社会との断絶

 学校は、異常で、特殊な空間だと言う事を大前提とすべきなのである。
 同じ年令の子供だけを、同じ人数の組に分け、一定の時間内、閉鎖された空間の中で同一の事をさせるというのは、通常の社会の中ではあり得ない。それを普通と言うだけでも異常である。これを一般社会で強制的にやれば、ある種の洗脳だと言われても仕方がない。この事の是非を言う前に、この点を自覚していないと重大な錯誤をきたす。つまり、集合教育の持つ危険性を見逃す事になる。
 また、学校は度厳格な階級社会はない。差別社会もない。年令による階級は絶対的なものであり、成績や偏差値により、全ての人間の序列が決められている。しかも、進路、進学も決められている。これほど厳格に序列社会は、未だかつてない。
 また、独裁的で権威主義的世界である。教室内では先生は、独裁者であり、どんな思想でも考えでも、親や当人の承諾なしに教える事ができる。学校というのは、密室社会なのである。学校の当事者が、反独裁、反権威を教えるのは、滑稽を通り越して一種の暴力である。しかも、彼等が、公平、中立を楯に取るのは、矛盾している。
 ミニ独裁者が独裁は悪いと教えている。これは、自己矛盾だ。
 教育者は、自分の置かれている立場、教室の中では、絶対的権力者であることを自覚しないと大変な事になる。
 学校というのは、異常で、特殊な空間なのである。

 どこへ行けば、素敵な女と出逢えるのだろう。素敵な男性に声をかけられたらどうしたらいいの。最初のデートには、どこへ誘おう。初対面の人にどう話しかけたらいいのかな。何を聞けばいいの。どんな話題が良いのかな。こんな服装で良いかな。何を着ていけばいい。電話番号を聞きたいのだけれど、どうやればいい。食事に誘いたいんだけれど、どれくらいの予算かな。気持ちをこめて贈り物をしたいんだけど、何を贈ったら喜ばれるだろう。どういう風に渡せばいいかな。メッセージは付けた方がいいかな。年賀状はどう言うのが気が利いているかな。こんな事は、学校では教えてくれない。学校でやっているのは、性教育。こんな事は、歴史はじまって以来だ。

 昔から、世の中に出てものをいうのは、男は、度胸、女は愛嬌なんてよく言う。しかし、学校では、度胸はつかない、愛嬌も身に付かない。ほかに、世間に出ていきていく上に必要な事は何があるだろう。決断力。決断力がなければ、何もできない。だから、決断力を磨かないと。社会は、人間関係の坩堝(るつぼ)。だから、人と人との付き合い方も覚えておかないと。しかし、こういった生きていく上で、一番大切なものや、一番必要な事は、学校では身につける事ができない。
 切符の買い方が解らなければどこへも行けない。ローンを組むためには、どうしたらいいのか。リースの方が得か損か。生命保険のお得な入り方は。どこへ行けば、食料品は安く買えるのか。金利の計算はどうすればいいのか。株に投資した方がいいか、預金の方が安全か。地震が来たらどうすればいいのか。確定申告のやり方は。年金の計算の仕方はどうなっているのか。大学へ行くのと働きに出るのは、どっちが得か。就職するためには、どうしたらいいのか。働きたいけど、どんな仕事がむいているのか。職人の修業をしたいけど良い師匠はいないだろうか。補助金をもらうためには、どんな手続きが必要か。腹が痛いけれど、どこの医者へ行ったらいいのか。医者にかかるには、どうすればいいのか。こう言うことは、学校では教えてくれない。

 大学は、専門家を育てる機関である。大学への進学は、自分が何らかの専門科になることを志望していなければ意味がない。大学へ入ってから、志望を明らかにしても意味がないのである。だからこそ、受験ではなく、進学の過程で、自分の進路を自分で明らかにしていかなければならない。この当たり前なことすら、学校では教えない。

生きていく為に必要な事、現実的な問題に関して学校は、関心も持たないし、関わり合い方も知らない。普通校であり、進学校であれば、大学の入試試験のことばかりが頭にあり、当人が、何にむいていて、何を志望しているかなどというのは、考えていない。そんなことは、大学へ入ってから考えろと言う。これは、教育者が自分の責任を放棄したことを意味するのに、その自覚が全くない。教育者が最大限関心を払わなければならないのは、当事者の人生についてである。進学などどうでも良い。当人が、ハッキリと志望を持っており、尚かつ、適正があることが明らかになった時、はじめて問題にすべき事柄なのである。とにかく、何でもかんでも、当人の希望も適正も関係なく、大学へ入れてしまえと言うのは、乱暴すぎる。
 
