反体制という思想


 私は、戦後生まれで戦争を知らずに育ってきました。
 私が子供の頃に安保闘争があり、安保反対とわけも解らず叫んで遊んでいた記憶があります。
 それから学生時代は、大学紛争が丁度衰退期にありました。
 そして、去年政権交代がありました。
 時代の節目を象徴した出来事だと感じます。

 なぜ、このような事を言うのかと申しますと我々の世代は、自分達の考え方を改めなければいけないと思うようになってきたからです。
 我々が変わらなければ、この国は変わらない。

 これまでは、我々は、体制を批判し、反対すればよかった。
 しかし、これからは、そう言うわけにはいかない。
 批判や反対をするばかりではなく、次の世代にこの国を引き渡していかなければならない責任があるからです。
 我々は、責任ある立場に立たされているという事です。
 今、この国に起きていることは、我々のしてきたことの結果だと言う事を自覚すべきなのだと言うことです。

 最近も荒れる成人式のことが問題になっていましたが、
 そう言った若者達に誰がしてしまったのか。
 若者達だけを責めても何の解決にもなりません。
 親の世代を責めるわけにも行かない。
 戦前の教育の問題ではありません。
 戦後の教育の問題であり、自分達の子供の問題なのです。

 反体制派、反権威派は、自分達が学生時代、自分達の師をつるし上げ、罵倒してきたのである。その彼等が何を今更、礼儀知らずというのか。

 もう何でもかんでも上に向かって
 反対というわけにはいかないのです。
 私達が、この国の将来をどうしたいのかを責任を持ってハッキリとさせていかなければならないのです。

 戦後生まれの我々は恵まれているのです。
 しかし、この環境をつくってきたのは、我々の親父達です。
 この事は、ハッキリと自覚しておかなければなりません。
 そして、この恵まれた環境を子供達に引き渡していくのが我々の責務なのです。

 自分達は、次の世代に対し責任を果たしてきたであろうか。
 我々の世代の多くは、学園紛争を経験し、世の中の矛盾に対して抗してきた。抗してきたつもりだ。しかし、自分達がやってきた事は、本当に正しかったのであろうか。

 反体制、反体制と叛逆することを正しいとし、ただ、ただ、反対、反対と体制に逆らい、抗ってきただけではないのか。

 私が当惑するのは、言論界や教育の現場がすっかり反体制派の巣窟となってしまっていることである。

 大体、反体制、反権威を標榜する連中が狡(ずる)いのは、自分の思想や立場を秘匿して、相手の弱点を攻撃することである。
 言論の自由が良い例である。相手の言論の自由を認めないで、自分達が攻撃されるといきなり言論の自由を持ち出す。挙げ句に弱者を擬態する。
 敵対する体制側の統制や規律を認めないで、自分達の統制や規律を重んじる。相手を無秩序にしておいて、自分達が実権を握るといきなり粛清をはじめる。踊らされるのは、いつも、事情を知らされてない者達である。
 子供手当の裏にあるのも彼等はとにかく家族を抹殺したいだけなのである。家庭を破壊したいだけなのである。いうなれば、配偶者控除やそれまでの家族に支給されていた子供手当を廃止して、直接子供にお金を手渡したいだけなのである。それによって家族の絆を断ち切り、全体主義的社会を作りたいだけなのである。
 家族から子供を切り離して国家が直接管理するような体制は、個人主義とはいわない。全体主義社会である。しかし、自分達は、反全体主義、反独裁を標榜し、家族のためだと喧伝する。
 その様な子供じみた欺瞞は辞めるべきなのである。

 自分は、全体主義者なのに、自由主義者をつかまえて全体主義的だと責め立て、誹謗する。
 独裁主義者の癖に民主主義者を装ったりする。偽善欺瞞のオンパレードである。
 言論の自由を自分達は楯に取りながら、言葉狩りという言論弾圧を平然と行う。
 忠誠心というのを頭から侮蔑しながら団結という忠誠心を強要する。

