燃え尽き症候群

 燃え尽き症候群というのが社会問題になったことがある。燃え尽き症候群というのは、特定の事柄に没頭している内に、例えば、恋愛や勉強、仕事に過度にのめり込んでしまうことで、生きる気力を使い果たしてしまい。それが完成した後に虚脱感や無気力になったり、鬱状態に陥ることである。中でも、受験勉強後の燃え尽き症候群が深刻である。

 受験勉強で燃え尽きてしまう。そのうえ、受験勉強と、大学での勉強との間にギャップ、隔たりがある。受験勉強が終わると、目的や、行き場所を喪失する。何をして良いのか解らなくなる。

 しかも、受験勉強後に、受験勉強で学んだ事が、絶対ではないことを思い知らされる。大学の勉強や社会へ出てからの仕事に役に立たない事に気が尽かされる。
 恋愛や仕事で燃え尽きたとしても後につなげることは可能である。しかし、受験勉強が苛烈であればあるほど、後がない。それが、受験勉強による燃え尽き症候群を深刻にしているのである。

 受験勉強の延長線上に大学が在るわけではない。また、義務教育の延長線上に受験勉強があるわけでもない。受験で勉強したことが、大学でも、社会でも役に立たないとなると、受験勉強は、受験勉強そのものを自己目的化せざるを得ない。そうなる受験勉強に全勢力を費やすとそれだけで燃え尽きてしまう。後は、燃えかすのような知識しか残らない。

 ただ、志望する大学に合格するだけのために、全精力を傾ける。だから、合否に関わらず受験が終了すると燃え尽きてしまう。燃え尽きた後は、抜け殻のようになって新たな目的・目標を見いだせなくなる。燃え尽きてしまって新しいことを始めるためのエネルギーもなくなる。

 芸術大学に入学できて、絵を描く技術は教わる事はできるが、何を描いて良いかが解らない。それは、芸術大学にはいることが目的であり、自分が表現したいものが二の次だからである。しかし、芸術大学に入ってしまうとかえって芸術の本質が解らなくなる。

 若い頃に何者かに打ち込んで、無我夢中に没頭することは良い事である。また、必要でもある。しかし、それが受験勉強となると別だ。例えば、野球やサッカーに夢中になると言うのとは違う。野球やサッカーに夢中になれば心身を鍛え、社会に出たときに何らかの役に立つ。うまくすれば、職業にすることもできる。しかし、受験勉強は、そうはいかない。受験勉強に熱中したとしても得るところは少ない。英語の点数が良くても、大学に入れば忘れてしまう。英語で本を読めるようになるわけでも英会話ができるようになるわけでもない。受験英語は、受験英語である。それ自体で完結している。それが問題なのである。

 若い時に何もかも忘れて没頭するのは、心身共に充実させ、次の、段階、成長に進むためにである。伸び盛りの時、伸びるだけか伸ばし、開花の時に備えるためである。いくら成長を促しても次に繋がらなければ、次がなければ話にならない。燃え尽きさせては意味がないのである。

 確かに、打ち込むものもなく、熱中できるものもないまま、人生で最も伸び盛りの時期を無為に過ごすのば、悔いが残る。しかし、だからといって無意味に精力を使い果たすのも馬鹿げている。

 若い頃の不完全燃焼も問題であるが、燃え尽きてしまうのも問題である。今の受験勉強は、目的が不明瞭な分、不完全燃焼に終わらせるか、燃え尽きさせてしまうかのいずれかである。

 高校球児が、青春の全てをかけて野球に打ち込んでも、それは、未来へと何らかの形で繋がっている。そのような形で燃焼させる事こそ、真の教育の在り方ではないだろうか。




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