迷惑と恥

 戦前は、恥の文化なのに対し、戦後は迷惑の文化である。

 昔は、恥を知れと叱った。今は、人のご迷惑ですよと叱る。以前なら、自らが自らを省みて恥じることがないかを問うのに対して、今は、他人に迷惑をかけなければ何をしても良いと教える。
 今の日本人は、外国人が日本人をどう思っているか戦々恐々になる。それによって教科書まで書き換えてしまう。国政まで左右する。負け犬である。

 迷惑という概念は、他者との関係、人間関係から派生する。恥という概念は、自己から生じる。

 迷惑の根本は、外聞であり、他人の目、思惑、見栄、噂、評判、遠慮、世間体、世論、視聴率、外見、他人の意見である。
 迷惑の本質は、怖れ、恐怖であり、孤立や孤独を嫌う。外国は、日本の事をどう思っているのか。自分は、他人にどう思われているかが、気になるのである。究極は、媚び、へつらい、自分をなくすことである。
 恥の根本は、名、名誉、自尊心、誇り、倫理、羞恥心、礼儀、節度、廉恥、意志、信念、誓い、約束、規律である。
 更に、名誉の根源は名前であり、卑怯、卑劣を嫌う。誇りは、侮辱、屈辱に対しては、毅然とした姿勢・態度が要求される。名こそ惜しめである。
 迷惑は、外部から抑制に重きを置くのに対し、恥は、自制心が大事になる。故に、迷惑は、罰となり、恥は、反省になる。その究極が切腹である。
 迷惑は、規則に集約され、恥は、礼節に集約される。

 迷惑なら他人の目・外聞が問題。言い換えれば、迷惑は、人が見ていなければどうでも良いのに対し、恥というのは、他人の目は問題にならない。あくまでも自分が自分に対して課した規律が重要になる。

 迷惑をかけるのと言ったところで、何が迷惑かなんて、客観的な基準があるわけではない。本来、迷惑であるか、否かは、客観的問題である。だから、無理やりこじつけるとしたら、法とかルール、マナーと言うことになる。そうなると、迷惑をかけなければと言うのは、法に反していなければ、何をしても良いという考えになる。しかし、元来、迷惑と言う事と法とは違う。法に違反していなければ何をやってもいいというのでは、世間は成り立たない。迷惑である。それ故に、迷惑をかけない。迷惑をかけないと言って迷惑をかける人間を増殖しているのである。迷惑か否かは、主観的認識の問題なのである。

 恥は、克己復礼へと昇華される。つまり、己に克ちて礼に帰るである。それは、法よりも自らの信条に基づくものであり、自分が正しいと思うか否かが大切なのであり、他人の思惑に囚われること自体、恥だとする。
 恥は美学なのである。恥は、礼節なのである。

 恥を知る者は、礼節を重んじ、自らの行動に責任を持とうとする。自分が納得のいかない結果が出たら、他人がどう言おうと、それを恥として、納得がいく結果が出るまで自分を錬磨する。結果以上に大切なのは、自分の心に期すものなのである。

 恥を知る者は、浩然の気を養うのである。浩然の気というのは、自分が相手の名誉を傷つけたと悟ったらいかなる相手であろう(子供であろうと、弟子であろうと、部下であろうと、後輩であろうと)とその者を怖れ、恐懼する。しかし、もし自分が正しいと信じるならば、相手が誰であろうと、皇帝であろうと、大統領であろうと、豪傑であろうと、また、敵は幾千幾万ありとても吾、一人でも往くの精神である。恥を知る者は、気概がなければならない。

 迷惑という基準を、根本的な存在そのものに関わる基準だとして植え付けられたうえに、おまえは、迷惑だといわれれば、言われた者は、自分の存在を否定されたように受け取って当然である。
 捨て鉢になるのは、当たり前だ。迷惑・迷惑といわれるたびに、自分の人生に自信が持てなくなる。その上、民主主義というのは、他人の意見を尊重することだと続けば、決定的である。他人の意見を尊重する以前に自分を確立しておく必要がある。それをただ無意味に他人の意見を尊重しろ、尊重しろでは、自分がなくなってしまう。
 戦後生まれのものは、人の話をよく聞きなさい。他人の意見を尊重しなさい。何でも話し合いで解決しなさい。それが民主主義だと教わってきた。他人の意見を尊重するのはいい、しかし、それには、前段、前提がある。即ち、自分の考え、立場を明らかにして上でという前提である。先ず名を名乗れである。自分の考えや意見がなくて他人の話ばかり聞いていたら、自分がなくなってしまう。客観的、客観的と客観性重視の弊害もある。元々自分の意見、所見というのは、主観的なものである。
 迷惑をかけなければ、何をしても良いという事が、自分を否定してしまえば、自分は、望んで生まれたわけではない。(他人や親に迷惑をかけているわけではない。)だから、俺は、どうなっても良い。自分の好きにするのだに変質してしまう。さらに、私があなたにいつ迷惑をかけたと開き直る。開き直るしかない。
 だから、平気で自殺するし、親を見捨て、子を虐待する。自殺することも、親を見捨てることも、子を虐待することも迷惑をかけているのではないと思うのである。迷惑をかけたくなくて相談できなくて一人で片付けようとするのである。相談することもしないことも、結局、迷惑なのである。ならば、相談する迷惑を選ぼう。

