責任感


 役に立たないこと、必要のないことを教え続けるから、役に立たない人間、必要のない人間が増えるのである。
 世の為、人の為という言葉がある。その根源は、自分である。人の為と言うけれど、自分がなければ、人の為には働けない。確固とした強い自分に対する確信があってはじめて、人の為に働ける。それが責任である。この世の為、人の為という言葉は死語になりつつある。自分のためにという事がこれに取って代わる様になってきた。しかし、これほど自分を馬鹿にした言葉はない。自分のためにと言うのは、確たる自分のない者が言うことである。なぜなら、自分が自分にできることなどたかが知れているからである。第一、それは、自己満足、例えは悪いかも知れないが、マスターベーションみたいなものである。

 ところが我々は、世の為、人の為などというととんでもないと教えられた。それも、学校でである。彼等は、なんて封建的で、軍国主義的だというのである。もっと、即物的に、なんて古めかしい、迷信だという事すらある。又は、きれい事よと。この場合は、きれい事も一緒に否定してしまう。更に差別的で、自由に反する、また、非民主的だと、根拠も示さないまま、蔑(さげす)んでみせる。これは、典型的洗脳である。つまり、言葉を言葉の持つ意味と切り離し、直接的に嫌悪や侮蔑と言ったマイナスの感情に結びつける。それによって生理的にその言葉の背後にある概念を受け付けないように仕向ける。それが洗脳である。そして、世の為、人の為には、封建主義や、全体主義、国家主義、軍国主義、民族主義、独裁主義に結びつけられて、生理的に受け付けないようにした。その中には、修身や道徳もある。

 子供が一生懸命勉強をするのは、親を喜ばせたい為である。女性が、化粧をするのは、好きな人の為である。人の為に尽くす。人に仕えることは、隷属ではない。喜びなのである。中でも、神や国に仕える事は至高な喜びである。
 子供は、親を喜ばせるために夢中になる。親は、子供の笑い顔が見たくて一生懸命働くのである。子の為、親の為に働くのは、義務や犠牲ではない、喜びなのである。自分の為なのである。
 一生懸命、親のために尽くしたのに、何も親は感じない。喜んでもくれない。それこそ最もひどい仕打ちである。私達のことはどうでもいいから、と言われるのが、子供にとってどれを辛いことか。だから、子供達は、心を塞(ふさ)ぎ、引き籠もるのである。それは、親のために犠牲になるのではない、喜びなのである。国のために働くのは、犠牲になることではない。生かされることなのである。

 現実は、厳しい。自分の限界や社会の無理解に打ちのめされ、失敗に、挫けそうになることはいくらでもある。しかし、そこで挫折してしまったらおしまいである。困難を克服してこそ、成功はやってくるのである。
 困難な事や限界に耐えられるのは、世の中や人の為に働いているという自覚があるからである。自分の為に、と思っているかぎり限界は訪れる。家族のために、愛する者のために、国のために、神の栄光ために働いていると思うから苦難や迫害に耐えられるのである。そして、それが日本人の美徳だった。日本人の敵が怖れたことなのである。

 責任の伴わない事は、自分の為にはならないのである。責任が伴うからこそ自分の為になるのである。なぜならば、責任は、自分と他者との間に生じるものであり、自分と他者の間に、何らかの関係が生じ、何らかの行動が伴えば、そこに責任が生じるからである。つまり、世の為、人の為に、働くから、自分の存在価値が、世の中や他人に生じ、それが翻って自分の為になるのである。自分の為にのみ働く者は、結局、自分以外の者から何ものも得ることはできない。価値そのものが、自分と他者との間に生まれるものなのだからである。他者がなければ価値すらない。
 人の役に立ってこそ、必要とされてこそ生き甲斐がある。人の役に立って、世の中に必要とされてはじめて自分の価値が生じる。
 それは、自分にとって役に立つこと、必要な事である。だから、学問は、本来、役に立つこと、必要な事を学ぶ事なのである。自分に役に立つこと必要な事を学ぶ、それが勉強なのである。そのことを学校では教えてこなかった。教えないどころか、役に立つこと、必要な事と勉強とを切り離してしまった。だから、役に立たない、必要のない人間を育ててしまうことになった。学校は、そのことに対して何の責任もとろうとしていない。やっぱり、政府や家庭にその責任を押し付けようとしている。

