虐め(いじめ)

 虐めは、悪い虐めは悪いと言いすぎる。
 世の中は、ある種、虐め合いの世界である。多くのいじめというのは、教育的な意味合いで出てくる。だから、いじめが悪いというと何も教育できなくなる危険性がある。だいたい、受験戦争や学校の授業そのものが虐めのようなものである。虐めが悪いのではなく、虐め方が悪いのである。

 だいたい虐めというものの正体がハッキリしているようでハッキリしていない。親愛の情から出た冗談やからかいのつもりが、当人にとっては、虐めになったりする。
 東京の人間は口が悪い。心配して注意したことが、他から見るとえげつなく聞こえる。そう考えると虐めの捉え方には、地域性があるのかも知れない。
 虐めを当人は、親愛を示したり、心配して注意しているのだから、虐めをしているという自覚がない。大体、一番、酷い虐めは、学校や会社、先生や親、上司の虐めである。しかし、それを虐めだと自覚しているものは少ない。自分は、指導・教育・躾のつもりである。幼児虐待好例である。幼児虐待をしている大概の親は、躾だという。又は、最初は躾のつもりだったのである。
 虐めが悪い悪いと騒ぎ立てているメディアの虐めは、相手を無抵抗にしておいてバッシングするのだから更に酷い。

 喧嘩も虐めも相互作用である。一方が良いとか、悪いとか言う問題ではない。当事者間でしかわからない論理が働いている。それを無視すると、それが抑圧になる。
 子供達は、喧嘩や虐めを通じて人間関係を築いていく。故に、喧嘩や虐めを一概に悪いとしてしまうと、健全な人間関係が築けなくなる。喧嘩や虐めを禁止すること自体が抑圧になる。それに、いくら禁止したところで、根本的な相互作用であるから、喧嘩も虐めもなくならない。
 ただ、相互作用であるから、自ずとルールがある。そのルールを守ることによって人間同士のコミュニケーションを築くのである。ルールそのものに思想や哲学、文化が隠されている。喧嘩両成敗というのが良い例である。喧嘩や虐めのルールは、歴史や伝統、風俗、地域の掟、即ち、文化が隠されているのである。

 喧嘩のルールは、我々は、髪の毛を引っ張りのは駄目。噛むのも駄目。石や武器を持つのは、卑怯。不意打ちは、卑怯。後ろから攻めるのも卑怯。ロープやひもを首に巻いてはならない。首を絞めても駄目。急所を狙ってはならない。泣いたら負け。逃げたら負け。勝っても負けても、言い訳はしてはならない。大人が子供の喧嘩に口を出すのもルール違反。大人に言いつけるのは、裏切り。決着が付いたら仲直りをして、後を引かない。いつまでも根に持ってはいけない。捨てぜりふは、未練、卑劣だ。言葉の攻撃は、弱い者のする事と先輩や親から教わって育った。

 虐めにもルールがある。典型が、弱い者(圧倒的に力の差がある者)虐めはするなと言う事である。また、相手の身体的欠点に対する攻撃もルール違反である。致命的な欠点・直せない欠点に触れるのも駄目。抵抗できない人間を虐めてはならない。それから、個人攻撃も禁じ手である。

 喧嘩や虐めに、ルールがあるのだから、当然、練習しなければならない。学ばなければならない。つまり、喧嘩や虐めによって人々は、学んできたのである。
 喧嘩や虐めは、相互作用である。相互作用と言う事は、訓練をされてない者が不用意にすると、自分も相手も傷つけてしまうことになる。だからこそ、子供の頃から、喧嘩のルール、虐めのルールを厳しく躾られたのである。

 喧嘩や虐めを洗練したのが、スポーツである。人間の歴史は、喧嘩と虐めの歴史だと言っても良い。その洗練された形がスポーツなのである。だからこそ、スポーツの世界ではルールが絶対なのである。喧嘩が駄目だと言えば、スポーツは成り立たない。

 喧嘩や虐めには、当然、審判が必要である。そこで重要な原理が、泣いたら負け、逃げたら負けである。これは、どんな自然界でも当然の帰結である。泣かしたら負け、逃がしたら負けでは、喧嘩に際限がなくなってしまう。ところが、最近は、この逆転の論理が横行している。故に、喧嘩にも虐めにも際限がなくなっているのである。要するに、決着の付かない、喧嘩や虐めを横行させてしまっているのである。

 喧嘩や虐めを闇雲に押さえつければ、表面からは消えるかもしれない。しかし、それは、抑圧された形で潜行し、虐待といった歪な形で表面化する。虐めそのものは、陰湿化する。力による喧嘩や虐めはなくなるかも知れないが、言葉による喧嘩や虐めが勢いを増す。言葉による虐めは、抑止がない上、相手を無抵抗にしておいて行われる。弱者の戦法である。必然的に、陰湿化するのである。そのうえ、相手の行動規範や価値観、自尊心を直接傷つけ、修復を不可能にする。言葉による喧嘩や虐めには、ルールが確立されていないのである。また、現実的な裏付けがないのである。

 かつてしごき事件というのがあった。過酷な訓練で後輩達を死に至らしめてしまった事件である。虐めによる自殺が続いた時期もある。しかし、いずれも訓練をした者、虐めた者が未熟だったのである。しごき事件の時言われたのが、伝統のない、新興のクラブだから起きたと、その正否は、わからない。しかし、虐めや喧嘩をだから否定してしまえというのは、飛躍である。それでは、教育そのものを辞めろと言う方がいい。喧嘩や虐めは、両刃である。だからこそ、ルールが必要なのである。さもなくば、悲劇はなくならない。密室にして逃げられない状況に追い込み、無抵抗な人間を際限なくいたぶるのは、虐めではなく、虐待である。常軌を逸した行動である。それは、それで処罰すべきなのである。また、自殺は、違う問題である。虐待は、非難されるべき事だが、それ以上に命の尊さをもっと教えなければならない。

 親から、喧嘩や虐めのルールを厳しく躾られた。そして、基本的に喧嘩や虐めに大人は、口を差し挟まなかった。
 特に弱い者虐めには厳しかった。しかし、虐めは、悪いと言われた記憶はない。弱い者虐めの最たるものは、権力者による弱者への虐めである。学校においては、教師が権力者である。メディア社会においては、報道機関は、圧倒的強者である。一般の人間は、抵抗できない。弱い者虐めの中で、最も戒められたのが、無抵抗な人間への虐めである。ところが、虐めは、為だという側で当の教師やメディアによる虐めが横行している。

 襟を正すべきは、教育者であり、メディアである。




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