大   学

 大学は、専門家を育てる機関である。
 大学は、スペシャリストを養成するところである。ゼネラリストを養成するところでもなければ、そのノウハウもない。
 ゼネラリストを養成するのは、現実の社会である。

 中卒、高卒が経営者となり、大卒が、その専門知識を生かした補佐をする。なぜならば、大学を出ていない人間は、専門知識がなくても、世の中で生きていく実力がある。現実の社会は、知識より経験がものをいうからである。

 実力がある者は、早く社会へ出て社会の役に立ちたいと思うものである。また、人間関係や、取引、駆け引きを覚えて一人前の社会人になりたい。実際に、以前は、家が貧しい家庭は、早く社会に出て、家計を少しでも楽にしたいと考えた。役に立たない学問は、仏様だと考えた。それが健全な発想である。意味もなく、進学するのは、時間の無駄である。学問を過大に評価しすぎる。
 角界では、それが常識である。相撲の社会では、自分が現役で相撲を取れる時代が限られている。だから、尚更のこと、はやく土俵に立ちたがるのである。しかし、それが、本来の社会の在り方である。

 学問には、学問の目的や役割がある。しかし、それは、万人に必要な者ではない。ごく限られた者に必要な事である。教育というのは、学問を教えることではない。生きていく為に、必要な事を学ぶのである。学問は、教わる者ではなく、学ぶ者である。学ぶことができない者は、大学へ行くべきではない。受験勉強と大学時代という人生における最も大切な時間を無駄にするだけである。

 仕事に必要な事を良く知っている人間に出逢うと、あの人は、よく勉強していると誉める。しかし、仕事に必要な事でないことばかり知っていて、肝心の仕事な関する知識や経験、技術が乏しい人間を、現実の社会では、よく勉強しているとは言わない。ハッキリ言って馬鹿である。しかし、学校は、正反対である。要するに、馬鹿を育てるのが、今の学校である。だから、本当に実力のある人間は、大学に行かない。いく必要がない。必要があるとしたら、卒業証書と資格だけである。ところが、現代社会は、学歴で差別する。だから、必要もない人間まで、大学を目指すようになった。それが間違いなのである。

 養老孟司も「馬鹿の壁」の中で言っている。大学へ行くと馬鹿になるといわれたと。それは、以前は、社会の常識だったのである。職人のなるのに学問はいらない。一つの慧眼である。学問をしたからといって世故に通じるわけではない。世間知らずになるのおちだ。不必要に理屈ばかり覚えて、道理の解らない人間になっては困る。ならば、職人に学問はいらない。

 昔の親は、大学なんて行く必要はない。嫌なら行くな。大学なんて行かないで働けと言い切っていた。立派である。親としての義務と責任を果てしている。今の親は、大学を出せば、自分の責任は、果たせると思っている。実に無責任である。子供の人生に全く責任を持っていない。大学に行きさえすれば、後は、のたれ死んでも知らないと言っているようなものである。

 それに、大学には、行く気になればいつでもいける。一度社会に出てからでも遅くはない。働きながらでもいける。学を志せば、いつでも行ける。大学とは、そう言うものだ。義務教育とは違うのである。

 社会経験の方が、書物から得る知識より実社会には、有効である。その暗黙の了解がある社会は、健全である。そこから、男は、度胸という発想が生まれるのである。また、教育制度の弊害がはびこる以前に作られた制度や実力的社会では、学歴よりも実力が優先されている。
 例えば、政治の世界では、ゼネラリストは、選挙で選ぶ。そして、実際の行政は、スペシャリストたる官僚が補佐する。それは、民主主義を作り出してきた先人達の洞察である。学問ばかりでは、世間の事情に通じるのは、難しい。なによりも、世間で苦労することだ。経験を積むことだ。だから、学歴で為政者を決めるのではなく、選挙で決めるのである。しかし、専門知識を必要とする行政は、官僚にやらせる。それが、民主主義なのである。