 自分がやりたい事をするのはいい。自分が言いたいことを言うことも良い。しかし、自分がやったこと、自分が言ったことには必ず責任が伴うのだと言う事を自覚した上においてである。そして、その事を物心がついた時からちゃんと教えなければならない。それが教育なのである。

 十五階から子供を投げおとして殺した男がいる。彼は、殺したいから殺したと供述をした。

 犯人は、子供を投げ殺した瞬間に、親としての責任、男としての責任、夫としての責任、子供としての責任を投げ捨ててしまった。それは、異常者だとか、鬱病だったとか、いろいろな見方はある。しかし、根本に責任感の欠如と自己の喪失があることには、間違いない。だから、衝動的で短絡的になるのである。自己喪失が鬱の原因であり、異常な行動の原因である。異常者の責任に帰すことは容易い。自分のモラルの問題はとりあえず避けて通れるからである。しかし、人間の行動は、行動規範に支配されている。その行動規範が信じられなくなったら、人間の社会は成り立たない。一人一人の人間の責任問題を忘れて、病気の性にしたら、人間の社会は成り立たなくなる。異常と言えば、全てが異常なのである。

 戦後、権利や義務、権限ついて教えてきたが、責任については教えてはこなかった。しかし、権利も義務も権限も責任があって成り立つ概念である。責任がないところに、権利も義務も権限も成り立たない。

 責任感が、自分の存在の根源にある。責任感を喪失したら、自分の存在意義すらあやふやになる。責任感こそが倫理観の源である。その倫理観がなくなれば、条件反射的な行動、衝動的な判断に支配され、自分の行動を制御できなくなる。

 責任は、私という主語の根源だからである。
 世の中が悪い、社会が悪い、時代が悪い、学校が悪い、親が悪いと他人の性にする。唯一、自分が悪いとだけは言わない。
 自己に根ざしていないから、奥深いところから自分の行動を抑制したり、制御する事ができない。自分を抑制したり、自制したり、制御するのは、責任感だからである。責任感を喪失すれば、短絡的で衝動的な行動に走るのは、必然的帰結である。

 自分の言動には、必ず責任がついて廻る。自分の言動に責任が持てなくなったら、本質的な問題は処理できなくなる。だからこそ、人間は、自分の言動に責任をもつのである。責任をもたされるのである。

 ところが、自分達の仕事の結果に対して責任を負わない職業がある。その第一が役人である。その第二が、メディアに携わる人間である。第三が、教育者である。教育者は、自分が教えた事による影響に対して責任を負っていない。自分の教え子が犯罪を犯しても自分に責任があるとは思わない。

 教育者の中には、責任をもたない理由として、戦前教育をあげる者がいる。しかし、それは、言い訳にもならない。他人が、間違ったからとか、無責任だったから、自分も無責任で良いという理由にはならない。ただ、無責任であることを是認しているに過ぎない。要するに、自分の仕事に責任が持てないと言っているだけである。
 自分が教えたことに、また、結果に責任が持てないのならば教育者などになるべきではない。

 自分の仕事に責任をもたない者が、責任感を教える事などできるはずがない。

 不登校、ニートや引き籠もりの何処が悪いというのだろう。考えてみれば、エジソンも学校へは、行っていないわけだし、私の父は、小学校しか出ていない。我々の若い頃は、中卒、高卒はいくらでもいた。不登校、即、ニート、引き籠もりと言うわけではない。
 学校に行かなくなったら、引き籠もるか、ニートになるしかないという事が問題なのである。学校に行かなくても社会人としてやっていけるのならば、それはそれでいい。学校が全てではないはずである。ところが、引き籠もりやニートが問題になるのは、実際は、彼等の大半が学校生活が全てになってしまったいることであり、学校から離れたら生活できないことにある。ニートや引き籠もりの問題点は、学校が全てだと錯覚させていることにある。
 そして、自分が、世の為、人の為に役に立つ人間、必要とされる人間になろうという意志を持たせることにこそ教育者の使命がある。

 学校がなくても自分が生きていける様にすることが、社会や人間関係の中に価値を生み出すことができるようにするのが、学校本来の使命である。

 学校がすべき事は、自分の価値を社会や人の中に作り出し、生み出す事を教える事である。

 そして、それは、自分が、自分に対し責任をもつことを教える事なのである。




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