B 試験制度


 学校社会は、試験によって支えられている世界である。
 極端な話、試験が全てである。試験勉強に始まり、試験で終わる。そう言う学生生活を大半の人は送らされる。ならば、教育を考える場合、良きにつけ、悪しきにつけ、試験制度とは、何かを、問わざるをえない。
 試験制度では、設問も、答えも、予め用意されている。つまり、問題も、正解も、所与のものである。
 出題、設問の元になる根拠は、絶対的なものである事が大前提である。なぜならば、問題の根拠があやふやでは、試験制度そのものが成り立たないからである。
 そして、導き出される正解も、絶対の真理でなければならない。過ちは、許されないのである。
 学校教育を受けた多くの人は、この世の全ての事柄は、科学的に解明されていると錯覚しているものが多い。
 それは、学校で、教科書に書かれている事は、動かしがたい、絶対的な真理であるかのような教え方を、されたことが、原因である。
 そして、それを教えている先生は、神の如き存在に見えるのである。教科書に書かれている事が、絶対的に間違いのない正しい真理ならば、主観の入り込む余地がない。
 そこから、客観性という考え方が、正当性を持つのである。そして、客観的に見て正しいことであるならば、試験問題としての妥当性が保障される。
 試験問題は、この客観性に依拠して成立している。
 ところが、肝心の科学は、この世には、絶対的なものはなく。科学の根本は、仮説であり、理論は、相対的な体系としている。
 つまり、最終的には、主観的なものだと言う事を前提としている。絶対的な真理の書は、批判を許さない書は、教科書ではなく。聖典である。それは、科学的合理主義や、実証主義とは相容れない物である。宗教的な部類にはいる。即ち、教科書を絶対視し、批判を許さないとしたら、学校は、新興宗教の一種だと言う事になる。
 つまり、試験の根本の前提と、科学の根本の前提は、二律背反な関係にあるのである。ここから、試験制度、ひいては、学校制度の自己矛盾が始まる。つまり、自分達が、絶対的でないとする命題を、絶対的な命題とする事によって、試験制度は成り立っているのである。
 もし、根拠とする事実や前提に過ちがあったら、それ以前の試験の結果は、全て、偽、誤りだという事になる。果たして、それは真実であろうか。根底となっている科学が絶対的な命題は、あり得ないとしている以上、最初から、試験制度は、破綻しているのである。巨大な機構を持つ試験制度は、この様な、危うい土台の上に成り立っている、いわば、砂上の楼閣なのである。
 大前提に矛盾がある以上、教育者は、自らを神にするしかなくなる。さもなければ、試験制度に依拠している学校制度そのものが、崩壊してしまうからである。そして、教科書は、現代の聖典となった。教科書に書かれていること以外は、異端として、排斥されているのである。結局、試験制度に支えられた社会というのは、一種の新興宗教だと思えば間違いない。
 歴史の教科書に書かれたことが、それが、実際にあった事かどうかと言う事と関わりなく、絶対的な真実となる。歴史的な事実など、どうでも良いのである。
 だから、歴史的事実より、教科書に記載されていることの方が問題になる。そして、教師は、それが真実であるかどうかを、証明する義務はない。ただ、書かれたことだけを、丸暗記させればいいのである。間違った事を教えても、教師には、責任はない。教科書が悪いのか、教科書を書いた人間が、悪いのである。教育者は、学者ではない。多くの人間には、この点を錯覚している。学問の探究者としての専門化ではない。
 つまり、歴史の先生は、歴史を知らなくても良いのである。ただ、教科書に書かれていることを理解していればいい。そのうえで、試験勉強のプロであればいいのである。つまり、試験に合格するための技術を教えられればいいのである。
 学問を教えているわけではない。学者は、自分が称えている学説の正当性を立証する義務がある。教育者ならば、自分が教えている事の正しさを立証する責任がある。この責任が、現行の教育には、欠如している。故に、学校の先生は、学問を教えているのではない。教科書に書かれている事を、それが、真実であるか、否かに関わりなく、ただ、教えているのである。
 批判を許さない教科書なんて、それ自体非民主的、非科学的である。それは、教科書ではなく、聖典である。
 況や、書かれている単語を隠して、それを書かせる穴埋め問題や、用意された答えの中から答えを選ばせる、択一的問題は、学問を否定するものである。それは、設問者を神とする仕業である。
 教育者が、自分の本来の姿、人間を人間として育てるという、自分の使命を自覚しない限り、ただの受験勉強のプロに過ぎない。その意味では、家庭教師や塾の先生と何の変わりもないのである。
 学校では、試験中には設問以外、質問を受け付けてくれない。また、試験中に話をしてはならない。
 しかし、現実の社会では逆である。問題が出されたら、まずその問題が正しいかどうかを確認しなければならない。つまり、設問以外に隠されていることを質問しなければならない。そのうえで、問題の真意や目的について出題者に質問をする。問題に取りかかったら、わからないことがあった場合、どんどん周囲の人間に相談をし、できれば、答案用紙を提出する前に答えを確認しておく必要がある。