 お互いがお互いを必要としている相互依存関係にある夫婦こそ愛がある。そのためには、相互が自立していなければならない。つまり、迷惑を掛け合うことで夫婦は成り立っている。迷惑を許し合うのが自立した夫婦関係だと言い換えることができる。夫と妻が自立するというのは、お互いを必要としなくなることを意味しているわけではない。お互いがお互いの役割立場を認め合うからこそ、自立できる。愛し合っている夫婦は、結局、男女平等を実現している。愛を知らない者が男女平等を言うのは、滑稽である。おまえなんて必要としていない、俺は、俺で勝手に生きていくと言ったらおしまいだ。夫婦は、お互いに迷惑を掛け合うからこそ意義がある。それを昇華するのは、愛である。お互いに迷惑でない夫婦はいない。だからこそ、愛がない夫婦は続かないのである。迷惑をかけるのも受けるのも嫌だとなった時、夫婦は終わる。迷惑も愛も自覚していない夫婦に明日はない。
 迷惑をかけることがいけないのではない。迷惑をかけていることを自覚していないのが悪いのである。迷惑をかけていることを自覚するから、お陰様と感謝し、お互い様と声をかけることができる。最近は、お陰様、お互い様、ありがとうという言葉も、聞かなくなった。
 
 恥と迷惑の差は、学ぶと教わるの差になる。恥は自分から進んで学ぶのである。迷惑は人から教わるのである。恥はかいて知るのである。

 恥は、自分らしさが元になる。それにたいし迷惑というのは、外聞が元になる。だから、失敗しても、成功しても、恥は自分に帰すことができるが、迷惑では、自分に帰すことができない。迷惑だといわれても、心から反省することができない。責任が持てない。改めることができない。学べない。学べないから教わるのである。
 テストの成績が悪くても、誰に迷惑をかけるわけでもない。それなのに、親に叱られる。叱られている意味がわからない。叱られた事だけが残る。勉強が嫌いになる。しかし、親に叱られるから勉強をしなければならない。悪循環がはじまる。恥ずかしくないかと言えば別である。それは、自分の問題である。恥ずかしく思えば、勉強をするし、そうでなければ勉強をしない。
 教わっても自分がないから感謝できない。感謝しろと言えばますます反発する。学べば、自分があるから感謝することができる。仰げば尊し、我が師の恩である。教わるという意識と学ぶという意識の違いがそこにある。

 忠と服従とも違う。欧米流の考え方では忠の意味はわからない。忠というのは、自発的な行為である。忠は、無条件な服従を意味するのではない。本来は、自分が選んで、自分の意志で仕えるのである。だから、自分の尊厳、存在をかけて仕える。しかし、盲従であってはならない。恐怖心から従うのは忠ではない。それに対し、服従には意志はない。負けたから仕えるのである。隷属である。自由はない。だから、服従には、命令しかない。ただ従うだけである。忠の根本は、約束、誓約である。故に、忠義は、修養なのである。忠は善いけど服従は嫌だと言っても欧米人には理解できない。忠は、強制や契約ではなく、徳目なのである。
 約束を守る、守らないは、相手は関係ない。名誉の問題である。相手が約束を破ったから、自分も破って善いというのではない。約束を破るのは、恥である。約束を破っても、実害がなければ、迷惑がかかったわけではないから善いじゃないと言う論法は通じない。
 相手が無礼でも、自分が、礼節をなくす言い訳にはならない。それは、恥である。迷惑というのは、相手が迷惑と思うかどうかだ。しかし、相手が迷惑と感じているかどうかは、解らない。第一、礼儀知らずでも迷惑をかけるわけではない、不愉快にするだけだ。それを迷惑と感じるかどうかは、相手次第である。少なくとも、迷惑をかけていたとしても、相手が忍耐の限界を超えて怒り出さないかぎりわからない。怒り出したとしても、いつおまえに迷惑をかけたと開き直る事もできる。生んでくれと頼んだ覚えはないというのと同じ論法だ。俺は、親に迷惑をかけた記憶はないというだろう。それは、記憶はないだろう。しかし、迷惑をかけたのは、そして、かけ続けているのは、紛れもない事実だ。それが理解できなくなる。それは、自分が迷惑をかける以前に、迷惑をかけられていると思っているからだ。だから、何でもかんでも世間や親の性にする。迷惑をかけなければ何をしても善いという裏側には、迷惑をかけられたら何をしても善いという発想が隠されている。どっちにしても、何をしてもいいが残る。自分というのがないからである。
 真夜中に騒音を立てても、道路でタバコを吸っても、相手に実害があると感じないかぎり、迷惑をかけたと自覚しなくなる。逆に少しでも相手に迷惑をかけるのではないかと思うと手も足も出なくなる。それは、自分の基準ではないからである。だから、何をやってもいいだけが残る。結果、傍若無人の振る舞いをするか、何もできなくなるかである。
 諸外国や世間に迷惑をかけたと思えば謝るしかなくなる。そして、ただひたすら謝りまくる。謝り続ける。誇りも名誉もない。際限がない。謝ったところで自覚はない。恥だと思わないからである。恥だと思わなければ、何だってできる。しかし、それが許されるかどうかとなると話は別である。

