成   長

 人の一生は、過程である。この過程に沿って教育は、施されるべきである。

 プロスポーツの選手の成長過程は、成長の典型である。十代は、練習をしなくても伸びる。二十代前半は、練習をすれば、伸びるが、練習を怠ると衰え始める。二十代後半は、練習しても横這いである。三十代前半は、鍛えていて現状維持がやっとである。三十代後半にはいると、鍛えていても衰えていく。

 人間の成長の過程は、どうしようもない、個人差もどうしようもない宿命なのである。この宿命を認めずに皆、平等だとかいっていたら、教育はできない。成長を無視したら、その影響を被るのは、子供達なのである。

 現行の教育は、この成長の過程に沿って行われているように見えて、実際は、成長を無視している。教育のプログラムに変化を持たせているのに過ぎない。全国一律の教育をしようとしている。共通一次や偏差値はその現れである。
 子供達の成長を一つの基準で測ることはできない。教育の現場に携わる者の経験と勘に頼るしかないのである。だからこそ、教育者は、尊いのである。教育は、流れ作業のようにはいかない。

 成長には、個人差がある。成長には、方向がある。この個人差や方向を無視したら、健全成長を妨げる。肉体の成長に、個人差があるようなものである。この個人差を無視して、洋服のサイズを統一しようと言うのは、無茶苦茶な話である。昔、日本の軍隊で、足を靴のサイズに合わせろなんて無茶があったが、教育で個人差を認めないのは、それ以上に無茶苦茶な話である。

 また、社会も個人の成長や個性に対応できるくらい本来多様である。多様でないのは、学校である。それなのに、学校は、更に一律にしようとしている。


 成長には、速度と方向と質がある。この速度と方向と質は、一人一人違う。また、成長には、段階がある。一つの段階を通過するのには、個人差がある。一つの段階を習得するやり方にも個人差がある。早く通過すればいいと言うのではない。教育というのは、成長の段階や個人差に応じて適切な指導をすることである。故に、教育の基本は、観察と指導なのである。
 一つの段階を三年で通過する者がいるかも知れない。また、同じ段階を五年かける者が居るかも知れない。だからといってどっちが優れていて、どっちが劣っているかは、解らない。そこには、取得したものの質的な差があるからである。

 人間の成長の方向は、適正と能力と意欲によって定まる。適正は、配置に、能力は、評価に、意欲は、学習に反映されてはじめて効果が発揮される。

 馬鹿でも、間抜けでもない。ただ、むいていないだけである。

 子供達一人一人をよく見て観察する事が教育の原点である。教える事ばかりに気を取られて子供達を見るゆとりがない。教わる側にゆとりがないのではなく。教える側にゆとりがないのである。ゆとり教育というのは、休みを増やすことではなく。子供達を観察するゆとりを持つと言う事である。

 それを同じ期間、同じやり方、同じ評価の仕方で教育しようとすることが間違いなのである。先にも言ったように人の成長には、個人差がある。それも、一律に大きくなるわけではない。足だけ大きくなる子もいれば、急に身長が伸びる子もいる。それを全く同じ服、同じ靴で統一しようとするのが、土台無茶なのである。

 成長や発育に合わせた教育をするのが、当然なのである。故に、教育は、育児の延長線上で捉えるべきである。全ての始まりは、幼児教育にある。

 学校は、全員が同じ歩調、同じ、速度、同じ質で成長することを求める。しかし、子供の成長は個人差がある。子供達は、合わせようがないのである。合わせるのは、教える側である。指導、教育は、個人差に応じて為されるべきなのである。

 この個人差は、統一することはできない。生まれた日や時間を統一することができないように、最初から無理である。同等ではないのである。

 一人一人の個人差に合わせたら、人手がいくらあっても足りなくなると言う者が出てくるかもしれない。しかし、スポーツ教室やクラブでは、それが、当たり前に成されているのである。学校でできないと言うのは、最初から学校は、子供達の教育を放棄している。諦めているという事になる。学校に行きたがらない子供が、喜んでスポーツクラブに行くのはなぜか。それは、先生が子供達を見ていないからである。

 先輩も親も兄弟もいる。先生一人で、学校だけで教育しようとするからできなくなるのである。教育は、チームワークである。元々、集団で組織的に行うものなのである。

 教育の根本は、観察と個別の指導である。勉強は、子供達にさせればいいのである。そして、集団の統率は、先輩にさせればいいのである。指導や統率から、子供達は、多くのことを学ぶ。先生一人でやろうとするからできない。家族や社会の協力なくして教育はできないのである。そのことを肝に銘じるべきである。

 子供が向いている方向と、教えるようとしていることの方向が一致していない時、教わる側は、困惑し混乱する。そして、好奇心もやる気もなくすのである。

 人生において十五から二十歳までは、一番大切な時期である。いろいろな経験を積む、見聞を広め、人格を磨き、教養を高める最良の時期である。それでいて繊細で、難しい時期でもある。この大切な時間を今の学校中心、それも、受験勉強中心の生活を過ごさせて良いのであろうか。逼塞した世界に置いておいて良いのだろうか。
 一度社会へ出て、いろいろな社会経験を積ませた上で、高校や大学に入り直させても良いはずである。一目散に大学ばかりを目標にして、脇目もふらず、ひたすらに走り続けさせることが、当人にとっても社会にとっても良いことなのであろうか。スポーツ選手が良い例である。成功をし名を遂げてからこそ、勉強のしがいがあるというものである。しかし、その時、受け入れてくれる学校はない。あったとしても、一からやり直しである。

 かつては、十五歳には、元服して大人と見なされた。一人前の責任を与えられ。自分の生き様人生に責任が持たされた。しかし、今は、二十歳になっても子供扱いだ。成人とは名ばかり。だから、成人しても大人に成りきれない。教育は、大人にすることである。

 先ず第一に、生きられるようにすることである。身過ぎ、世過ぎ出きるようにすることである。生きられないなら大学など出ても意味がない。やれ、引き籠もりがどうの、正業に就かないのと言うが生きられれば問題ない。生活ができないから問題なのだ。しかし、成長を無視した、個人差を無視した教育では、生活力のない成人、つまりは、大人に成りきれない成人ばかりを増やすことになる。

 人の一生は、道程である。古来、日本人は、教育を道にたとえた。教室は、社会である。人生は、道場である。そこから、武道、華道、茶道が生まれた。そして、それらが、日本の教育の原点なのである。





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