 学校の試験は、一人で問題を解くのであるから、試験の結果に対しては、自分だけが責任を持つ。逆に言えば、自分の出した解答にだけ責任を持てばいい。それも点数にのみ責任を持つのであって、結果、全般対して責任をとる必要はない。答えが間違っていてもそのままで良いのである。修正したり、ただす、必要はない。むろん謝る必要もない。つまり、やりっ放しである。
 しかし、現実の社会で間違った答えを出したら、それを改めない限り許されない。場合によったら謝罪をしなければならない。 
 現実の社会で間違いは許されないからだ。試験は一回しか受けられない。そこで結果が出たら、泣いても、笑ってもおしまい。だから、試験が、終わったら問題を、見直すなんて事はしない。
 勉強も試験で、区切られていて、いったん合格点をとれば、その試験以前の学習を繰り返すことはない。しかし、学力と試験の結果とは、必ずしも一致しない。また、学業によっては、同じ事を繰り返すことに意義があるものもある。繰り返すことでしか修得できない技術もある。この反復繰り返しという、教育の基本的な要素が、学校教育では無視されている。
 試験で区切るというのは、生徒を管理する上で大変に都合のいい仕組みである。
 区切ると言えば、試験では、一定の時間内に解答を出すことを要求される。しかし、現実の社会ではありえない。一定の時間内で問題を解くのでは、受験者は創造力を発揮することができない。むろん、試験では創造力など要求していないし、要求できない。結果、学校教育に創造力が、入る込む余地がなくなる。創造力の強い子は、学校社会からはじき出されるのである。
 学校は、閉ざされた社会であり、自分一人で、原則、教えられたことで解答が出される。一人でやるのだから、当然、自分以外の者に結果に対する、共感や共鳴はない。結果が、悪ければ指導者の教え方が、悪いと思うだけで、感謝の念、なんか、さらさらわかない。
 それにたいし、現実の社会では、開かれた社会であり、自分一人ではわからない、できないことで大多数である。一人で責任のとれる仕事は少ない。逆に人の失敗の責任を問われることが多い。逆に、共同で仕事をするから、結果は、共有する。故に、結果に対し伴に泣き伴に笑うことになる。感動も共有する。指導した人に、感謝する念も生じる。
 試験では、教わった範囲内、教科書に載っていないことは、出題されない。教わっていない問題が出たら、それ教わっていませんですむ。それに対し、現実問題の、そのほとんどが、教室で、教えられたことだけでは、解決できない。教科書には書いてない事を使って解かなければならない。教わっていないなんて言ったら叱られる。しかも、現実の社会では、正解を出すまで何度でも、やり直さなければならない。できない、間違いましたでは許されない。そのうえ、きちんと、やり遂げないと、次がない。特に、同じ失敗を、繰り返すことは許されない。だから、常に問題を見直しておく必要がある。
 だから、現実の社会では試験以前の準備や人間関係が大切なのである。要するに、試験には、現実の社会が、欠落しているのである。
 これでは、いくら試験の成績がよくても、社会の役に立つとはかぎらない。
 実際の社会で人を評価する手段は、試験制度だけではない。試験制度は、むしろ例外に属す。現実の社会では、人の評価は、実績による。また、スポーツやクラブは、簡単なテストをするところもあるが、多くが、無審査か、実地テストである。ペーパーテストだけで、入団や入会、入社を決めるところは、少ない。なぜなら、実社会では、実力がものをいうからである。ペーパーテストで、人間の実力や人柄を測る事ができないことを実力の世界では、自明のように受け止めているからである。
 だから、ペーパーテスト以外にどんなやり方があるのと、学校関係者が、問うのというのは、愚かである。自分で自分の怠慢を明らかにしているようなものだからである。
 統一的試験制度のメリットは、管理しやすいという事にある。また、教える側にとっても都合がいい。というより、巧妙に責任を回避することができるうえ、教え方も標準化できるという点にある。つまり、生産性や効率が非常にいい仕組みだと言える。
 しかし、教育は、もともと、統一とか、一律という思想になじまない性格のものである。それは、最も、個性的で人間的な営みだからである。しかも、環境や地域性にも左右されるものだからである。教育は、それに携わる者、関係する者、全ての想いが集約されたところに成立する。
 結局、学校で教えられない事、即ち、社会人として当然身につけておかなければならない、常識や良識がないがしろにされている。社会的常識や良識は、社会の変化の影響を最も受けるものだから、試験に一番不向きな課目なのである。その結果、社会に適合できない成人を多く生み出す事になる。現代社会の病根の多くは、戦後教育の成果がもたらしたものであるといっても過言ではない。
 試験制度が悪いと言うより、試験制度を含めて教育体制全体が悪いのである。教育制度の欠陥がもたらす被害は、それが、社会全域にわたって、深刻な影響を及ぼすものであるから、責任が重大なのである。
 管理する側にとっても、教える者にとっても都合がいい。受験した者は、支払った代償が大きい。となると、試験制度を否定する事は、容易な事ではない。かくて、試験制度は、永遠である。不滅である。しかし、これだけは覚えていて欲しい。試験や学校だけが全てではない事を、そして、試験に囚われない社会ができた時こそ、試験は、意味があるのだと言う事。そして、受験勉強が終わったら、試験勉強で染みついた、変な考え、異常な考え、悪い考え方を早く捨てることです。そうでないと、いつまでも、社会人として自立できないし、成功することもできない。

