マッチポンプ

 小火を煽って大火と為す。それは、犯罪である。

 戦後の知識人の信条は、エロ・グロ・ナンセンスである。そして、反体制、反権威、反倫理を気取っていれば、知識人の一員になれる。思想は、無神論、無思想と言えば格好がつく。そして、時々、自由を口にすると何となく、知識人ぽい。ただ、根本は、無責任なだけだ。
 大衆の一員といいながら、一般大衆を低く見て、学歴や権威に弱い。それでいて、反権威である。

 現代のメディアは、自分で犯罪を誘発、或いは、煽っておいて、犯罪や問題が起こったら、それを報道して金を儲けている。二度美味しい仕事をしている。しかし、マスメディアのその姿勢が、社会を根底から堕落させ、公序良俗を失わせている。しかも、マスメディアは常に、自分は安全な場所から、自分の言動に保険をかけながら行動している。
 例えば、こう言うことは、犯罪であるといいながら、犯罪を教唆したり、彼等の言い分の一部には、同意できるとして、保険をかけておいて相手を批判する。つまり、どっちに転んでも良いようにしておいてから自分の意見を言うのである。
 そして、最後の切り札が、言論の自由、思想信条の自由、報道の自由である。そのくせ、左からの攻撃には、めっぽう弱い。もともと、革命主義的な発想が根底にあるからである。その根底が端なくも現れている。結果的に言葉狩りを安易に許す結果を招いている。しかし、言葉というのは、その国の文化に根ざしている。言葉をやたらに使えなくしてしまうことは、文学や文化の否定につながる。それこそ言論弾圧の最たるものである。

 教科書問題は、最たるものである。自分達の誤報がもとで外交問題に発展し、その為に、日本は長い間苦しめられる。その上、国家の主権まで侵されたというのに、報道機関は、自分達の誤りは認めず。国家や相手国の姿勢を問題にする。両国の反日感情を煽って取り返しの付かない深い溝を作ってしまった。しかし、メディアは、全く自分達の責任を自覚していない。

 :言論の自由は、社会のチェック機能まで否定するものではない。むしろ、社会のチェック機能を信じるからこそ成立するのである。言論の自由は、メディアや自称知識人のためにだけあるのではない。いいかげん、大衆を見下すのは辞めたらどうだ。

 マッチポンプは、弁証法の罠である。テーゼ・アンチテーゼ・アウフヘーベン、命題・反命題・止揚この図式は、極めて危険である。弁証法というのは、弁論上のテクニックに過ぎない。それを論理の本筋においている科学の分野はない。なぜならば、論理的筋道が確定しないからである。つまり、最初の命題に対する反命題が特定できず。更に、反命題を止揚するプロセスが解明できない。論理的断絶、飛躍が起こりやすい。というより、論理的断絶や飛躍を前提としないと成立しないからである。つまり、結論を特定することも、証明することもできないから、それを科学的論理として取り扱うことが困難か危険だからである。しかも、それを政治的な論理にすると現状を常に否定し続ける結果を招く。結局は、マッチポンプの論理なのである。
 マルクス主義的な論理には、常にこの自壊作用が働く。つまり、反対のための反対である。しかも、自分を中立的立場に置こうとする。

 自分の立場を明らかにしないで相手を批判する。
 否定や破壊の連鎖を引き起こしていることに気がついていないことである。つまり、国家を否定する事が、世間や社会の権威や体制の否定に繋がり、それが、先生や親の権威の否定に繋がり、親の否定が、自己の否定につながるという風に連鎖的な否定がはじまり、究極的には、自己否定につながるという図式である。

 若者達を煽動しながら、今の若者は無軌道だと批判する。犯罪を誘発しておきながら、犯罪を摘発する。人をそそのかしておいて、罪を暴き立てる。犯罪の仕方を教えて、犯罪を取り締まる者を怠慢だ誹る。

 不倫や浮気を奨励しながら、一方で、それを告発する。モラルや礼儀を否定していながら、モラルや礼儀知らずだと告発する。猥褻な情報を無軌道に流しておいて性行動が乱れている。かつて、フリーセックスを推奨していたタレントが、若者に道徳観がないと告発していた。
 雑誌の思想を統一しろとは言わないが、あまりに矛盾が多すぎる。

 暴力を学校や家庭では否定しても、テレビやメディアには暴力が氾濫している。暴力を振るった子供は、暴力を学校や家庭で否定されても、テレビでは肯定される。学校や家庭で教えられる価値観を受け容れなくなる。いけませんといわれれば納得したことを、子供達にとってより以上の権威によって肯定されてしまうのである。また、自分の犯した過ちを帳消しにしてくれれて、それが、より強い力を持っていれば、子供達は、そちらに従う。北野たけしがいくら俺は、一コメディアンといっても、既にメディアの中では権威になっており、メディアで権威である以上子供達にとって親や学校以上の権威なのである。その人間が暴力肯定すれば、学校や家庭での教育を帳消しにする力は充分にある。それは、芸術のレベルを遙かに超えた力なのである。

 二重三重の否定、複雑にひねくれた否定である。それは、起点、自分の依って立つ場所を否定する事からはじまる。核のない思想、芯のない思想ができあがってしまったのである。
 愛国心から現体制を批判したり、時に、否定する事は、自分の思想の核を否定する事にはならない。しかし、最初から愛国心を持たず、ただ、体制は悪だ、国家は悪だと反体制を目的としてしまえば、必然的に反対のための反対という空疎なものになってしまう。そこから、否定の連鎖ははじまる。
 反国家主義者、無神論者、反体制主義者が陥る罠がそこに潜んでいる。絶対な者は、絶対にないという論法である。排中律、排反的な論理である。弁証法の罠でもある。
 メディアは、一方で反暴力、反戦をいいながら、もう一方で暴力的で戦闘的な漫画や情報を無制限に垂れ流す。自分で否定しながら、自分で肯定する。自分で肯定しながら、自分で否定する。こう言うことを繰り返すのである。こう言うことを繰り返されれば、受け手は何も信じられなくなる。そして、行き着くところが自己喪失、自己否定である。その典型が、集団自殺、ニート、引き籠もり、幼児虐待である。
 集団自殺は、自殺すら自分一人でできなくなっていることを意味する。自己喪失である。

 檻の中の虎をからかったからといって、勇気があるとは言わない。今のメディアは、権力という虎を檻の中に閉じこめておいて嘲弄しているようなものである。そして、いつの間にか自分が権力者に虎どころか妖怪に変じていることに気がついていない。

 教育が悪いのは、教育が本来の目的から逸脱したからだ。そして、その本来の目的から逸脱させたのは、他でもない我々なのだ。自分が反省もせずに人に反省を求めるのは、お門違いだ。教育が、本来の目的を見失ったのは、教育を学校という檻の中に閉じこめ、自分達の責任を回避してきた社会、特にマスメディアの責任は逃れられないのである。




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