教育と育児(お袋)


 お袋とは、母親に対する愛称である。そのお袋という言葉が失われつつある。かつて日本の軍人が死に臨んで、お母さんと叫ぶことが多いとされた。欧米人は、妻や恋人の名を叫ぶという。これは、日本人の精神性を示していると思われる。

 今の育児の問題は、子供の問題と言うより、母親の問題なのかも知れない。密室、閉鎖的空間に母子が孤立して存在している。それが問題なのである。相談相手もなく。母親達は自信をなくしている。

 その上、社会やメディアは、専業主婦に罵詈雑言を浴びせている。女性も子育てを止め、仕事をすべきだと。それで少子化対策もないものだ。

 全ての始まりは、幼児教育にある。

 教育は、哲学である。それぞれの親の教育方針というのは、それぞれの家庭の思想である。躾は、その家庭の思想に基づいて為される。
 我々は、思想や哲学というのを難しく考えるが、本来の哲学や思想というのは、人それぞれの行動規範の本を指して言う。故に、人の数だけ哲学や思想はある。それを端的に現しているのが、恋愛観や育児方針である。
 子供の喧嘩をどう考えるか、どう裁くは、高度に思想的、哲学的問題である。だから、親にとっては、簡単に妥協できない、譲ることのできない、納得できない問題なのである。それを現場の教師は、いとも簡単に決めつけている。そして、それを思想と切り離して論じている。親や周囲の人間と相談したり、話し合ったり、議論するのでもなく、あたかも、普遍的真理のように決めつけている。それで親から文句がでると恐慌状態に陥る。
 何でもかんでも、暴力は、ダメと言う事をかって決めつけて喧嘩を頭から否定し抑え込もうとする非暴力主義も、あらゆる競争を否定し、手をつないで競争までさせる平等主義も、それは、明白な哲学であり、思想である。その自覚なくして、教育すべき事ではない。
 我々は、簡単に謝ったり、また、喧嘩をした時、理非の差別なく、泣かせた者が悪いと言った躾を受けた覚えはない。逆に、男は、泣いたら負けだと躾られてきた。また、弱い者虐めや卑怯な態度はしてはならないと教えられた。しかし、今は、それが通じないらしい。男らしくと言う言葉自体が差別用語だと否定されている。
 男らしく育てたいというのが、男女差別に繋がると決めつけるのは、勝手だが、だからといって、その家庭の教育方針にまで嘴(くちばし)を入れたり、強要するのは、全体主義的、独裁主義的に行為であることを自覚しているのであろうか。それは、男女差別を人権の問題というならば、男女差別よりも人権侵害な行為である。更に、特定の言葉の使用を禁じることは、表現の自由を犯している。
 アンチテーゼをテーゼにしてしまっているから、結局、反対のしようがないのである。これ程の独善はない。男と女の差を認識するから、いかにして平等にしようかという議論が成り立つ。最初から差がないと言われれば、議論が成り立たない。問題を認識するから問題を検討することが可能なのであって、最初から問題がなかったことにされたら、議論なんて最初から成立しない。
 それは、臭い物には蓋をしよう式の考えであり、病気は、嫌だから病気はないことにしよう式の発想である。男女の差をなかった事にしても、平等は実現しないし、また、問題も解決されない。

 子育てと学校教育を同じものだと錯覚している。しかし、子育てと学校教育とは違う。子育てというのは、全人格的なものである。それに対し、学校教育は微々たるものだ。その微々たるもので全人格的な子育てを律しようとしている。

 母親の考え方、思想を無視しては、教育は成り立たない。それなのに、現代間教育の現場では、母親の思想が無視されている。と言うよりも、はじめから否定的である。馬鹿にしている。為に、母親のイライラは募る。学校は、子供の将来に対して最後まで責任を負っているわけではない。
 結局、子供の人生に対して最後まで責任を負うのは、母親である場合が多い。現代社会は、母親一人にのしかかる責任の重さを軽視しすぎている。父親ですら、子育てから逃げている。周囲の人間は、良いところばかり見て、子育ての現実から目をそむけている。母親は、孤立し、その影響を子供達が受けているのである。

 育児には、強い意志が必要である。人生設計もないままに子供を産むのは、育児以前の問題だ。出産というのは、快楽の結果ではない。生きることそのものであり。人生を決することなのである。

 母親としての誇り、父親としての誇りが育児を支えている。この誇りの源は、愛である。
 母親や父親は、母親や父親になるのである。子供を産んだからといって母親になれるわけではない。母親には、自分の意志で成るのである。
 だからこそ、夫も妻も自分の意志でなるのである。そこに結婚の意味がある。厳粛さがある。

 かつての父親は、怖かったという人が多くいる。まあ、それも少数派に成りつつあるが。戦後父親は、怖くなくなってきた。と言うよりも、旧家族制度が否定されてから、父親は、家長としての地位を追われた。それから、母親は子供に厳しく、父親は、甘いという構図が出来上がってきた。そして、訳知り顔の者は、それが、あたかも自然で、有史以来の家族の形のように言う。
 しかし、かつては、厳父の方が普通だった。厳父と言っても幼児虐待をするような父親ではない。父親が厳しい躾を担当してきたという事であり、それは、父親が教育を担当してきた証左である。父親が憎まれ役を演じ、母親が優しく包み込む、そう言う役割分担がされてきた。

 過去を否定する過程で何もかも全てを否定してしまう悪い癖が現代人にはある。古いという一言で済ませてしまう。特に戦後その傾向が酷い。

 それは、家庭の否定にも繋がる。
 現代人は、共同で、一緒に守るべき物を喪失・見失っている。突き詰めてみるとそれは自分達の幸せである。つまり、なにがし合わせなのかを見失ってしまっているのである。父親にも、母親にも家庭を護ろうとする意志がない。守ろうとするのは、ただ自分の我である。昔の人間は、自分の我が不幸の源だと信じていた。特に、母親は、子供を必死に守ってきた。子供を守ることが自分の幸せだと信じてきた。だから、子供達は、お袋と死ぬときに叫んだのである。母(かあ)さんと親しみを込めて言ったのである。今は、子供のことより、自分の我や欲の方が強い。子供とペット区別もつかない親が多い。

 だから、家庭が崩壊する。崩壊したところで、自分の幸せとは何かを考えたところでもう遅い。遅いから、後追いの理屈を付けて、自分を正当化する。メディアは、彼等に同調した方が商売になるから、彼等に同調する。こうして、子供達にとって一番大切な物が失われてしまった。後に残されたのは、家族の残骸である。



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