自己喪失・自己乖離


 時折、大学受験を終わった直後の人や大学の新入生から、どうしてもやる気がでないとか、どうしたらいいか解らないとか言う質問を受けます。五月病と片付ける人もいますが、私は、もっと深刻だと思います。だから、その解答の一つを載せます。

 以前、私は、ある友人から、大学に入学したとたんやる気がなくなったという人から相談を受けた。彼は、鬱に近い状態で精神科医にかかろうと思うくらいだといっていました。

 僕は、相談者の話を聞く限り、精神科医にかかっても治らないじゃないか、かえって悪化するんじゃあないかなと思いました。
 なぜならば、僕には、彼の反応は極めてまともだと思えるからです。
 彼は、むしろまともすぎる。

 精神的な拷問で最も残酷な拷問というのがあります。
 それは、意味もなく、目的のない仕事を強制的にやらせることです。例えば、大きな穴を掘らせて、それを今度は埋めさせるというようなことです。現実に、フランスの刑務所で、砲弾を右から左に運ばせ、それが終わると左から右に運ばせるという作業をさせたことがあると聞きます。それをさせるとどんなタフな人間でも一週間くらいでおかしくなるそうです。それを十二年間にわたってさせられたのですから。
 大体、受験勉強の終盤に掛かってくると、大概の人間は、先が見えてくるんです。見えると同時に、どうしていいのか解らなくなる。何せ、自分で考える訓練を何もさせられていないのですから。人間というのは、本来合目的的な存在なんですよ。目的をハッキリさせないまま、過酷な受験勉強をしてきたらおかしくなるのが、当たり前なんです。
 大体、偏差値で人間の価値なんて決められてたまるものですか。人間関係も、友達も、人格も全て否定されてしまいます。偏差値が良くても、悪くても関係ありません。しかし、一度偏差値で示されるとそれが全ての基準にされてしまいます。

 だから、彼はある意味で、まともすぎるほど、まともである。

 だから、こう言っては変ですが、まともな人間ほど、おかしくなる。おかしくならない人間は、既にまともではない。

 つまり、おかしくなるのは、まともな証拠なんです。もし、変だなと感じるんでしたら、彼は、全然おかしくない。まともな証拠です。ただ、おかしいのに、そのまま放置している、本当に精神に異常をきたしてしまいます。

 精神科へ行くと、軽度の鬱か、ノイローゼだと言われる気がします。でも、まともですよ。教育も精神科も、本来病気でない者まで、病気にしてしまう。

 カミュは、シーシュポスの神話の中で神々の怒りに触れたプロメテウスが、受けた罰のことに関し述べています。つまり、大きな岩を山頂まで運ぶと、その大岩は、山頂から落ちていく。それを、また、山頂まで運ばねばならぬと言う罰です。しかし考えてみるとプロメテウスは、その大岩を山頂に挙げるまでは、無我夢中で、苦痛を感じている隙はない。虚しさを感じるのは、大岩が山頂から落ちていく時だけ。だから考えようによっては、虚脱感を抱くのは一瞬なのだと。
 まるで、現代の学校教育は、プロメテウスが受けている罰のようである。それでも、受験勉強に熱中し、夢中な時は、良いが、目的が達成されるか、されそうになると、我に戻るととたんに虚脱感に襲われる。しかも、それは、底なしな絶望感である。プロメテウスが、虚しさを感じるのは、一瞬だが、受験生は、目的を達成したときから、虚脱状態に陥る。
 受験生は、目的を達成すると、自分のそれまでやってきた勉強の真実を知る事になる。知ろうとしなければ、受験の呪縛から逃れることができない。このことは、誰も認めようとはしない。つまり、受験勉強で学んだことのほとんどは、生きていく上で役に立たないと言う事実を・・・。だが、この事実を認めないと、本当の学問はできない。これは、どうしようもないジレンマである。
 同時に、親や教師も自分達がついてきた嘘を思い知らされる。だから、目的を達成した者に何も言えない。ただ、本当の葛藤はそれから始まる。親は、自分がついてきた嘘に気づかれないように、また、後ろめたさから、大学生の子供に対し何も言わなくなる。と言うより、何も言えなくなる。それを一人前になったからと言う嘘でまた誤魔化す。実際は、どうしていいのか解らないだけである。そして、最後の関門、就職の時にその嘘は、明らかになる。何の相談にも、親はのれないのである。子供も親に相談する気をなくしている。なぜか、もう子供ではないから、親の言うなりにはならないのである。しかし、どうしたらいいのかは解らない。受験で習ったことも大学で学んだことも役に立たないからである。
 本当は、自分を見失っているのである。

