言行の不一致

 言っている事とやっていることが違いすぎる人間が増えている。特に、教育者やメディアの人間に多く見受けられる。教育とか、言論というは職業に携わる者は、自分が依って立つ思想を自覚し、周囲の人間にハッキリと解るように示しておく必要がある。自覚するどころか、自分が何を言っているのかさえ解らずに、自分の立場や地位、権威を利用してただ、ただ、社会を煽動させるばかりの者が多すぎる。特に、教育者や言論の世界には。

 矛盾を矛盾として受け止めない人が多くいる。自分の考えと行動が一致していないのに気がつかないのである。

 そのうえ、現代社会は、ただでさえ、主義としての思想と人間としての倫理が分離している。
 価値観の多様化とか、無思想の思想というのは、逃げ口上である。教育者も思想家も自分の思想に責任を持たなければならない。いくら価値観が多様化しても自分の思想は一つである。言論人や教育者が自分の都合で、思想を使い分けるのは、明らかに詐欺である。なぜならば、言論人や教育者は、自分の思想に依って立っているからである。

 現代の日本の思想家と自称する者の中には、自分の言っている事と生き様や行動の下敷きとなる思想が相違している者が多く紛れ込んでいる。

 たとえば、権威主義的な無政府主義者。
 反体制主義的な独裁者。
 革命的な保守主義者。
 封建的進歩主義者。
 専制的自由主義者。
 男尊女卑のフェミニスト。
 差別的な平等主義。
 女性蔑視の女性解放論者。
 全体主義的な個人主義者。
 無神論的な新興宗教の教祖。
 暴力的な非暴力主義者。
 破壊的環境保護主義者。
 過激な反戦主義者。
 非人道主義的人権論者。
 独善的な人道主義者。
 経済のわからないの経済学者。
 反文明主義的科学者。
 合理主義的神秘主義者。
 神秘主義的合理主義者。
 平和主義的テロリスト。
 独りよがりのコンサルタント。

 彼等は、言っている事とやっていることが正反対である。しかも無自覚である。

 愛する事のできない者に、愛を教える事はできない。

 理念的価値の原理と行動規範の原理を一致させる必要がある。言っている事とやっている事が違えば、必然的に理念的価値と行動規範は、分離してしまう。
 民主主義を自分達の力で勝ち取った国民において当然の働きだが、敗戦によって民主主義を与えられた日本人は、どこか自虐的で自己否定的なところがある。また、キリスト教やイスラム教を下地にした国と、無神論的価値観を下地にした国との差でもある。いずれにせよ、統一的原理をなかなか認めようとしない。
 しかし、民主主義には、明確な統一された原理がある。典型が、自由と平等と博愛である。この理解なくして民主主義教育は語れない。全体主義的、共産主義的原則とは、全く異質な原則である事だけは、確かである。

 今の教育者には、嘘が多い。解らない事を解った風に教え。分別のない癖に、人を教え諭す。信念のない者が、無自覚に思想を吹き込み。間違っているという確信もないのに、子供達を叱る。これらは、全て嘘である。教育者の嘘は、教え子の価値観と行動規範を分離してしまう。だから、これほどの罪はないのである。教育者は、自分の専門教科を教えればそれで済むというわけではない。生きる術、人生について語らなければならないのである。
 教育者の嘘や不誠実ほど、子供を傷つけるものはない。

 嘘が一番いけない。それも、嘘をついている当人に自覚のない嘘が。その嘘を、信頼したいいる人間、信頼している人間からつかれるは、一番答える。裏切られたと感じるからだ。人間不信。何を信じて、誰を信じて良いのか、解らなくなるからだ。何も信じられなくなるからだ。

 何でも質問しなさいと良いながら、自分の解らない事を質問されたり、間違いを指摘されると怒る。しかも、世間知らずである事を自他共に認め、公言している。
 自由にして良いといいながら、規則ずくめで、拘束する。

 言葉では、自立、自主と教えながら、規則や授業で、服従を習慣づける。言っていることとやっていることが裏腹である。試験勉強は意味がない。でも、今の社会は、こうなのだから仕方がない。教育者が、そんな信念のないことでどうするのか。勉強だけが人生ではないといいながら、結局、試験の点数や偏差値で人を差別する。一人では何もできないと教えておきながら、人間関係の築き方を教えない。家庭の躾と矛盾した教えを強要する。これでは、家庭内に対立を持ち込んでしまう。

 正しいと教えられたことに従った行動したら、罰を受けたのでは、子供達は、何も信じられなくなる。しかし、家庭で躾ている事と学校で教えていることが整合性がとれない場合、往々にして起こる。子供は、学校の人間関係をとるか家族への愛情をとるか葛藤することになる。それでなくとも教育者の行動と教えが矛盾することは、たびたび起こる。