 本来、自分の生き方は、自分で学ぶのである。教わるものではない。教わっていると思うから、その意識が、反発や抵抗感を生む。その感覚を持ったまま、社会へ出るから、生き方や仕事の仕方を学べないのである。教わっても身に付かない。こう言うことは、教えられないと先人達は思っていた。だから、教わろうと思うな盗めと指導した。教えなかった。教えないことが親切だとも思っていた。しかし、今は、学校で何でもかんでも教えてしまう。だから、教わらないと何もできない。マニュアルがないと何も解らない。やろうともしない。教えない方が悪いと思うように仕向けられている。それでいて、教えられることは強制だから嫌だと反発する。これでは、何も身に付かない。教わる事は恥だ。学ばなければと言う姿勢が必要なのである。大のオトナが、教わらなければ何もできないなんて恥だと思え。恥は学ぶものであって教わるものではない。それが基本である。
 現行の学校は、迷惑を基礎にしている。迷惑をかけなければ何をしても良いと教える。だから、礼節は学ばせない。モラルも学ばせない。教えるのは、人間関係だけ。結果全ての人間が迷惑をする。そのことを学校の先生は理解していない。覚醒剤をやっても、裸になって、酒を飲んでも、たばこを吸っても、いつ俺が迷惑をかけたと開き直る。それが悪い事とは学ばない。それは、自分が周囲の人間に迷惑をかけていないと思っているからだ。そんな人間に迷惑だと言っても言うことを聞くはずがない。子供が妊娠するのは、性の知識を教えないからだと逆転する。人の愛し方を学ばせていない自分達が悪いとは思わない。最初から考える基準が違うのだから、迷惑だなどといったら、存在をかけて抵抗されるのが関の山だ。そう学校で教育しているのだ。

 結局、迷惑の基準は、他人の思惑である。しかし、他人の思惑は解らない。何が迷惑で何が迷惑でないかは、自分では判断できない。独善的に判断するか、引き籠もるしかなくなるのである。臆病になったら、人に会うことすらできなくなるし、大胆になれば、人の思惑などかまっていられなくなる。

 電車の中で化粧をしてもそれが迷惑かどうかは理解できない。迷惑だと思えば、迷惑だろうし、迷惑でないと思えば迷惑ではない。ただ、恥ずかしいかどうかは、自分の問題だ。
究極は、破廉恥、人前に恥をさらし、それでも迷惑ではないといわせることなのである。普通の子がアダルトビデオに出るのもうべなるかな。そうしないと怖くて世間とまともにつきあえないのである。自分を、虐めて、虐めて、迷惑をかけられて、かけられて、迷惑を帳消しにするしか、自分の居場所がなくなるのである。自分が人に迷惑をかけているのではないか、人を傷つけているのではないかと思ったら、いたたまれないのである。そうなったら、自虐、自己否定しか残されない。
 どうすれば迷惑をかけずに世間様とつきあえるか。迷惑をかけずに世間とつき合うことはできない。
 なぜならば、他人が、自分のことをどう思っているかなどと言うのは、解らないからである。他人の思惑を考えれば考えるほど自滅的、破滅的になる。

 恥を知らず、迷惑を基準とするものは、自分の非を認めない。自分の過ちを認めないどころか、行為すら認めない。自分の非を認めない事を恥ずかしいと思っていないし、自分の行為を認めなければ、人に迷惑をかけているという認識もなくなる。だから、非も行為も認めない。認めないどころか認識もしていない。だから、罪悪感なんて生じようもない。自分が働いていないことを恥だとは思わない。そして、自分が働かないことが、親や世間に迷惑をかけていると認識しない。むしろ、親や世間は、迷惑な存在なのである。親や世間は、うざったい存在なのである。しかし、そのように教育したのは、親や世間なのである。これでは堂々巡り、卵が先か鶏が先か。この連鎖を断ち切らないかぎり、良くならない。本当に悪いと思っていないのである。やったとすら思っていないのである。

