共鳴・共感


 釈迦に説法と言うけれど、今の学校の先生は、釈迦であろうとキリストであろうと平気で説法をするだろう。学校の中では、自分が一番偉いと思っているし、注意したり、窘める人もいない。何せ、自分の子供を質にとられているものなのであるのだから・・・。それは、生徒に限った事はない。保護者に対しても先生は先生である。また、先生としての立場を変えようとしない。相手がどんなに高名な教育学者であろうと、人格者であろうと、そんなことはお構いなしである。先生は先生なのであり、父兄は父兄なのである。相手を建てるとしたら、それは、同業者の先輩ぐらいである。
 今の学校の先生は、学校で教えていること、教科書に書かれていることが絶対的に正しいと思い込んでいるから、学校の先生は、アインシュタインに物理学を教えかねないのだ。しかも、試験をして採点までしそうである。そうしないと自分の権威、立場が保たれないからである。ついでに言えばきっと今の試験を受けてもアインシュタインは、百点を取れるかどうか怪しい。なぜならば、試験問題そのものが怪しいからである。学校の常識や学校で教え居ることは、世間や学会の新しい学説から乖離しているからである。
 相手の考えや人格を認めてしまうと、自分が負けてしまうと信じている。だから、相手の言い分も自覚も一切認めない。相手は自分以下の人間だと決めてかかっている。
 
 しかし、教育というものは、共鳴・共感が下地でなければならない。お互いに共鳴共感したところから教育は始まる。それが師弟関係である。相手を認めるから師となり、また、弟子となるのである。それは、自分の考え方や生き方の延長線上に学問があるからである。尊敬もできない人の教えなど誰も聞きはしない。相手を心から尊敬し、受け容れるから相手の教えに素直に従うのである。軽蔑する相手から、学べるものではない。
 だから、共鳴共感がなければ教育は成り立たないのである。

 人生意気に感じるである。

 そして、その根本は、自分である。自分の生き方に対する信念や考えがあるからこそ、相手に共鳴共感ができる。自分がなければ、相手に共鳴も共感もできない。だから、自分の生き様や考えが大切なのである。

 ところが、何を勘違いしたのか、自分の考えを持つという事は、他人と違う考えを持つことだと学校で言いだした。それは、根本的に他人との共鳴共感を否定する事に繋がる。
 所詮、この世を成り立たせているのは、人間関係である。根本は、人を信じ、愛し、助け合うことであり、その本質は共鳴共感である。それを他人の違う考えをすることが自分の考えを持つことだと教えたから、教えられたから堪らない。結局相手の言うことを認められなくなり、逆らったり、反攻したり、口答えをすることばかりを覚えてしまった。人を信じ合い、愛し合い、助け合うことができなければ、人の社会はまとまらない。家族も、学校も、会社も、社会も、国家も自分勝手にてんでんバラバラに行動したら、バラバラになってしまう。人と違うことを考え、人と違うことばかりをしていたら、人との相違点ばかりを強調して、背き合うばかりである。大切なのは、共鳴共感であり、素直で順な心である。

 今の、学校の先生は、教える事は、教わったが、教わる事は教わっていないのである。
 だから、学校の先生は、人から物事を教わるのが下手である。
 しかし、考えてみれば、人に物事を教えるためには、絶え間なく学び続ける必要がある。
 自分よりも優秀な人間を求めて、教わる事が、人へ教えるための大前提となる。
 日進月歩の今日では、新鮮な知識を学ぶ事ができなければ、後から来たものにすぐに追い抜かれてしまう。
 そう子供達だって成長しているのである。

 常に、先生であらねばならないことは辛いことである。それもあらゆる面で優位に立とうとしたら、自ずと限界がある。
 子供でも、小学校高学年にまでなると先生に負けない能力を発揮する子が出始める。
 生徒や弟子に負けてはいけないと頑張ると、教えるどころではなくなる。
 大体子供達は、成長過程にあり、先生の方は衰退過程にあるのであるから、勝負は最初からついているのである。
 教育の目的は、生徒に勝つことでも、優位に立つことでもない。
 スポーツのコーチが常に、弟子よりも優秀である必要はない。一度も優勝したことのないゴルフプレーヤーでも、優秀なトレーナーコーチにはなれる。
 師匠は弟子に、先生は生徒に常に勝ち続ける必要があるというのは、馬鹿げた妄想である。
 教育の目的は、生きていく上で最低限必要な知識、常識と技能を身につけさせることと、そのこの中にある潜在的な才能を引き出し伸ばすことにある。
 その意味では、社会人として最低限の知識と技能を身につけていればいいのである。後は、子供達をよく観察し、その子の良いところを見極める目、つまりは、人を見る目を養えばいいのである。

 我々は、個性や独創性という事を尊べと教えられた。それは間違いではない。しかし、その後に、人と同じ事をやっていても仕方がない。人と違うことをやれ。それが個性であり、独創性だと教えられた。これは、重大な錯誤である。
 個性なんて、皆と同じ事をやらせれば、すぐに出る。皆が、同じ事を同じようにできないから個性なのである。同じ制服を着れば、一人一人の個性が際立つ。それが個性である。てんでんバラバラに違う服を着れば、趣味の違いは解ってもその人の持つ肉体的特徴は解らなくなる。要するに、人と違う格好や行動をすることが個性や独創性などというのは、大きな間違いなのである。
 この間違った教育は、社会へ出ると重大な障害になる。
 仕事を任せられたり、責任を与えられると、とたんに人と違ったことをしようとする。指図された事や指示されたことと違う事をやることが、自分の個性や独自性を出すことと勘違いをする。
 その為に、組織が立ちいかなくなるのである。
 自分の考え、自分の意志を持って行動せよというのは、上司や組織と違う考えで行動しろと言う意味ではない。
 重要なことは、共鳴共感である。上司や仲間と共鳴共感する素直な気持ちがなければ、組織の一員として、また、社会人として行動することはできない。
 結局、周囲の人間と上手くつきあえなくて、孤立してしまうのである。




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