 学校教育は、プールで水泳を教えるようなものだ。プールというかぎられた空間だけでけで水泳を覚えたとしても、大海や川を泳ぎ切れるとはかぎらない。
 まだプールで教えるくらいならばましな方である。水にも入らないで教科書で知識だけ与えて、教えたつもりになっている。それで大海を泳ぎ切れという。泳げないのは、泳げない者が悪いと言わんばかりである。それでも何とか泳げる者はいい。泳げずに溺れる者が沢山出たとしても、水泳を教えた者の責任は問われない。とにかく、教科書は理解させたといって自分の責任を果たしたつもりでいるのである。世間もそれで良しとするのだから、なにをか況やだ。

 泳げるか、泳げないかは、社会生活において天と地ほどの違いがある。真剣勝負と竹刀試合、つまり、決闘と剣道の試合ほどの差があるのである。巌流島の決闘と剣道試合は違うものだ。況や、教科書で水泳を教えても泳げるようにはならないのである。

 人生は、一回。やり直しがきかない。人生の目的と勉強の目的、仕事の目的が一致していない。しかも、最も人生で成長が著しい時期に一番乖離が激しい。勉強や仕事の目的と人生の目的は別だと教える。頭が変になる。

 大切なのは、役に立つかたたないかである。無用の用などと、その価値観を否定してしまうと、物事の本質がわからなくなる。

 アルバイトが、最初に社会に接するものである場合が増えている。結局、アルバイトによって社会勉強をする。結果的に、フリーターを増やしてしまうのである。

 教える者も、教わる者も社会経験があまりにもなさ過ぎる。世間知らずな者が、世間知らずな人間に世間を教える。したり顔で、物知り顔な人間が増えるわけである。
 
 そのうえ、学校や教師が保護者や社会の価値観を無視して、勝手に自分達の思想を子供達に刷り込んでしまうために、親子、社会との価値観の断絶が深刻な事態を引き起こしている。それでいて、学校の先生は、自分の非を認めようとはしない。相手が誰であろうと、人を見下した態度しかとれない。根が世間知らずなのだから仕方がない。常識がないのである。常識のない人間が、どうやって常識を教えられるのか、不思議でならない。

 教育によって対人関係がおかしくなったり、社会生活が営めなくなったら、それは、教育目的を喪失している。

 教育とは、関係を学ぶ事である。社会に出たら、この関連づけが重要になる。ところが、部分・部分を別々に教えられ、全体を教えられなければ、関連づけができなくなってしまう。

 大人の社会は、醜く、汚い。なぜならば、人間関係の中で、人は常に見返りを求めている。無償の行為こそ真実だと教え込まれる。学校の教師から見れば、金儲けなんてとんでもないことである。そのように教え込まれた子供たちが、現実の社会に出たとき、適応できるであろうか。彼等が社会から逃避的になるのは、当然の帰結である。

 生活の為にとか、もったいないという言葉は、死語になってしまった。それも教育の為せる技である。

いじめ問題の本質は、このような人間関係の捉え方に一員がある。

 実態は一つしかない。それが現実である。それは、全体であり、部分に分割することができないものが多い。しかし、学校では、これをバラバラに分解し、まるでパッチワークのようにしてしまう。良い例が、英語の文法である。言葉は生き物である。それをバラバラに解体してしまえば言葉は死んでしまう。
 一つの物事でも視点を変えればいろいろな解釈が生まれる。それなのに、一つの見方を唯一絶対のように教え込まれたらたまったものではない。
 事実は、一つの全体である。部分ではない。しかし、学校は、部分をあたかも全体であり、絶対的であるかのように教える。

 絶対的な基準は覚醒者しかもてない。覚醒者も現実の世界では意識を働かせる。その瞬間に絶対的な基準は、消滅する。悟りは一瞬である。その証拠に宗教もそれが集団になれば階級が生じる。

 学校生活では、何でもかんでも予め決められている。
 時間割も決められ、教科書も決められ、先生も決められ、勉強の仕方も決められ、テーマも決められ、答えも決められている。これはもう、大量生産型の教育である。