 これは、個人主義ではない。むしろ、個としての自分が認識できないことに原因があるのである。

 人は、他人に迷惑をかけずに生きられない。極端な話、存在そのものが迷惑なのである。迷惑をかけてはいけないとしたら、生きるなというのに等しい。ならば、迷惑をかけても良いのかと開き直るのか、それも違う。迷惑をかけていることを自覚するしかないのである。だから、愛が必要となる。人間関係から、寛容さが失われれば、争いしか残らない。迷惑だからである。

 親に迷惑をかけない子はいない。子に迷惑をかけない親もいない。お互い様である。しかし、親が、子に向かって迷惑だと言ってしまえばそれまでである。だから、孝という思想が生まれた。孝という思想の本質は、仁(慈愛)なのである。迷惑という言葉を愛によって打ち消すのである。しかし、子は、親に迷惑をかけていることを自覚し、自制することを覚えるのである。

 戦前の日本人は、他人に迷惑を掛けず生きられないことを自覚していた。だから、迷惑を掛けられてもお互い様だからといってすまされてきた。また、自分が何かで成功してもお陰様と感謝した。それは、日本人社会が一つの共同体だったからである。
 周囲の人間関係を無視し、迷惑の掛けっぱなしな家族がいると肩身が狭いと嘆いたのである。迷惑とは、掛けてはならないものではなく。自覚すべきものなのである。

 迷惑をかけて良いとは言わない。しかし、迷惑をかけてはいけないとも言わない。迷惑は、かけてはいけないと思うから、ごめんなさいと謝る。迷惑をかけるのは、当たり前だと思えば、お互い様、ありがとうと感謝する。迷惑という概念は、他者に対し感謝する気持ちを起こさせるからこそ尊いのである。それを迷惑さえかけなければ、何をしても良いといってしまえばおしまいである。迷惑は、自覚すべきことなのである。

 恥を知れ!私はそう言いたい。恥を知って自分を取り戻せ。目を覚ませ。そうすれば、救いがある。恥はかいて知るもの。恥をかくことを怖れることはない。恥をかいても自省し、自らを改めればいいのである。若いうちは、恥を沢山かき、そして、自らを律する術を学ぶ。その根本は、修身である。迷惑は、恥を知ることによって自覚する。迷惑は、自覚する以外にない。そして、感謝する。迷惑をかけても許す相手に感謝する。だから、口が裂けても迷惑をかけなくてもなどと言うな。そんなことを言うから、自分は、迷惑をかけていないと錯覚する。
 迷惑は、かけたくなくともかけるもの、そう自覚するのである。自覚して恥じるのである。恥じて自分を磨くのである。根本は、恥である。

 ご自愛という言葉がある。国を愛する事。会社を愛する事。家族を愛する事。自分を愛すると言う事。根は同じである。性根は、同じである。それは、自分である。
 個人主義が自己中心の思想であるとしながら、一方で他人の思惑でしか自分を推しはかれないとしたら、自分を愛することなどできない。迷惑は駄目だでは、自省には向かないのである。
 個人主義の根源は、恥である。恥だからこそ、修身なのである。その上で斉家なのである。治国平天下に結びつくのである。

 最近の政治家は、迷惑という言葉をよく口にするようになった。それに比例するように、恥という言葉を使わなくなった。最近も、政権党に所属する人間の何人かが、党の決定に叛して造反し、無所属で選挙に出た。その時、よく迷惑をかけたと謝罪した。その上、その議員を応援した県議や市議も除名された。その人達に対しても迷惑をかけたと謝罪した。何のための謝罪か。自分達に信念、志があれば、謝罪する必要がない。
 党の偉い人に逆らってはいけないと言うのならば、最初から政治家になぞならなければいい。政治家は、信念にこそ殉ずるべきなのである。政治家一人一人が志士ならば、信じるものに従って行動するべきであり、その結果についてこそ責任を問われるべきである。迷惑をかけたと謝罪する事は、恥である。なぜならば、それは、自分の非を認めたことになるからである。

 戦後日本人は、周辺諸国に迷惑をかけたと謝罪し続けている。しかし、迷惑をかけたと謝罪したところで、何になろう。問題は、志である。我が身を振り返って恥ずべき事があればこそ謝罪すべきである。ただ、闇雲に謝罪しても意味がない。志すところがあってこそ、立つ瀬もあるのである。




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