 我々、所謂、全共闘世代というのは、反省すべき時がきたと思う。我々の世代が、自分達の過ちを認めないまま、いい気になっていたら、この国を滅ぼしてしまう。

 反体制、反権威と叫んでみても、もういい歳なのである。責任ある立場に立たされているのである。いい加減自分達の過ちを認め悔い改めるべき時なのである。
 年をとればとるほど自分の過ちを認められなくなる。それまでの自分を総て否定されるようで、怖ろしくなるからである。
 若いうちは、やり直しがきくが、年をとるとやり直すことができないと思い込むからである。
 しかし、だからといって何時までも意地を張っているべきではない。あやまちは、あやまちとして潔く認めるべきなのである。
 さもなければ、次からくる世代を押し潰してしまう。子供や孫にどう責任をとるのか。 大切なのは、自分の面子ではない。この国をどう護るかである。

 反体制派の反論は、条件反射的な反論である場合が多い。さしたる根拠があるとは思えない。あるとすれば単に権力者は悪だからとか、誰かが反対しなければならないと言った類である。
 ここまでくると病的ですらある。

 意見と言えば反対意見だと思い。独創性とは、他人と違うことをやることだと教えられ、自分も思い込んでいる。
 否定的、批判的なことを知性的なことだと錯覚し、何でも疑ってかかれと懐疑的であることを強要する。しかし、根本に自分の考えがないから、ただ疑って、否定するだけで終わる。
 要するに、主体性がないのである。
 だから、物事に肯定的にも建設的にもなれない。世の中を斜めから見て、厭世的になるだけなのである。しかも無責任である。建設的で、肯定的であれば責任を持たずにすむと思い込んでいる。
 自分では、反骨精神だと気取ってはいるが、結局は自分がないだけなのである。

 彼等の主張は、賛成か、反対かだけでしかない。もっと極端に言えば反対だけである。それしか主張のしようがないのである。ひどい場合は、なぜ反対なのかと言う理由すら判然としない。とにかく反対だから反対。嫌いだから反対。解らないから反対なのである。

 後輩に逆らうことばかり、煽っていながら、自分に逆らうことは、許さない。自分は、反対ばかりしていながら、自分に反対でもしようものなら容赦しない。自分、常に正しくて、自分敵対する人間は、絶対に間違っている。
 それが高じると独裁者になる。かつて、自分が戦った相手と、何ら変わらない。自分の非を認められないのだから、尚、始末が悪い。

 国益に反することが国益なのだとか、道徳や倫理観を否定する事が真の道徳なのだ、或いは、皆と違うことをすることが素直なことなのだ、自分勝手な振る舞いが、道理にかなっていることだとか、規律に反することが社会正義なのだ、世の為人の為にならないことをすることが、世の中に尽くす事だと言った妙なパラドックスに囚われている。

 それが、反権力的独裁者、反権威主義的権威主義者、反体制的官僚、反道徳的倫理主義者、暴力的平和主義者と言った奇妙な連中を生み出すのである。

 こうなると反体制主義者というのは、体制に巣くって体制を弱らせ、最後は死に至らしめるばい菌、最近、寄生虫のような者である。むろん、多くの反体制主義者は革命家であることを自認しているから、なにをか況わんやである。反体制派にとって、叛逆は、動機や手段ではなく目的なのである。

 反体制の体制、反権威の権威なんて馬鹿げている。

 叛逆を唯一の目的として結集している反体制派は、反対することによって団結しているに過ぎない。だから、思想的にはゴッタ煮である。護憲論者もいれば改憲論者もいる。全体主義者や独裁者がいるかと思えば、無政府主義者や自由主義者がいる。民族主義者もいれば、共産主義の過激派もいる。ある種の宗教団体すら入り込んでいる。それは、現在の政治状況に反映されている。
 それが集団の中だけでなく、個人の中にも混在している。まったく煮ても焼いても食えない連中なのである。兎に角、統一とか規律が大嫌いなのに、無秩序や統制のない社会も厭なのである。しかも、その矛盾に無自覚である。結局何でもかんでも、和をもって尊しであり、建前は、平等に、平等にである。内心は、極端な階級主義者なのにである。他人の意志を尊重しなどと言いながら、結局、皆、自分だけが正しいと思い込んでいる。

 組織や規律を徹底的に否定し、破壊しつくすことに生き甲斐を見出す。問題なのは、道徳や規律、法や秩序、規則を守らせなければならない立場の者が、法や規律を守るどころか破壊しようとすることなのである。

 我々を豊かにするために犠牲になってきた人達を馬鹿にするのは辞めましょう。
 だから、国を愛すると言うだけで、右翼だと決め付けるのも辞めましょう。
 国を愛するというのは理屈ではありません。情です。
 親が子を慈しむような、子が親を敬うような、妻が夫を労(いたわ)るような、夫が妻を慈しみような自然な感情です。
 それがあって初めて国の改革や革命が主張できるのです。

