反体制・反権威


 体制や権威に反発をするのは、ある意味で、青年の一つの姿である。若気の至りというのとも少し違う。それは、世の中の不正や理不尽な仕打ちに対する純粋な反発である場合が多い。それを、反抗期という言葉で片付けるのは、短絡的すぎる。

 もともと、思春期から青春期にかけては、自立していく時期である。その時期に世の中の不正や矛盾に気が付いた時、純粋な正義感から問題を提起し、行動する。それは、少なからず傾聴に値する。
 子供じみた反抗だなどと思い上がった考えに囚われていると、若者達を誤った方向に追いやってしまう。なにせ、世の中からはみ出してくる若者達を待ち受けているアウトロー、アウトサイダーの連中は、限りなくいるのであるから。
 逆に、思春期や青春期に従順に従うだけなのは、むしろ不健全である。なぜならば、この世の中に、不正の種や矛盾は限りなくあるのだからである。
 残念ながら、歳をとると失う物が増えてくる。それと伴に、人は、臆病になる。失う物もなく、純粋の若者の曇りない目の方が物事の本質を鋭く見抜いていることが多くある。

 かつて、学生運動を戦い、左翼運動に身を投じた者は、自分達の行動は、今の若者の行動とは違う。問題意識もあったし、大義名分もあったと自分達を正当化し、美化するが、やったことは大した違いがない。むしろ悪質であくどいくらいだ。ただ、自分達の行動を煽り、正当化する理論があったと言うだけである。

 今の若者だけを差別するのは、おかしい。根底に思想的な裏付けがないとしてもその心根や動機は同じである。ただ、若者達の心を捉える思想がないと言うだけである。今の若者達に、問題意識や考えがないというのは、色褪せた思想にしがみつき、自分達が若者達を教導できる思想を作り上げてこなかったことを明らかにしているだけである。恥を知れ。

 若者達が抱く、理想や憤りには、何らかの裏付けがある。もう子供ではないのである。駄々をこねているのとは、わけが違う。彼等の意見に耳を傾けるべきなのである。場合によっては、彼等に責任を持たせ、任せるべきでもある。若い故に、可能なことは多くある。

 ただ、かつての闘士のようにやりすぎたり、また、取り返しの付かないことをさせてはならないだけである。そこに、教育がある。犯罪は、犯罪である。いかなる大義名分もそれを正当化することはできない。ただ、自己の信念に従ったとしか言いようがない。もし、その信念が絶対不動の信念というならば、それは、信念と言うよりも信仰である。

 古来、世の中を変革してきたのは、若者達の純粋な想いである。その純粋な想いを何処まで周囲の大人や社会が受け止められるかによって若者達の行動は違ってくる。暴力でしか不正や世の中の矛盾を正せないのだと思い込めば、若者達の暴走は防げない。
 若者達の活力を活かすも、殺すも、それは、彼等を受け容れていく社会の問題なのである。

 反抗的だという事だけで、頭を抑えつけるようにするのは、逆効果なだけである。
 大切なのは、彼等が何に対して反撥し、何に対して憤っているかである。
 叛逆や反抗という行為にのみ捕らわれて、その背後にある本質的な問題点を自覚できなければ、結局、戻ることのない底なし沼のような状態に落ち込んでいき。深い挫折感を味わうこととなる。
 大事なのは、世の中の矛盾や問題との葛藤を通じて、いかに、自分を確立するかなのである。




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