社会勉強


 社会に出て、役に立たない事や必要でないことしか学校では教えない。だから、役に立たない人間や必要でない人間を増やすのだ。大体、社会に出てから役に立たない、必要でない事だと教える側が広言している。だから、子供達に、否定しようがない。それに、いかんせん、教える者が社会経験がない。さらに、学校というのは、社会から隔離され、乖離された特殊な世界だときている。是では、社会常識や良識を育てようがない。少なくとも、一定年限、社会経験のある者を教育者にすべきなのである。

 猫も杓子も大学へ行くと言うこと自体おかしい。大体、義務教育が中学までと言うのも意味のないことではない。昔は、十五歳で元服をした。十五にもなれば、自分の意志で自分の将来を選べるのである。大学は、勉強に行くところである。義務教育が終了したら、自分の意志で、勉強を続けるか、それとも就職するかを決めなければならない。勉強が嫌いな者が、大学へ行く必要はない。自分の意志で何も決められない者が、惰性で勉強しているに過ぎない。結局、多くの者が、無目的に大学へ行くことになる。

 板場修業というのは、最初は、包丁を研ぎ、料理の準備をし、後片付けである。下働きを何年もさせられる。それは、準備や後始末、段取りの仕方を身を以て覚えるためである。しかし、今は、何でもマニュアルである。包丁を握ったことのない者でも包丁を使わないで、一人前の料理ができるようになった。しかし、そこに落とし穴がある。

 コンピュターの発達や電子機器の発達は、仕事の効率を上げているように見える。しかし、反面、仕事をやりにくくしているところがあるのを見落としてはならない。コンピュター化すると言う事は、過程がブラックボックス化することにもなる。しかし、肝心な事は過程にある。コンピュータ化してしまうと、その過程が脱落してしまうのである。

 現代の旅行は、集合場所に集まるだけである。後は、何でも、旅行者がやってくれる。だから、旅行の楽しみは、半減する。つまり、計画を立てたり、準備する楽しみがない。しかし、旅行の構想や計画を立てることは、旅行そのものの楽しみを倍加させる。現代人は、本当の旅行の楽しみ方を忘れつつある。
 めんどくさい仕事はつまらないのではなく。めんどくさい仕事にこそ楽しみが隠されている。

 社会勉強の基礎は、経験である。
 かわいい子には、旅をさせろ。旅をしながら見聞を広めるのである。旅が、子供達の成長に良い影響を与えるのは、子供達の置かれている環境を変えることである。百聞は一見に如かず。つまり、経験こそが最も教育的であることを我々の父祖は知っていたのである。
 教育に関する格言は、伝統的な教育に対する思想であり、その国の文化に基づいている。そして、その教育の在り方に対する基本思想は、一貫して経験である。
 水泳を教えるのに突き落とす。水泳は、本で覚えるものではない。水の中で実際に泳ぎながら学ぶものである。獅子は、千尋の谷に我が子を突き落とす。一見乱暴に思える教育方法だが、そこには、経験と技術、強い責任に裏打ちされた自信、そして、信頼関係がなければ成立しない。しかし、教育とは、本来、緊張感の中でするものである。
 この様な教育が否定されている。出来なくなっている。それは、教育の現場から、経験主義的な発想が排除されてきたからに他ならない。また、教える者と教わる者、そして、教育を委ねる者との間に強い信頼感が失われたからである。

 毎日継続し、連続している仕事の方が、効率的だけど断片的な仕事よりも組み立てるのは楽である。つまり、毎日継続している仕事の方が、他の仕事と関連づけたり、結びつけたりしやすいからである。
 経理事務の事務員の方が、下手な大学を出た大学生よりも経理事務に詳しい事を我々は知っている。それは、日常的に反復される単純作業が、知識の詰め込み教育より、ずっと教育的であることを証明している。
 社会教育の根本は、徒弟制度である。つまり、実務的な経験による教育である。役に立たない、必要性のないことを教える事が教育だと錯覚している。学校教育よりもずっと効果的であるのは、実際の社会では、自明なことである。その証拠に学校教育型の教育は、学校を卒業すると影を潜(ひそ)めてしまう。特殊な例を除いて役に立たないのである。

