ニート・フリーター・引き籠もり

 ニートだ、フリーターだと騒ぐが、この問題は、今に始まった事ではない。ニートやフリーターは、既存の組織に依存しないで生きていこうとする連中なのである。ただ、以前は、ニートやフリーターみたいでなく、自営業や個人事業者、職人、農民、漁師になっただけである。ニートの問題やフリーターの問題は、はしなくも、現行の教育が、サラリーマンを育成するためだけの教育である事を証明している。
 つまり、ニートやフリーターと自営業者や個人事業者との決定的な差は、前者は、経済的に自立するのが難しいのに対し、後者は、経済的に自立しているという事である。

 本来なら、自立できるような教育をすべきなのである。そうすれば、人生に対するいろいろな選択肢が増える。ところが、受験制度の中で、子供達を一方方向に走らせることばかりに専念する。だから、ゴールしても自立できない。

 十五から二十歳というのは、人生において重要な時期である。その一番自立に大切な期間をひたすらに、試験勉強をする。それで自律が促せるはずがない。昔は、十五になれば元服をさせ、一人前の大人としてあつかった。家の仕事を手伝い。また、仕送りもした。しかし、今は、猫も杓子も受験である。それでいて、肝心な話からは、除外する。成人した後も子供扱いである。家の建て替えや転職の際、子供の意見を聞く、親はいない。子供の進学だって、親や先生の意見の方がまかり通る。子供に自律せよと言う方が間違っている。
 若いうちにこそ手に職を付けなければ、手遅れになる。自覚して、自分で何でも決めるように仕向けないと変になる。一定の年齢を過ぎたら、生き方を変えるのが難しい。

 価値観の多様といいながら、単一の方向に向けている。以前の社会の方が、余程、価値観の多様性に対応していた。

 一戸の家を建てるにしても、建築士だけが必要なのではない。大工も左官も建具師も瓦師、畳職人、配管工、電気工事人、高層建築なら鳶職も必要であり、庭があれば、庭師も必要だ。しかし、今の教育が認めているのは、建築士とサラリーマンだけである。建築士以外は、必要でもないような教育である。しかし、建築士だけでは家は建たない。実際の仕事をするのは、むしろ建築士以外の人間の方である。

 現代社会は、不当に結婚や主婦業を低く評価する。低く評価するどころか否定的ですらある。その為に、不幸な結婚が増えている。不幸な結婚が増えると、更に、結婚を卑下する。悪循環である。その結果、少子高齢化であり、家庭崩壊であり、ニートであり、引き子守である。自分で火をつけておいて、自分で煽っていれば、せわがない。典型的なマッチポンプである。夫婦の絆を断ちきっておきながら、離婚が増えたと記事にする。それが、現代社会の報道の正義、公正である。

 結婚と育児は、本源的な仕事である。崇高な仕事である。しかも、女性にしか味わえない至福の喜びである。それが、現代女性に対し否定されている。今や主婦や母性は、同性からも敵視され、侮蔑の対象になっている。社会的に自立できない女性は、女性どころか人間としてすら認められていない。これは、明らかな差別である。主婦という言葉ですら使ってはならないと言う。過激な女性解放論者は、そのうちに、お母さん、お父さんという言葉も否定するのだろう。馬鹿げている。これほど、酷い言論弾圧はかつてない。そのために、女性は、家庭にすら行き場を失った。
 大体、社会的自立とは何か。専業主婦は、社会的に自立していないというのか。酷い差別である。母親や専業主婦を侮辱している。
 家庭内の在り方の問題を女性の本源的在り方の問題とすり替えている。家事や育児に喜びを感じている女性は、馬鹿だというのであろうか。家庭外の仕事に向いていない女性は、間抜けだというのであろうか。家事は、誰にでもできる間の抜けた仕事だというのか。だいたい、家事を仕事として認めてないではないか。女性蔑視も甚だしい。家事ほど、プロでなければできない仕事はない。総合的で万能の仕事である。家内労働こそ、不当に差別されてきた。家内労働は、女性にしかできないという事こそ間違った認識である。しかし、出産と育児は違う。最も女性的であり、かつ、人間にとって本源的で崇高な仕事である。母親が、安心して育児に専念できる社会こそ、望まれる社会である。
 行き場を失い、社会からも締め出しをくった女性は、ニートとなるか、引き籠もるしかない。女性が家庭の外に仕事をしてはならないなんて言わない。むしろ、いろいろな社会経験を積むのは、有意義である。女性の方が優れている分野も沢山ある。だからといつて、母親や主婦を差別する理由には成らない。家内労働を不当に蔑む理由にもならない。