 日本なんてどうなってもいいという人間が、日本をよくしたいなんて空々しい。

 最近のマスコミは、意図的に日米関係、日中関係、日韓関係を煽り立てているように見える。しかし、意図的に見えるが、その意図するところが見えてこない。即ち、単なる道徳的な意味で、過去を問題としているのか、日米を対立させるために騒ぎ立てているのかの意図が判然としない。 最終的には、個々人の道徳の問題に帰結する。
 不用意な報道、無責任な報道が、国際紛争の種になり、ひいては、戦争の火種になることもある。その時、言論界の人間は、それまでの自分達の言動に対してどの様な責任をとるつもりなのであろうか。その覚悟あって国際関係に亀裂を入れているのであろうか。

 反体制派は、言論の自由を体制に反対する権利と解釈している。そして、自分達にて期待する者の言論に対しては認めようとしない。体制を擁護することの言論の自由は認めない。好例が男女差別である。自分達以外の考えに対して反対する意見は全て差別として排斥する。

 国際陰謀論が根強くある。そこで登場する勢力は、大体決まっている。ユダヤや金融資本と言ったところが定番である。しかし、それを突き詰めてみれば、反体制論の一種に過ぎない。
 ユダヤとか、国際資本と言うが、問題は、何が悪いかである。突き詰めてみれば、何者かに支配されるのが嫌だと言うだけである。しかし、支配されることがなぜ悪い事かについては、何も明らかにしていない。支配されることで悪事に加担せざるを得なくなるとか、自由でなくなると言うのならば、何が悪で、何が不自由なことなのかを明らかにすべきなのである。
 かつて多くの帝国が世界を支配していた。世界帝国でなくとも、ほとんどの地域は、君主によって統治されてきたのである。君主が統治していない地域は、無法地帯であり、無政府的地域である。
 現在でもその様な地域がないわけではない。では、その様な地域が理想郷かというと逆である。暴虐が支配している地域である。つまり、悪党の天下である。
 重要なのは、支配されるか、否かではなく。自分達の基本的な権利が保障されているか、否かの問題なのである。

 陰謀論の多くは、自分の知らないところで、得体の知れない何者かによって自分の運命に関わるようなことが操作されているのではないか、自分だけが知らないのではないのかという妄想に過ぎない。陰謀を企む人間も全知全能な存在ではないことを忘れてはならない。第一、全知全能の能力を持つ者なら陰謀など企む必要はない。

 陰謀論を論ずるならば、国益に対して明らかにする必要がある。つまり、国家とは何かが重要なのである。
 誰でも、何等かの利益を追求している。それが個人の利益か、一族の利益か、会社の利益か、地域社会の利益か、国家の利益か、労働者の利益か、軍隊の利益か、民族の利益か、人種の利益か、雇い主の利益か、神の利益か、人類の利益かの違いである。ただいずれにしても何等かの利益を追求している。さもなければ、人間は、人間社会の中で生存していけないのである。
 人間は、それぞれの信念に基づいて利益を追求している。その葛藤を通じて人間社会は構成されているのである。人間はいずれの立場に立つのかを明らかにする責任がある。
 ならば、自分が誰のために、どの様な利益を追求しているかが、前提となるのである。つまり、自分は何を護るべきかが重要となるのである。
 陰謀とは、自分が護ろうとしている者に対しての陰謀である。護るべきものがない人間に陰謀もへったくりもない。そして、それがどの様な害を護るべき者に対して与えるかが、問題なのである。無害な行為に対して取り立てて騒ぎ立てることかえって問題を拗らせるだけである。

 それが反体制派の問題点である。ただ何でも悪いものは悪い式に根拠もないままに反対するのは、反体制派の悪癖である。反対するならば、何がどう悪いかを明らかにすべきなのである。

 反体制派は、反倫理主義に通じる。陰謀は、悪いが、倫理観や道徳に反する行為は正しいとわけの解らないことを言い出す。性風俗の乱れは、社会にとって明らかに有害である。しかし、道徳や体制に反すると言う事で反体制派は、極めて肝要である。彼等の多くは、暴力に対しても肝要である。
 つまり、規律や規則に対して反対しているのである。その方が余程、国家や社会に対して作為、陰謀を感じる。要するに、彼等は、陰謀論を良いながら、反社会的勢力、反国家適正力に踊らされているだけなのである。