 なんて、マナーが悪いんだ。だってそうしつけたでしょ。なぜ、言われたことしかできないんだ。だってそう育てたでしょ。

 家庭では、自分のことは自分でしなさいと教えているというのに。学校では、子供達に下働きをさせない。
 人にやらせるより自分がやった方が楽だからである。しかし、それでは、教育にならない。つまり、下働きや身の回りの世話は、それ自体が教育なのである。

 後始末や後片付け、支度ができない。それは、学校生活の中で後始末や、後片付け、支度をさせないからである。

 勉強のための準備は、全て、学校がやってしまう。それが、いかに教育上良くないかを理解していない。

 結局、このような考え方が、師弟関係というものをも否定してしまっていることに気が着いていない。結果、師弟関係などあまり省みられることはなくなってしまった。先生に対して敬意を表したり、世話をすることは、悪いことだと言わんばかりである。

 そのうえ、周辺業務、付随業務、随伴業務を仕事ではないと教えている。主たる業務というのは、それ一つで成り立っているのではなく、多くの付随業務や周辺業務を持っている。芝居が、主役だけで成り立っていないのと同じである。主役だけで成り立っているかのごとく錯覚していたら仕事はできない。当然、仕事は下働きから覚えていくべきなのだ。

 ところが、この縁の下の力持ち的仕事を正しく評価し、教えようとしない。仕事場へ行っても、付随業務が、わからないから、主たる業務がわからない。良い例が、お茶くみである。接客に際し、お茶を出す仕事は、不当な差別だという。どの企業でも、来客にお茶を出すことは、大変な神経を使ってきた。そこに、会社の品位や礼節、規律をアピールしてきたのである。会社の信用をにない、営業の一助となってきた。その仕事を無意味だという。それは、無意味だという人間の感性である。現実は、大切な業務なのである。確かに、なければ困るという仕事ではない。しかし、それを言えば、営業全体の業務がなくても良いという事になる。宣伝広告もいらないという事になる。仕事とに意味を見いだすのは、お客様であって、手前味噌の独善ではない。
 思いやりや気配りは、付随業務や周辺業務でこそ発揮されるのである。誠意やホスピタリティを、一見意味のないような仕事を通じて、いかに社員に徹底させるか、そこに教育がある。

 そう言う意味では、教育や指導も付随業務の一つ。お茶くみや下働きのような業務を否定されれば、教育も否定しなければならなくなる。 

 お茶くみは仕事は、仕事ではないと教え込まれる。では、誰が、来客に対する接客をするのか。お茶くみも立派な仕事であり、会社の大事な信用をになっている。お茶くみが悪いのではない。お茶くみの重要性が教えられない社会、職場が悪いのである。

 一見、誰にでもできる、どうでもいい事だけで、必要な仕事、避けられない仕事、それが大切なのであり、同時に、教育には、最も良い機会を与えてくれているのである。

 身の回りの仕事や身の回りの世話を通じて仕事を覚えていく。このプロセスを学校教育では教えない。そのことが、社会と学校との断絶を招いているのである。

 先生の身の回りの世話や家の手伝い、授業の下準備をさせないから、親や先生、上の人間が雑用、雑務、雑用係になってしまっている。それでありながら、大切な話には、最初から子供達を排除している。
 授業の下準備や家の手伝いは、何もやらせないかわりに、何も、任せないし、信じてもいない。これでは子供は育たない。

 学校では、先生が生徒に教わることは何もない。しかし、現実の世界で目下の者や同僚が目上の者や同僚を指導するのは、日常茶飯事である。それが現実である。

 現行の学校教育の弊害の一つに、こうした、現実と教育との乖離によって行動規範と倫理観を分離してしまうことがある。

 今の受験勉強は、一種のカルマ、輪廻になってしまっている。死ぬまで続く苦悩の連鎖である。
 いざとなったら、受験体制、進学の輪廻から抜け出させる親の勇気も必要である。一番大切なのは、自分の子供にとって生きていく為に何が必要なのか。大切なのか。自分の子供が何に向いているのかを見抜く力である。ただ、受験地獄の中を彷徨わせることは、親にとって簡単な選択である。しかし、応報がなければ、それは、子供を意味もなく受験地獄を彷徨い続けさせる結果になる。勇気を持って敷かれたレールから飛び出し、自らの道を切り開かせる選択をさせるべき時がきたら毅然として子供を支援すべきなのである。その時こそ、親の真価が問われるのである。




                content         


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2006.8.1 Keiichirou Koyano