 試験制度の悪いところは、閉ざされていることだ。自己完結的だという点である。社会にも、子供達にも、真実に対しても閉ざされている。だから、改めようがない。改めようがないから、現実から乖離していってしまう。
 試験制度をもっとオープンなものにする以外にない。教科書にない問題は出せないし、また、問題を作ること自体、受験生には、開かれていない。そこをオープンなものにしていけば、試験制度の弊害をある程度防ぐことも可能だ。また、現実や社会に立脚した問題も多く取り上げる。むろん、その場合は、正解が一つとは限らない。また、正解がない場合も考えられる。そう一試験を考えることは、試験制度にとって有効だと考える。

 試験の在り方も画一的である。ただ、一方的に与えられた設問を解くだけが試験だと思われている。せいぜいいって小論文を書く程度が関の山である。
 しかし、世の中には、学校型の試験ばかりではない。オーディションやコンテストのような試験もあるのである。
 自分の好きな分野、やりたいテーマ、得意な分野を選んで、それを発表するような試験があってもいいのである。
 ただ一回限り、狭い限られた範囲の問題を解くだけの試験が能ではない。

 試験をする目的を見失うから、試すための試験、篩(ふるい)にかけるための試験、落とすための試験、つまりは、試験のための試験が横行するのである。
 試験の目的は、受験者の能力や成長度合い、適正などを見極めることである。もっと言えば潜在能力が発揮されればそれに越したことはない。
 ならば、与えられた設問を解くだけの、予め決められた解答を見つけるだけの試験は本末転倒だとしか言えない。
 受験者が一番得意としていることを自分が納得する形で表現させることの方が、目的に合致している。
 人の能力を見極めることが試験だとしたら、人を鋳型に填めるようなやり方は、試験とは言えまい。
 人を選ぶというのならば、試験する側の人間が自分の考えや都合を押し付けてばかり居たら、本当の能力など見極められるはずがないのである。受験する側にも選ぶ権利はあるのである。
 最初から一方通行では、学問は成り立たない。教える事は教わる事であり、教わる事は教える事でもある。つまり、教育とは双方向の行為であり、弟子は師に学ぶように、師も又弟子に学ぶのである。それが学問であり、修行である。

 試験の在り方そのものが教育の在り方を問うことでもあるのである。





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