 私には、彼は、自己喪失か、自己乖離に陥っていると思えるのです。

 自己喪失の症状は、自己の主体性の喪失なんです。
 何をやっても虚しく感じる。自信が持てない。自分で何も決められない。その前に、何をして良いのかが解らない。
 だから、依存的になる。
 それでいて、人と会ったり、話したりするのがおっくうだったり、面倒くさい。もっと言えば怖い。ついつい引き籠もりがちになる。その為に、友達ができなくて孤立し、更に引き籠もるという悪循環に陥る。

 決断力がないというのは、大変なストレスです。何かを決めようとすると思考がストップしてしまう。無理にそれでも決めようとすると、ストレスで吐き気がしたり、気分が悪くなる。だから何もできなくなる。それがプレッシャーになって他人の目を気にするようになる。

 決断力がない代わりに抑制がきかない。つまり、自制心がないからブレーキが掛からなくなる。そして、暴走する。暴走しても自覚がない。当然に責任感や実感がわかない。本当の動機も解らない。ただ単なるハズミなのかもしれない。衝動かもしれない。妄想なのかもしれない。本当のことは、当人にも解らない。

 周囲の人間の意見が聞けなくなる。主体性がないと、他人の意見を聞けなくなるんです。特に、忠告がましいことは、自分に対処する力がなくなっていますから、拒絶反応が出てしまう。

 人と接するのが怖くなる。対人恐怖症。そして、引き籠もり。

 自分の存在が軽く感じられる。と言うより、存在していないようにすら感じる。重みがなくなる。生きるとか、人生とか、どうでも良くなってしまう。

 欲がなくなる。意欲がない。やる気が起こらない。何もする気がない。本当に欲がなくなってしまうんですよ。性欲どころか、食欲すらなくなる。

 肉体的にも、倦怠感があり、集中力なくなる。ボーとしている。感情の表出がなくなる。感情が表に出なくなるどころか、喜怒哀楽そのものがなくなる。逆に、感情のコントロールができなくなって。急に怒り出したり、哀しくなったり、泣き出したりする。かと思うと、躁になったり、鬱になったり。典型的、鬱ですよね。

 こうじると自虐的になったり、自己否定的になる。こうなると怖い、破滅的な行動に走ったり。自分の一番大切なもの、例えば、両親や恋人に対し攻撃的になったり、傷つけたりする。過食症、拒食症もそう言う流れからきているように思えます。

 こう言う時に、変な新興宗教や思想にぶつかると、人格そのものを乗っ取られてしまう危険がある。
 だから、誤解しないでください。僕は、正しい信仰が必要だと思います。自分の内にある神を信じることです。

 自己を喪失している時は、騙されやすくなります。えてして、そう言う時に悪い奴が近づいてくる。誘惑にも弱い。そして騙される。自分がないから、抑制がきかずに溺れてしまう。行きつく先は、破滅である。

 それから、自己乖離。これは、自己の同一性の喪失。アイデンティティの喪失です。つまり、自分が自分でなくなってしまう。心ここにあらずという状態です。何をやっても、自分がやっているような気がしない。だから自信が持てない。やっていることに自信が持てないのではなく。やっている自分を信じられない。

 よく見られるのが人格の分裂、人格の乖離。その原因となる価値観の分裂。価値観の乖離。自分は、人や状況によってうまく価値観を使い分け、合わせているつもりでも、結果的に、どれが本当の自分なのかが解らなくなったり、他人の評価と本来の自分の姿とが、乖離してしまい、そのギャップから、自己破綻をしてしまう。

 何をやってもこれは、自分が自分から望んでやっているように思えない。他人事にしか見えない。だから、何をやっても虚しい。自分のためにやっているのではなく。親や他人のためにやっているようにしか思えない。自分が自分でないように思えて仕方がない。いつも、自分を演じている。でも本当の自分は、別の所にいる。

 自分は、仮面を被っているように思える。その仮面を取ることができない。心から人を信じる事ができない。心を開いて話をできる人がいない。孤独。自分は、正直に話しているつもりでも、違う自分が、嘘をついている。誰も自分のことを理解していないと思い込む。他人が、自分を理解しているように言われると無性に腹が立ってくる。かと思うと、意味もなく、人を信じたくなる。根本的には、人間不信。皆が、自分に嘘をついていて、騙しているような気がする。そのくせ、よく騙される。だから、ますます人が信じられなくなる。

 自分が自分でないように思えるから、何をやっても、妙にしらけてしまって、心から楽しんだり、悲しんだりできない。何をやっても、面白くない。つまらない。熱中できない。飽きっぽくなる。常に、醒めた目の別の自分がいる。何をやっても、自分で、自分を馬鹿にしてしまう。だから、何をやっても自己嫌悪に繋がる。
 自分は、なんてダメな人間なんだと思い込む。些細な事にも腹を立てる。そのくせ、腹を立てた自分が嫌になる。

 現実回避、現実逃避する。虚構の世界に逃げ込む。テレビや映画、ゲームの世界に自己を投影し、その主人公になりきってしまう。また、現実とゲームの世界との境目がなくなる。

