教育という産業

 教育は、投資である。しかし、投資する側に何の選択しも与えられていない投資である。

 大体、2003年度一般会計に占める文部科学省の予算だけで7.7%、一般歳出で13.3%もあるのである。しかもこれでも、1999年度以降最低の比率である。金額で6兆68億円、また、文教費の総額は、2001年度で24兆1369億円、国民所得に占める割合は、6.5%にのぼるのである。(教育データブック 時事通信社)
 また、家計から見ても国民生活金融公庫の調査では、平成十三年度で教育費が年収に占める割合が33%にまで達している。

 教育は、金になるのである。とにかく、教育は、一大産業である。財政から見てもこれだけの支出になるのである。さらに、教育というのは、学習塾や家庭教師、教材、サブカルチャーと裾野の広い産業である。

 また、教育産業は、特異な産業でもある。つまり、義務教育は、市場の存在しない産業である。つまり、共産主義的社会、又は、独占市場なのである。さらに、供給者主導の市場なのである。消費者側の選択肢が小さいのである。つまり、需要と今日の関係が成り立っていない産業なのである。必然的に、利権が生じやすい体質を持っている。

 競争社会でありながら、市場原理、競争原理が働いていない産業なのである。ならば、民営化をして競争原理を働かせればいいと言うのは、暴論である。

 何でもかんでも、市場経済に任せろと言うのは間違いである。特に、倫理問題や教育問題を市場の論理に全て委ねてしまうととんでもないことになる。
 かつて、倫理的に教育的に問題がある映画が国会で取り上げられたことがある。しかし、その映画がヒットしたとたん、うやむやになってしまった。その映画が、なぜヒットいたのかすら明らかにされないまま。この問題は、常に、世の親を悩ませている。漫画、テレビ、映画、ゲーム、ビデオ、いずれも、メディアが関係しており、言論の自由常に矢面に立つ。しかし、これは、言論の自由の問題であろうか。
 言論の問題ではなく。経済の問題である。結局、最終的には、市場の論理、金の問題が勝つことになる。つまり、テレビの視聴率が高いから、ゲームが売れたから、映画がヒットしたから世の中が受け入れた。民主主義的に見て正しいのだということになる。しかし、これは、価値観の転倒ではないのか。糖尿病の患者が、甘い物を、ほしがるからと言って、砂糖を、大量にやるのは、正しいことだと言っているようなものだ。
 そして、このような論理が、かえって言論の自由を怪しくさせ、脅かすことになる。なぜなら、その国の文化や倫理の健全な部分が、破壊され、民主主義体制の土台を崩壊させかねないからである。民主主義の土台は、個人の倫理が支えている。言論は文化である。個人の倫理や文化が破壊されたら、民主主義は成り立たない。この文化や倫理を冒していくのが、市場の論理に基づくメディアの存在なのである。

 ただ、教育産業というのは、市場の原理が働いていない特異な産業であり、それであるが為に、いろいろな弊害や問題が生じている事を認識する必要がある。

 先ず第一に言えるのは、生徒や保護者にとって選択肢がほとんどないという事実である。つまり、予め決められた場所や教育者、カリキュラム、教育方法、評価システムを無条件で受け容れなければならないという事である。

 特に、幼年期においては、ほとんど選択の余地がなく、生徒や保護者は自分の教育方針
や目的は、全く無視されてしまうという事である。現実には、教育方針は、担任の意志に委ねられる。担任の教師を信じる以外になく、しかも、担任を選択する権利は認められていない。教科書や教育方法についても全く親の意見は、反映されない。また、生徒の評価方法や評価基準に関しても無条件に受け容れざるをえない。異議を申し立てる道は閉ざされているというより、最初からないのである。
 国歌、国旗問題でも事実上、親や生徒は、蚊帳の外に置かれている。つまり、発言権がないのである。

 国政において反映すればいいと言っても、教育問題というのは、実際には、私的領域に属する部分が大きく。国政レベルまで議論を持ち込んでも、それが反映されるまでに、肝心の教育機関が過ぎてしまうのである。必然的に目先の利益に従う以外にない。

 そうなると、結局、保護者も生徒も学校の言うなりになる以外にない。それが嫌ならば、転校をするか、登校を拒否することしか選択肢がないのである。しかし、転校をしたとしても本質的な部分・構造的な部分に変わりはない。ただ物理的な空間が変わるだけである。不登校問題や学級崩壊の背景には、この構造的な問題があることを見逃してはならない。そして、受験体制、競争社会からは逃れられないのである。

 しかも、その目的にたいし、生徒や保護者は、選択する余地はないのである。唯一この競争社会から抜け出すとしたら、スポーツや芸能界のような特殊な世界に逃げ込む以外にない。

 教育目的や教育方針は、生徒の価値観に直接影響を及ぼす。それに対し、全くといって保護者の意見や考え方は反映されないと言っても過言ではない。生徒達は、自分の思考に基づいて学習するのではなく、予め学校で決められた基準に無条件に従う以外にないのである。
 そして、この教育制度は、いろいろな規制と既得権、利権によってがっちりと守られているのである。

 つまり、学校を中核としたヒエラルヒーが、教育産業にはできあがっているのである。この体制は、容易に変革を受け容れない。カリキュラムの変更や授業のやり方のような部分的な変更を受け容れても、制度の抜本的な改革は困難なのである。

 センター試験や学校群といった一見制度変革に見える改革も現実には、試験制度や学校制度の骨格や土台を変えるような変革ではない。問題なのは、生徒や保護者に選択の余地も参画の余地もないという事である。
 子供が虐めにあったり、また、学校社会の中で阻害を感じたとしてもそれに対し抵抗することはできない。反抗に対しては、一方的な制裁が加えられる。最悪の場合、退学や放校という処置も執られる。この様な環境は、子供達に深刻な無力感・学習性無力(「グラフィック学習心理学」山内光哉・春木豊編著 サイエンス社)を持たせる。学校が強いているのは、意図するしないは別に、絶対的な服従なのである。そこには、自由も主体性も入り込む余地はない。

 確かに、教育という産業を全て民営化し、市場原理を持ち込めばいいと言うのは、暴論である。しかし、ある程度、ユーザーである保護者や生徒の意見が反映されるようにしなければ、この逼塞した状況を打開することは不可能である。
 しかも、財政が破綻すれば、教育サービスの質の低下は、避けられないのであるから。




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