 軍隊で言えば、軍事大学を出た参謀が、現場のたたき上げの司令を補佐する。参謀が、司令官を差し置いて実権を握ると、軍は、暴走する。

 スペシャリストを育成するのでありから志望がハッキリしていなければ何にもならない。

 何を学びたいか、どのような仕事に就くかを、明らかにする必要がある。ところが、現実には、どの大学に入れるかが基準になっている。

 中学や高校で、先生が生徒の相談に乗ってやるのは、どの学校には入れるかではなくて、どんな生き方がしたいか、どんな仕事をしたいかである。つまり、夢であり、志望である。その夢や志望を実現するために、進学すべきか、否かを、話し合うのである。
 最初におまえが入れる学校はここだ、ここしかないというのは、教育的ではない。教育の目的に反する。逸脱である。夢も何もない。話にならない。
 しかし、学校というのは、非常識な社会である。世の中の常識が通用しない。だから、将来の話をする時、いきなり偏差値である。そのとたん、心ある子供、当然、話にならないと思う。話し手も仕方がないと思う。夢が壊されてしまう。受かるから、大学へ行くのではない。自分がやりたい事、夢を実現するために必要だから大学に行くのである。この道理が、学校では通用しない。だから、子供達は、道理を信じなくなる。道理が、信じられなくなる。そう言う風に学校が教えているのである。その上で、いくら先生が道理を説いても無駄である。盗人が説教をしているようなものであり、誰も聴きはしない。

 受験勉強をする前に、ハッキリさせるべきなのは、志望校ではなく。志望学科、志望教科である。そして、進級する必要がなければ、受験勉強などする必要がない。もっと有意義なことに時間を割くべきである。ところが、進学しない生徒に学校は冷たい。というより、何を教えて良いか解らない。つまり、現行の学校は、本来の目的を忘れているのである。

 志望がハッキリしていなければ、大学で何を学んで良いのか、迷ってしまう。大学は、教育機関と言うより、学習機関であるから、自分で、学習計画を立てる必要がある。志望がハッキリしなければ、学習計画は、建てられない。結果、学生生活を無為に過ごすことになる。受験勉強も無駄になる。、結局、受験勉強中は、役に立たない勉強で無為に過ごし、大学に入ってからは、遊び狂って無為に過ごす。つまり、人生で一番大切な時期を無為に過ごすことになる。その先は、人生の目的が見いだせずに、就労や正業に就くのを拒否し、ニートやフリーターになる。
 自分の犯した過ちが大きければ大きいほど、その過ちを認めにくくなり、その行為を正当化するというが、受験勉強の結果は、支払った代償が大きすぎる。だから、最大の被害者であるはずの受験生も自分の過ちを認めようとしない。
 結果、被害者も加害者も自分の過ちを認めずに、被害を大きくする。しかも、同じ過ちを繰り返し続ける。結果的に、受験戦争の被害者は、増え続けることになる。

 スペシャリストを育成するのであるから、専門化、特殊化するのが筋であり、標準化、平均化したら、意味がない。だから、普通の学校へ行っても意味がない。中学をでる頃には、自分の志望、将来の仕事を意識させるべきである。職人にするならば、早く良い師匠を捜すべきである。

 そうやって教育の役割や分業ができあがっていれば、引きこもりやニートは、かなり防げるはずだ。大学の働きもハッキリする。子供達の個性や自主性も発揮できる。全てが、同じ方向に走ることが異常なのである。

 家を建てるのも建築士だけが必要なのではない。経営者も必要である。大工の棟梁も、大工も必要である。建具師や畳職人も、左官も必要である。庭が欲しければ、庭師も必要である。瓦師も必要である。ところが。今の大学は、建築士しか育成しようとしない。大学とはそう言うところである。建築士の仕事などほんの一部である。一戸建て家など本来、建築士がいなくても建てようと思えば建てられる。ただ、社会が許さないだけだ。しかし、教育制度が、大学へ行くことばかりを目的とすれば、世の中から、建築士以外いなくなる。だから、大学ばかりを重視すれば、世の中が偏るのである。

 大学出でない人間が差別されている。大学を出ていないと人間扱いもしない。特に、教育の現場では、大学をでていなければ、職にも就けない。

 しかし、人生経験が豊富で、人格的に優れている者は、誰でも、教育者になる資格はある。教育課程を卒業しても、変態だったり、人格的に問題がある者よりもずっと教育者としては適格である。

 この様な差別を放置して、いくら教育改革を叫んでも意味がない。企業は、必要な人間は、自分達が育てればいいのである。ならば、大学を出ていない人間を自分達の教育システムで育てた方が、どれ程有効なことか。社会が毅然としなければ、学校に任せきっているかぎり、教育の弊害はなくならない。大学の卒業証書に価値を見いだしている限りなんにもならない。卒業証書をありがたがっているから、悪循環になる。卒業証書ではなく、人を評価すべきなのである。
 その上で、専門家を専門家として遇する道を考えるべきなのである。






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