的と忌み嫌われる。
恩だ、義理だ、人情という言葉は、生理的にすら受付なくされた。
見事なまでの植民地教育である。
日本を支配した国の人間は、日本人が結束するのを怖れたのだ。
だから武道を弾圧し、エログロナンセンスを奨励した。
無軌道や叛逆は美徳なのである。
学校で逆らうことばかりを教えた。
曰く、何でも疑ってかかれ。
上の言う事は何も信じるな。
古い物は、皆、遅れている。
科学は万能である。
東洋には正しい教えは何もない。
兎に角、戦前の日本は全否定である。
歴史も伝統もである。
筋の通らないことをするな。
物事には、順序、道理がある。
手順を間違えるな。
義理を欠くな。
おまえは、人情が解らない。
恥を知れ。
けじめを付けろ。
どう落とし前をつけるのだ。
潔くしろ。
弱い者イジメはするな。
男らしくしろ。
と一言言えば、以心伝心、伝わったものである。
それこそが日頃の教育の賜物。
それが今では何も伝わらない。
結果、コンプライアンスがどうの、モラルがどうのと解りもしない空疎な言葉が飛び交っている。
これでは教育の成果は上がらない。
逆に言えば、戦後占領教育の成果だとも言える。
これ程日本人の魂、大和魂を抜き取り、骨抜きにしたのだから大したものである。
しかも、それを同じ日本人にやらせたのだから怖ろしいものである。
しかし、これでは日本人はたまったものではない。
日本人としての教育ができなくなる。
それは、決して民族主義教育ではない。人間としての尊厳、誇りの本源に対する教育である。
独立と自立のための基盤を作るための教育である。
日本人の原風景は、第一に、無垢、第二に、純真、第三に、素、第四に、自然、第五に、清潔、第六に、簡潔、第七に、単純、第八に継続、第九に、正直、第十に、象徴、即ち、様式美である。
様式美とは、形式美である。礼儀、作法、身嗜み、仕来り、居住まい、立ち姿、日本人は、美にこそ価値観を見出してきた。だからこそ、言葉よりも姿を重んじてきたのである。
日本人が大切にしたのは、いきる姿勢である。だから、こそ醜く生きるくらいならば潔く死を選んだのである。
焼け跡派、醜く生き残ることを選べと言う。なぜならば、彼等は、生き残ったからである。そして、死んでいったものを犬死と嘲笑う。自分達の後ろめたさを隠すようにである。
日本人の価値観の中心は美である。焼け跡派は、それを醜にし、美徳を醜悪な物にすり替えた。
やくざにも任侠、義侠があったというのに、今は、政治家ですら信義、信念、礼節、志操覚悟を持たず。国や国民を護る気概もない。
日本の思想の本質は言外にある。言葉ではなく。生き様を信じたのである。不言実行。
わび、さび、ものの哀れのようにそのもの直接的にを表すのではなく婉曲的に表現するのが日本流である。
お世話様、お陰様、お互い様と生きてきた。それは双方向の思いである。
義理人情も然り。
焼け跡派は、義理人情は古いと言下に否定する。
しかし、事の正否善悪に新旧老若男女の別はない。
日本人の思想の根本にあるのは、恩という思想である。
この恩という思想を焼け跡派は、徹底的に目の仇にした。
恩着せがましくいって人を雁字搦めにし、言うことを聞かせようとする。
恩に囚われるような精神は、奴隷根性だというのである。
しかし、恩というのは、あくまでも自発的な意志を尊重することを前提とした思想である。
だから、恩を強調する者も、恩着せがましく言うのを嫌った。
しかも、日本人の根本は、お互い様、お陰様、お世話様であり、双方向の関係である。
上に立つ者も、自分を支える人々の恩を大事にしろと躾られたのである。
お世話様、お陰様、お世話様と言う言葉の根底にある勘定こそ恩なのである。
だから、日本人は、恩を知らない者を信用できないのである。
つまり、日本人の信頼関係は、恩によって支えられてきた。
その恩という感情が否定されたことによって日本人社会は崩壊へと向かっているのである。
恩や義理など口に出して言うようになったらお終いである。
だから、日本人は、浪花節や義太夫、講釈や落語、歌舞伎と言った娯楽によって人々を感化し続けてきたのである。
日本人は、結局、忠臣蔵や水戸黄門、大岡越前、清水の次郎長などが好きだ。戦後の教育は、それらを生理的に嫌うように仕向けてきた。
日本人が日本を嫌うように仕向けたのである。その成果がやっと現れてきたところである。日本人としての礼節、日本人として振る舞い、日本という国土、日本人としての正義、日本人の誇り、日本人の歴史、日本の言葉、日本の着物が反吐が出るほどきらいという世代が増えてきている。それが戦後教育の成果である。
我々は、この国を、即ち、我々を護ろうとして死んでいった人々を忘れてはならない。
今日の我々の幸せや繁栄があるのは、彼等が命を掛けて我が祖国を護ってくれたからである。それを犬死に呼ばわりをするのは言語道断である。
事後、何でも言える。しかし、生きのびた者が、自分のために犠牲になった者を悪し様に罵り、全ての責任を彼等に押し付け、自分が生きのびたことの言い訳にすることは許されない。
我々は、我々のために犠牲になった人々のためにも、この国の魂を次世代まで引き継いでいく責務があるのである。
継続とは、伝統である。歴史である。日本人にとって歴史も伝統も文化である。
つまり、日本が継続していくためには、歴史や伝統を重んじることである。
日本人にとって魂は不変的なのである。
日本人としての魂が滅んだ時、日本も又、滅亡するのである。
だからこそ、日本の滅亡を願う者は、日本の歴史と伝統を軽んずるのである。
努々(ゆめゆめ)、それを忘れてはならない。
日本人は、日本人の原点に帰るべきなのである。日本人の原点に帰り、日本人としての正道を歩むべきなのである。
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