働くと言う事


働くと言う事


 最大の過ちは、経済を金儲けのことだと思い込んでいることである。

 経済の目的は、金儲けにあるわけではない。世の中に有用な物や用役を生産し、提供して、人々を養う事にある。

 生き物にとって経済というのは、生きる為の活動である。植物は、大地から養分や水分を吸収し、光合成によって生命力を得ている。それが植物の経済である。
 草食動物は、餌を求めて移動し、肉食獣は、獲物を捜して活動をする。それ以外の時は、体を休めている。それが野生動物の経済の在り方である。

 お金の価値など人間以外の生き物には、無価値なのである。猫に小判、豚に真珠と言って猫や豚を嘲笑うが、猫や豚は、小判や真珠のために、人を傷つけたり、人殺しをしたりはしない。

 猫や豚は、金儲けを経済だとは思っていない。彼等は生きる事で精一杯なのである。それが、彼等の経済である。

 野生の鷹は、生きていく為に必要な時以外、他の生物を襲ったりはしないという。必要でもないのに、金のために動物を殺すのは人間だけである。その為に資源が涸れつつある。自分の享楽のために、貴重な資源を無駄にするのは不経済な話である。愚か者のすることである。ならば、野生の鷹と人間、どちらが愚かだと言えるだろう。人間は簡単な計算もできないのではないのか。資源はかぎりがあるのである。

 経済というと人間はお金に結び付けて考えるが、経済の根本は、お金ではない。生きる事である。経済とは生きる為の活動である。
 それを金儲けの手段だと思い違いした時から、人間は、経済の本質を見失ったのだ。
 そして、経済的行為を賤しいことのように蔑んだ。しかし、それは、経済を金儲けだと思い違いをした人間が下劣なのであり、経済が下劣なのではない。
 野生の鷹の経済は、気高く、誇り高い。厳しい自制と抑制がある。それが経済である。

 経済の本質は、人間としていかに生きるかである。つまり、経済とは、生きる為の活動なのである。

 なぜ、働くのか。
 労働は金を儲けるための活動ではない。生きる為の活動である。人間らしく生きる為の活動が働く事なのである。

 生きる為の活動という事は、生きる為の働きと生きる為に必要な物資を調達することに要約される。それを貨幣経済では媒介する手段が貨幣であり、その範囲において貨幣は、有効であり、重要なのである。

 金に人間の一生が支配されてしまったとしたら、哀れなことである。

 私の父は、縁という言葉を大切にしろと私に常々言う。縁とは、人と人との関わり合い、結びつき、絆である。そして、一緒に仕事をする人達とよく同じ釜の飯を食った仲間ではないかと励まし合ってきた。そして、最後に頼りになるのは家族なのだと言い聞かされてきた。
 親兄弟にも言えないことを話せるのが仲間であり、遠く離れていてもいざという時、助け合えるのが、親子、兄弟、姉妹なのである。仲間と家族、それが経済の核となる主体である。
 愛し合い、信じ合い、助け合える仲間と家族、それが経済の原点なのである。その根幹に夫婦、父母、友達がいる。
 経済の中心となる主体は、仲間と家族である。その本質は、友愛であり、家族愛、夫婦愛である。つまり、経済の本質は愛なのである。そこに経済の持つ公共性の意義がある。それを失った時、経済は、不毛なものとなり、市場は修羅場と化す。市場は、自分の欲望を満たすためだけの醜い争いの場となるのである。その様な市場で勝ち残れるのは、金を儲けるためならば、親子兄弟、仲間を売ることのできる者だけである。争いだけを市場に求めるのは愚かなことである。金儲けのために、道徳を犠牲にすることは、経済の本義でない。
 不景気になった時こそ、仕事仲間は一致団結すべきなのである。不況だからと言って仲間を切り捨てるのは不経済な話である。それは経済の目的が金に移った証拠である。苦しいからこそ、仲間を見捨てることができないのである。
 経済とは、生きる為に苦楽を共にする覚悟をすることなのである。決して金儲けのための手段ではない。金を儲けることは、仲間を守り、家族を守るための手段である。金儲けのために仲間を売り、家族を捨ててしまうのでは、金を儲ける意味がない。経済の本質が失われているのである。金儲け主体の経済は、魂のない肉体のようなものである。タダ、醜悪なだけであり、いわば怪物である。
 経済は、世の為、人の為にある。だからこそ、働く事に意義があり、喜びが見出せるのである。
 金そのものには意味がない。金は、使い道によって意味が生まれるのである。自分の邪悪な欲望を満たすために金を使うか、人を助け、家族の幸せのために使うかを決めるかは、金を使う者の側の問題である。
 貧しいか、豊かは、金の問題ではなく。心の問題なのである。
 現代社会の病根は、経済を金を儲けることだと錯覚したところにあるのである。経済とは、生きることであり、その人の人生そのものである。如何にして金を儲け、どの様に、金を使うかは、その人の良心の問題である。
 労働の価値は、その人の生き様によって測られるものなのである。

 なぜ、何のために、そして、誰のために働くのか、その答えこそ経済の本質を表しているのである。そして、その答えを自分として選択できるようにするそれが自由経済の本意である。その為に経済的自立を保障するのである。