 権益を守ろうとすることを一概に悪と決め付けるのは間違いである。権益を否定する者は、一方の対極にある権益を守ろうとすることと等しいのである。日本の権益を固定する者は、日本と敵対する者の権益を擁護していることになるのである。
 問題なのは、誰の権益護ろうとしているかの問題であって、肯定しようと、否定しようと先ず自分が誰の権益を守ろうとしているのかを明らかにすることなのである。
 日本の権益を否定する者は、結局、日本と敵対している者の権益を守ろうとしているのに過ぎないのである。自分達が何から何を護ろうとしているのか、それを自覚しないで反対することは、まったくもって無責任としか言いようがない。

 反体制を気取ってみても、責任ある立場に立たせられるという事は、必然的に、体制側に立たされることを意味するのである。

 主体性もないままに体制側に立っているのである。いつまでも無責任な間々なのである。被害者意識の塊なのである。自分が加害者の側に廻っていることに無自覚なだけなのである。

 反体制、反権威、反権力というのは、戦後の日本を席巻した確固たる思想である。戦後だけでなく、現代にもその影響力は失われていない。むしろ、社会の根源的なところ、文化や価値観において潜在的に働いている。
 しかし、反体制、反権威、反権力という思想の持ち主は、無自覚である場合が多い。何せ、思想そのものを権威主義として認めない場合が多いからである。
 反体制、反権威、反権力が高じると反倫理、反社会的な思想へと発展していく。そして、反体制、反権力、反権威は、その性格からして無政府主義に連なる。それも革命的無政府主義にである。

 敗戦という混乱した状況の中で反体制、反権威、反権力思想は、知識人階級や言論界に深く根を伸ばした。そして、戦後、退廃主義、虚無主義的に覆われた環境によって人々の心の奥底に浸透していったのである。

 誰も守ろうとしない国や会社、家族は、守りようがないと言う事である。親父達は、それこそ死にものぐるいで守ろうとしてきた。だから、国も、会社も、家族も、今まで保てきたのです。

 では、今なぜ、家族の崩壊が現実のものとなってきたのでしょうか。

 一般兵士達の気持ちを置き忘れている。まるで一般兵士達は何の意志もなく、ただ、上から言われたことに従って犬死にしていったように言う。それは間違いである。
 それこそ名もなき兵士達にも心はある。

 自分達だけが戦争に反対してきたと行っているようなものである。

 驕る者久しからず。勝って兜の緒を締めろ、治にいて乱を忘れずと我々の祖先は自分達を戒めてきた。現代の日本人は、戦争に負けたというのに、驕りたかぶり。
 いい加減自分達のあやまちを認めるべき時に来たのである。
 今日の日本の繁栄は、偶然がもたらしたわけではない。大東亜戦争で犠牲になった多くの人々のお陰と戦争を生きのび戦後の復興に尽力した人々の力があたからこそ今日の繁栄はあるのである。
 繁栄を享受する我々が、今日の繁栄をもたらした人々を侮辱することは許されない。


俺達の国は、皆にとって護るべき価値があるか。
命を掛けるの値するか。
そう自分に問うてみよう。

護るべき価値をつくり出すのは、皆なのだから・・・。
命を掛けるのに値する様な会社にするのは、皆なのだから・・・。

俺達は、魂を失ってきた。

キリスト教徒でもないのに、クリスマスを祝い。
日本人なのに、神前で祈ることを忘れた。

つまり、魂の抜け殻なんだ。
日本人魂がなくなったんだ。
腑抜けなんだよ。

照れ笑いして、楽しければいい。
深刻に考えるなよ。

なぜ真剣に生きてはいけないんだ。

自分の人生は生きるに値するか。
値しない人生なんてないさ。

一生懸命誰だって生きてきたんだ。

子供が産まれたといっては、感激し、
仕事がうまくいった時は、
心から喜んで
一日一日、意味のない人生に、
自分達の生き甲斐を見つけてきたんだ。

それを嘲笑わば笑え。
俺達の人生は、俺達で創るんだ。
ちっぽけでも、俺達の会社だ。
俺達の国だ。
俺の人生だ。

そうじゃないかい。

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