 定職に就けない。一度、職についても、その仕事が自分には向いていないように思える。ちょっとした躓(つまず)きや失敗で立ち直れなくなる。自分の失敗、自分が悪かったという気になれない。最善を尽くしても、結局違う自分がやっているとしか思えない。だから、うまくいって誉められても自分が誉められている実感がわかない。だから、叱られても、誉められても他人事のように思えて、嫌になる。結局、職場を転々とする。

 人を好きになっても、それは、違う自分であるような気がして、自分でおかしくしてしまう。相手を平気で傷つけたりする。嫌いなのではない。好きな自分が信じられないのである。

 自分で決めた事でも責任が持てない。つまり、自分が心から望んだこととは違う気がする。自分で決めた癖に、人に干渉されているように思える。
 だからすぐに人の性にする。言い訳をする。意味もなく、すいません、すいませんと謝る。

 誰かにいつも見張られているような気がする。人の目が気になる。極端な場合、自分の話し声が外から聞こえる。人格が分裂してしまう。ひとりでに、身体の一部が動いたりする。独り言を呟くようになる。また、独り言というのではなく、内語、つまり、自分が心に思っていることが、自然に口にでてしまう事がある。この場合、自分では独り言を言っていることすら気が付かない場合がある。

 自分で自分を傷つけてしまう。自傷・自虐ですね。リストカットもこの類です。とにかく自分が好きになれないんですよ。

 不思議なことに、自己喪失した人間や自己乖離した人間は、他人を責められないんですね。自分ばかりを責める傾向がある。なんでも自分が悪いと思い込んでしまう。

 例えば、両親に対して不信感があるのに、自分は、両親に感謝しているとか、模範解答をする。責めないどころか、かばうような言動をとる。そのくせ、妙によそよそしい。親なのに他人みたいな態度をとる。外面的には、親を責めない。良い子なんです。それでいて冷たい。醒めているんです。

 自己喪失や自己乖離とは、当事者能力を失っている状態である。当事者能力を喪失していると言う事は、自分で自分をコントロールできない状態を指す。主体的に何かに関わったり、できない。かといって人の言いなりにもならない。
 自分では、出来もしないのに、人のいうことは聞かない。自分で決断できないいんですよ、そのくせ人に干渉されるのが死ぬほどいや。これでは、第三者が救いようがない。手をさしのべてもその手を振り払ってしまう。それでいながら、誰も俺のことを解ってくれないとぼやく。始末におえない。
 当事者能力が欠如しているのだから、当然、無責任、無関心、無気力、つまり、三無主義に陥る。

 自分で自分をコントロールできなくなる。その結果、自堕落になる。自分で自分を制御できないのだから、無責任になる。これは結果である。そして、モラルを喪失する。または、プライドをなくす。こうなると、人間は、堕ちていってしまう。そして、堕落し始めると加速されていく。引き籠もり、ニート、アダルトビデオや援助交際、売春、虐待というのは、結局、自己喪失や自己乖離から始まっている場合が多い。同根なのである。快楽を求めていると言うより、自暴自棄に陥って、自虐的になっているとしか言いようがない。最後に待っているのは、自殺、心中である。恋愛は、心中相手を見つけるのが目的ではない。

 自己喪失や自己乖離した者は、端から見ると気位ばかり高いくせに、傷つき易いという風に見える。付き合いにくいんです。しかし、実態は、自分を護る術を知らないから傷つきやすく、自尊心でしか自分を護れないのである。

 僕は、自己喪失や自己乖離を直すのは、結局、信仰しかないかなと思うようになってきました。それで神と言うようになってきたんです。つまり、内なる神。自信をなくしているんですから、あなたの内にあって、あなたにとって絶対的存在、それを信じない限り、自信って取り戻せないのではと。

 全ては、ほとんど生まれた時に与えられている。しかも唯一、自分の存在だけが絶対なのであって後の属性は、全て相対的なのである。だから、他人と比較することは、愚かである。他人と比較したところでどうにもならないからである。自分に与えられた物を喜んで受け容れ、それをよりよく活用することを考えた方がいい。それしかないのである。つまり、自分を磨く以外にない。そう考えると、自分に与えられた物もまんざら悪い物でもない。

 まあ、自己喪失の特効薬は、恋愛なんでしょうけれど。自分を見失っているときの恋愛は、劇薬にもなる。自分の平衡感覚や自制心をなくして、ストカーまがいの行動をとるか、失恋から自滅的行動をとる危険性もある。また、自虐的になって、快楽に溺れることもある。とにかく、恋愛の本質は愛だという事を忘れてはならない。

 根本は、自己の解放である。自分がやりたいことを素直に受け止め、行動していく。むろん、周囲の環境も大切だけれど。失敗を怖れない。そして、自愛。




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