 学校を出て、一流企業や官庁に勤めることだけが人生ではない。また、学校を出ていないで、一流企業にも官庁にも勤めていない者でも、幸せになる、一流になることはできる。進学しなかった人間は、駄目な人間だと決めつけるのは、傲慢である。

 馬鹿でも間抜けでもない、むいていないだけの話である。今の社会、組織にむいていないだけだ。ならば、組織に所属しなくても生きていけるようにすればいい。サラリーマン全盛以前の社会では、当たり前だった。自律できない者は、奉公に出されたのである。今は、逆である。

 反体制を気取ろうと根本は同じ。象牙の塔から、頭だけでこねくりだした理論で、社会を批判する。自分は、安全なところにいて、いくら批判したところで、自律できない人間には、何の影響力もない。世の中が悪い、社会が悪いと言って、自立できない人間を増長するだけである。結局彼等も自分達のヒエラルヒーを作ってその中に安住している。
 そうこうしている内に、職人の世界も、個人事業の世界も、どんどん学校化され、サラリーマンでしか生きられなくなってきた。
 育児や出産は、蔑視され。母親や主婦は、社会的に孤立していく。そして、離婚率は、増し。家庭は崩壊していく。愛のない社会がやってくる。
 家族は、自立の源である。家族が崩壊すれば、否応なく、何らかの組織や社会に依存しなければならなくなる。彼等の狙いはそこにある。何から何が解放されるというのか。

 結局、体制派も反体制派も何らかの形で組織に依存しなければ生きていけない人間を育てている。それは、自由教育でも、多様化でもない。単一化なのである。

 自立できないように育てる一方で、組織に適合できない者を受け入れる社会がない。だから、彼等は、あぶれだし、定職に就かないか。引き籠もることになる。それは、一方で人手不足を引き起こし、もう一方で、人余りを生み出している。それは、社会や個人双方のニーズ、必要性を無視した教育をし続けた結果である。

 根本に愛がないのである。思いやりやいたわり合う心がないのである。優しさがないのである。特に、母の愛を否定したところに現代社会の行き着く先がある。

 生きられないと思うから死んでいく。生きられさえすれば、オタクであろうが、引き籠もりであろうが、ニートであろうが、かまわない。生きられないのであるならば、東大なんて出ても仕方がない。だから、要は、生活力だ。生活力さえつければ、自由に生きられるのである。
 生活の本源は、家族にある。だからこそ、ニートも引き籠もりも家庭の中にしか救いを見いだせないで、家から出ようとしなくなるのである。それなのに、家庭を否定する。家庭を否定される。どうすればいいのか。どこへ行けというのか。

 親に依存してしか生きられないのに、親に依存していることが許されない。だから、親に反発する、酷い時は、暴力をふるう。家を出るに出られずに、その責任を親に求める。絶叫である。しかし、親にも子にも解決する能力がない。ますます、内に籠もる。
 それは、子は親に、親は子に、依存しているからである。お互いが独立した関係であれば、お互いを労るゆとりが出てくる。要するに、ゆとりがないのである。
 なぜ、こんな風に育てた、自立できないように育てたと親を責めたところで、何も解決できない。育て方を間違えたと嘆いても何にもならない。それが、この問題の根深いところである。
 家庭にしか行き場、逃げ場をなくしておきながら、家庭の中の人間関係を切り裂き、家族と家族を対立させている。それが現代社会である。
 家族を否定しても意味がない。家庭こそ、最後の砦。家族を大切にすれば、救いが見えてくる。家族は、愛の根源なのである。

 自立しよう。学校を飛び出して、自立しよう。学校が作り出した社会を飛び出して自立しよう。生きる道を自分達の手で、切り開こう。

 一軒の家を建てるのだって建築士一人で建てられるわけではない。大勢の職人や大工がいるから建てられる。建築士一人では何もできないのである。女一人、男一人では家族はできない。なぜ、人と人とを背かせ対立を煽る必要がある。結婚をしよう。家庭にはいることは恥ではない。一人経済的に自立するだけが、能ではない。助け合って自立しよう。人は人を必要としている。新たな家をつくり、自分の居場所を見つけだすことである。幸せになることである。





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