 教える者の価値観と行動が一貫していることが大切なのである。その是非は、教え子達が決める。

 矛盾は、自己以外の人が見れば解る。特に、子供は、すぐに見抜く。

 矛盾が高じると子供達は、何を信じて良いのか、誰を信じて良いのか、解らなくなっているのである。

 勉強を強要されたり、強制されると学習意欲がなくなることを事を学習障害というらしいが、それは、障害なのではなく、当然の反応である。障害だと受け止めている方に問題がある。環境に正常に適合しているだけである。
 勉強が好きであればあるほど、興味を失い、勉強が嫌になる。

 何が駄目かというと、価値観を使い分けるようになることである。
 親に見せる顔。先生に見せる顔。友達に見せる顔。皆、違うようになる。そのうち、誰にも見せない顔を持つようになる。
 秘密や内緒はいけない。特に、先生が、親に内緒だという秘密は良くない。教室は、密室になる。そこで何が行われているか、当事者である先生と生徒にしか解らない。
 価値観の分裂は、子供達の生活空間の分裂によって引き起こされる。家庭空間と学校空間、社会空間が不連続だと子供達は、それぞれの空間での価値観を使い分けようとする。しかも、これらの空間の分裂は、論理的ではなく、生活習慣からもたらされるものも含まれる。つまり、違う生活空間の中で刷り込まれる習慣が作用する影響が、重要なのである。言葉によって教え込まれるものと、習慣によって刷り込まれる基準に、整合性がないと深刻な危機をもたらす。
 子供は、必ず、些細な事でもなぜ、それを行うのか。なぜ、それが駄目なのか。なぜ叱られたのかの確認をする。それを反復しながら、学習をしていく。それが矛盾したものであれば、表面的には、納得してもそのストレスは、蓄積し、価値体系そのものの維持を困難にしてしまう。その矛盾からくる緊張を解くために、複数の価値観を使い分けることを覚えるのである。その中で核となる価値観を形成できないと、自己を自立させることができなくなる。

 人間は、環境的な動物である。行動規範は、習慣によって身に付く。人は、環境に適合しようとする。故に、自分の住む空間が不連続であれば、その空間に合わせて自分の価値観も変化させ、適合していこうとする。

 一番問題なのは、家庭と社会と学校との連続性が断ち切られることである。教育者は、社会の中に自分を位置付け相手の家庭の事情や躾を充分に斟酌した上で自分の責任で子供達を指導しなければならない。
 それは、独善的な反社会的、偏狭な思想を生徒に押し付けることではない。

 学習効果は、フィードバックから得られる。フィードバックが異常ならば、異常な価値観が育てられる。特に、生活空間が分裂すれば、価値観も分裂してしまう。学校は、家庭と社会と学校との連続性にもっと注意を払うべきなのである。親の価値観が間違っていると違う価値観を刷り込めば、それだけで、価値観の分裂を引き起こす危険性がある。先ず親や社会との整合性を保つためによく話し合うことである。間違っても学校を特殊な社会に変えてはならない。

 価値観の分裂を引き起こすのは、TPOによっていろいろな空間や場を想定し、その場の状況や条件によって場合分けをして、行動規範や言葉遣いを切り替えさせることである。この様な分裂は、言葉として刷り込まれるものよりも、習慣として刷り込まれるものの方が影響が大きい。なぜならば、言葉として刷り込まれるものは、反論することも修正することもできるが、習慣として刷り込まれたものは、修正するのが困難で時間がかかる上、無意識な部分の働きかけ、行動を支配するからである。

 一定の時間が来たら、一定時間休んで、休み時間が終わったら、全く異質な授業を繰り返す。一見効率的に見えるが、そこで何が起こるのか。つまり、一定の時間で頭のスイッチを切ったり入れたりを繰り返すことである。問題なのは、環境であり、条件付けによって、単純な繰り返しをする事が意味することである。
 言葉も、言葉そのものより言葉遣いから人の行動を支配しようとすることである。言葉に差別があるわけではない。言葉の背後にある意識に差別がある。言葉を換えても差別がなくなるわけではない。それよりも言葉の使い方を変えることにより、意図せぬ思想が刷り込まれることの方が恐ろしい。

 神を否定し。家族を否定し。国家を否定し。社会を否定し。権力を否定し。道徳を否定し。国防を否定し。伝統を否定し。感情、主観、直観を否定し、そして何よりも愛を否定している。

 それを態度や姿勢として刷り込んでいく。それは、無自覚にされた時、最も危険な洗脳、思想教育となるのである。

 このように、人生の根本を否定してしまったら、何を教えるというのか。何を教えられるというのか。




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