 仕事を覚えるためには、一連の作業の流れを覚える必要がある。作業には、前後の順序があり、周囲との連携が必要だからである。断片的な知識ではなく、一貫した過程、仕事の全体像をつかませる教育が社会では望ましいのである。理屈や言葉ではなく。一つの形、姿勢、現実の日常生活の中で培われた生活の知恵である。
 職場教育は、基本的にOJT、現場教育である。学校教育にこの現場がない。

 NHKの課外授業や子供ニュースのようなOBや社会経験者による指導は、子供達が社会を出るにあたって新鮮な刺激を与えてくれる。子供達が求めているのは、相談相手である。何でもかんでも頭ごなしに決め付ける独裁者ではない。社会経験を積んだ者だから、自由な発想ができる。教えている内容が、人生経験に裏打ちされ、社会の中で実証されているからである。
 
 テレビ番組の一つに「はじめてのお使い」と言うのがある。子供のはじめてのお使いをドキュメント化した番組である。しかし、これこそが真の教育の在り方を示している。子供の成長を周囲の大人が温かく見守り、その地域住民全員が参加して育む、それが社会教育の原点である。

 社会教育というのは、学校や家庭の外で学ぶことである。つまり、教育の場は、実際の社会そのものである。隔離されたり、作られた場ではない。現実の場である。そこに意義がある。同時に、社会全体が教育に対するコンセンサスを持っている必要がある。この教育に対する社会のコンセンサスこそが、社会を維持し、発展させるのである。文化そのものなのである。そして、このコンセンサスがかつては、何処の社会にもあったのである。また、社会教育を通じて作られてきたのである。この相互作用によって文化は、醸成されてきた。しかし、この社会的なコンセンサスが、今、社会から失われようとしている。そして、それと伴に、社会の自主性や秩序、自警がなくなりつつあるのである。いろいろの市民の文化センター、オペラハウスや公会堂は、社会教育に対する地域住民のコンセンサスによって形成されてきたのである。ところが、社会から教育機能が学校へ移されるに従って急速に、関心が薄れ、商業主義や行政の都合に取って代わられたのである。その結果財政の破綻である。どの様な社会にするのか、そのビジョンが失われたからである。どの様な社会にするのか、それは、地域住民が、どの様に自分達の子弟を教育するか、その為にどの様な環境を作るべきなのかに依存している。それがなければ、ビジョンなき開発になるのである。社会教育こそ、都市計画の根幹なのである。

 学校教育が悪いとは言わない。ただ、教育のすべてであるかのごとき錯覚があることと、学校が社会から孤立し、、乖離している上、閉鎖的であることが問題なのだ。そして、子供達にとって、学校という世界が、一時的であれ、すべてになってしまうことを、危惧するのである。
 学校教育というのは、教育の一部にすぎない。

 社会経験のない者が、社会経験のない者を教えても社会常識は身に付かない。そこへ来て、戦後の教育は、反体制的、反社会的なものに傾倒したきらいがある。これでは、社会から遊離するのは当たり前である。その結果、社会に対する不適合者、即ち、ニートや引き籠もりが激増するのは、当然過ぎると帰結と言っても過言ではないのである。

 古来、宗教や哲学の多くが、仕える者の哲学である。
 神や社会、人に仕えるのは、美徳なのである。世のため人のために働き、尽くすことこそ、人間本来のあり方である。それは、自分のためにもなるのです。自分が自分以外の何者かに仕えるという考え方ができなくなれば、自分の存在意義すら危うくなる。その危うさが、現代人の蹉跌(さてつ)を招いている。今では、世の為、人の為というのは、死語になってしまった。

 成功とは何か。それは、金持ちになることばかりではあるまい。人間としていかに充実した人生を送るかの方が余程重要である。その本質は生き方にある。だから、教育の目的は、生き方にあるのである。
 教育者は、社会経験・人生経験を積んだ者の方がいい。なぜならば、経験の多さほど教える事の豊富さに繋がるからである。そして、教育の本質が、教える事柄、即ち、教科や教材ではなく。教育の目的そのものにあり、その教育の目的は、人としての生き方にあるからである。だからこそ、人生の達人が教育に当たるのが至当(しとう)なのである。




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