 いつから人間は、これ程、働く事を嫌うようになってしまったのであろう。労働を卑しむあまり、労働者と奴隷との見分けもつかなくなってしまったようだ。兎に角、遊べ、休めである。休日をとらずに働こうとすると強制的に休もうとする。先日も、馬鹿な首長が率先して休むと宣言をしていた。
 私は、遊びと労働とは、本質的な違いはないと考えている。要は、楽しんでいるか、金を得ているかの違いである。金儲けは、辛く哀しい、だから、金をもらっているのだと金儲けの言い訳にしているだけに聞こえる。アマチアは、楽しんでいるのだから金をもらう資格はない。プロは苦しんでいるのだから、金をもらう資格があると言いたいのだろうか。
 オリンピックでさえ、プロとアマとの境目が判然としなくなり、結局なくなってしまった。オリンピックは、参加することに意義があると言われたのに、金をもらうようになると勝負に拘るようになった。
 つまりは、金を儲けるという手段が生きる目的として目的化してしまったから、問題なのである。そして、スポーツの本質が忘れられてしまった。
 勉強も試験に合格することが目的化され、受験は、競技化されてしまった。子供達は、なぜ、何のために勉強しているかの意義が解らなくなった。大人が、子供達になぜ、何のためにと言う問い掛けさえ許さなくなったしまったからである。
 どうして学問の質を問題にすることができようか。
 労働は、喜びである。仕事場は、自己実現の場である。仕事は、生き甲斐である。働く事によって自分が世の中、社会、家族から必要とされていることを実感することができるのである。だから、働く事は権利である。職業を選択する自由は、保障されなければならないのである。

 問題は、労働が苦痛にしかならないような環境や条件である。勉強が子供達にとって拷問でしかないような環境や仕組みが問題なのである。

 我々の祖先は、山の木を切る時、山の神に祈りを捧げ、神の許しを請うた。そして、切り株には、枝を添え木したのである。それが経済である。経済とは、神聖な行為である。それは生きるための活動だからである。その根本にある労働は神聖な行為である。故に、日々働けることを神に感謝し、神に祈りを捧げたのである。それを経済というのである。労働を卑しむ者は、自分の人生を卑しむ者である。

 昔は、仕事場が教育の場だった。働きながら生きる術(すべ)を同時に教わってきたのである。つまり、生きる為に必要な事を現場で身につけてきたのである。学校という特別な場で教育するようになり、生活と教育は切り離されてしまった。当時は、役に立つこと、世の中のためになることだけを教えていたのである。学校は、読み書き算盤を習うところと言うように住み分けがされていた。
 世の中から隔絶された場で教育されるようになった結果、世間知らずの人間が増えたのである。仕事をする場で教育がされていた時代には、学校は、役に立たないことを教えると反対していた者がいたくらいである。
 むろん、国民国家では、博くいろいろな知識を学ぶ必要があり、学校にしかできない教育もある。しかし、同様に、学校で教えられないこともあるのである。

 家庭や職場こそ、教育の主で、学校は従だった。それがいつの間にか、学校が主で、家庭や職場は従になってしまった。それから教育はおかしくなってきたのである。

 最近は、義理、人情、恩と言った言葉が死語になってしまった。しかし、義理や人情、恩と言った言葉が必要とされた時代は、それが必要とされた理由があるのである。
 それは、義理、人情、恩という言葉が生きていたの時代では、人々が助け合って生きていかなければならないと言うことを自覚していたのである。それが柵(しがらみ)や拘束になってもいたが、同時に社会の底辺を支えもしていたのである。
 義理人情という言葉が廃(すた)れてからは、お世話様、お陰様という言葉も聞かれなくなった。だから、結婚相手を世話する人もいなくなったのである。逆に大きなお世話とひきこもる人間が増えてしまった。歳をとった者を世話をする者がいなくなったから、年寄りは、施設に入れるか、孤独に一人で死んでいくしかなくなってしまったのである。

 今の人間は、不人情なもので、困っている者がいても助けようともしないし、隣の人間が病気で孤独死しても気がつきもしない。悪臭がして迷惑だからはじめて気がつくのである。親子、兄弟だって助け合ったりはしない。相続のことだけが大切であり、しかも、相続は、かえって兄弟がいがみ合う原因となってしまっているのである。何でもかんでも金で済ませればいいと思い込んでいる。又、その様にしか教育されていないのである。それが学校教育の成果である。学校では、義理も、人情も、要するに人間同士の付き合い方や世の中で生きていく為の仕来り、作法や礼儀など教えてはくれないのである。

(子張曰く『何をか四悪と謂う。』子曰く『教えずして殺す、之を虐と謂う。戒めずして成るを視る、之を暴と謂う。令を慢にして期を致す。之を賊と謂う。猶しく之れ人に与うるなり。出納の吝かなる、之を有司と謂う。)(堯曰第二十 論語)

 それを家庭で躾(しつけ)ようとするとむしろ学校では反対すらする。それでは真っ当な大人は育たない。それで成人式で非常識な行動をとって叱られる。

 なんだかんだと言って金が全てだと教え込まれ、信じ込んでいる。お金で片付けられると思っているのである。金があれば何でもできると思い上がっている。
 金だけじゃあないというと綺麗事だとテレビで盛んに宣伝する。そんな証券会社のコマーシャルがあった。結局、学校とメディアは、金だけの世界にしたいのである。

 本来の教育というのは、学校だけで行うものではなく。家庭でも、職場でも、社会全体が一致協力して行うものなのである。

 経済的自立とは、自分の持つ労働という資源を活用して生活に必要な資金を得ることにある。そして、その機会を保障するのが国民国家の役割とするのが自由経済の鉄則なのである。







                content         


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2010..3.29 Keiichirou Koyano

教   育