教育の基本は、真似(マネ)である。

 反復、繰り返し、物まね、フィードバック(反応)、実行から教育は始まる。
 戦後、個性が強調され。真似は、悪だという風潮がある。しかし、個性は、真似によって殺されはしない。むしろ、他人を、まねるから個性は、強調される。絵画の勉強で、人の絵を映すことが重視されているように、教育においてまねることは重要だ。悪いのは、真似た振りをすることだ。

 マネには、模倣という意味がある。模倣した物を真だと偽(いつわ)れば、それは、偽物、模造品になる。しかし、それは、模倣を真だと偽る(いつわる)から、偽になるのである。マネは、マネである。真似たからといって、直ぐに、偽になるとは限らない。真似というのは、真似た後が、問題なのである。

 真似には、手本が必要である。手本がなくて真似るのは、単なる物真似に過ぎない。物真似が悪いというのでは、まねる対象が、手本となるかどうかが問題なのである。悪い事を真似れば、当然、悪くなる。何を、真似るかが、重要なのである。
 真似で問題なのは、真似た物がよい手本か、悪い手本かである。そこに価値観がある。意思が働く。最初が肝心なのである。

 つまり、真似ることが悪いのではない。物まね、猿まねといわれようが、真似る物が良ければ、それは、それでいい。ただ、悪いと知りながら、真似るのは、明らかに間違いである。その点、戦後の日本人には、後ろめたさがある。つまり、アメリカを真似たのは、心から、アメリカが良いと思ったからではない。戦争に負けたからである。戦後の知識人の卑屈さ、その後ろめたさから、発しているように思える。

 手本とは、ある種の理想像である。戦後の日本人は、この理想像を打ち壊し、ただひたすらにアメリカの真似をした。しかし、それは、アメリカを手本にしたわけではない。ただ、物まねをしただけなのである。

 アメリカに対して割り切れない思いを持ちながら、アメリカの考えを手本として受け入れた。まるで、強姦されて、愛人にされたようなものである。それでも、長年連れ添っている間に、愛情がわくようになる。為した子は、父親と慕うようになる。
 しかし、知識人は、違う。アメリカに媚びながら、反米である共産主義を装う。彼等は、正義面をして、国民を欺いてきたのだ。そして、彼等が、教育とメディアを担ってきたのである。日本の文化が、卑猥になるのも解る。

 その証拠に、戦後の知識人、特に、焼け跡派と称した無頼漢(自分達で無頼の徒と称しているのだから)は、何を手本とすべきかを示さないで、何かというと欧米を引き合いに出して自分を正当化する。彼等は、戦時中は、軍国少年で、戦後は、一転して、自由主義者となり、次に、左翼をきどって、その裏で金儲けをした。自分達は、戦争の最大の被害者だと思い込んで、旧世代を非難する。

 アメリカを真似しながら、アメリカを無批判に受け入れてきた。その裏で、アメリカの矛盾を暴き立ててきた。手本を手本としながら、その手本をこき下ろしてきたのである。だから、日本の民主主義は、物まねに過ぎない。しかも、キッチンと手本を受け入れたのではない。
 どことなく、薄汚さを感じる。だから、民主主義も薄汚くなる。
 自分の考えを明らかにしないで、他人の欠点ばかりを上げへつらうのは、戦後の知識人の悪癖である。

 アメリカを手本としながら、理想とはしなかった。理想を持てといいながら、理想を否定するようなものである。それでは、まるで詐欺だ。

 アメリカを手本とするなら、するで、そのことを明確にすべきである。そして、アメリカの歴史や建国の精神、アメリカ型の民主主義の原則、アメリカの制度や仕組み、基礎となる思想や考え方の特徴などを学び、同時に、我が国の歴史や仕組みとを比較しながら、我が国の民主主義を確立すべきなのである。特に、アメリカは、コモンローの国である。この点を抜きに、アメリカの民主主義は語れない。
 その上で、物まねから脱し、我が国独自の民主主義体制を構築すべきなのである。人の振りみて我が振り直せである。それも、真似である。

 リアリズムといって、この世には、完全無欠な者はない。尊敬できる人はいるはずがない。人は、皆汚いものだ。特に、日本人の中には、手本なんてないと、ことさら、人の失敗や欠点を上げへつらい、こき下ろす。たしかに、どんな人間にも欠点があるかも知れない。多少の演出や誇張があるかも知れない。美化しているところがあるかも知れない。実像とは、違うかも知れない。しかし、それが、どうしたというのか。手本は、手本である。手本として、どうあるかである。

 手本となるものを示さず。人間不信になったり、やけくその人生を送らせたいならば、人間の汚いところ、悪いところばかりを見せ。無頼の輩を手本にさせればいい。それをリアリズムというのならば、リアリズムの意味をはき違えている。現実をみろというのならば、荒れた教育現場を見ろ。引き籠もりやニートの現実を見ろ。成人式の現実を見ろ。それが、リアリズムだ。

 学習の根本は、真似である。マネとは、写すことである。
 基本的に子供達は、大人を真似る。つまり、子供の社会は、大人の社会を反映している。また、自分達が日常的に接している、身近な物を真似る。今なら、テレビや漫画を真似る。成人式で、行儀が悪い。自覚が足りないと責めるが、それは、大人を真似ていることだ。

 今のマスコミは、マッチポンプだ。自分で火をつけ、煽っておいて、火消しをする。自分達が幼児期から、悪い手本を与えておきながら、それで、態度が悪いと責め立てる。自分達が、手本だと持ち上げているコメディアンの風体、行状を見れば、成人式を批判することはできまい。

 何でもかんでも、芸術の名の下に正当化するのは、言論の自由を冒涜することであり、言論の自由を自らが葬り去ることを意味する。結局、金儲けのためではないか。それならば、それで、金儲けのための話題作りだと明らかにすべきだ。それが、戦後の知識人の薄汚さなのだ。

 教育の原点は、ごっこ遊びである。戦争中は、戦争ごっこ。平和な時は、おままごとに、鬼ごっこ。テレビの発達した今は、漫画のヒーローの真似をし、テレビの主人公になるすます。キャラクター商品は、飛ぶように売れ、ヒーローは、子供のあこがれになる。テレビ番組のヒーローが言う事ならば何でも聞く。人気キャラクターの名前は、二、三歳の子供でも簡単に覚えてしまう。

 子供達の手本を生み出しているのは、我々大人なのだという自覚を強く持つ必要がある。金儲けが悪いとは言わない。ただ、送り手は、その影響を自覚すべきなのである。いじめや学級崩壊を生み出しているのは、何も学校だけではない。社会全体である。

 親の背中を見て育つ。親も、子の手本になるように身を律した。
 子供、特に、幼児は、大人の真似をする。
 親は、子供に真似されて恥じない生き方をすべきなのである。社会は、子供に真似られて困らない社会にすべきなのである。
 自分が手本となるような生き方をせずに、子供が悪くなるのは、世の中の性だとするのは、卑屈であり、卑劣である。
 自分の子供に見せられないような物を作って芸術だというのは、おこがましい。先ず、親は、大人は、教師は、自らの襟を正すべきなのである。

 その為には、自分達の理想像を明らかにし、それを写すようにさせるのである。そして、自分も、その理想像に近づくように努力するのである。かつて、日本の歌舞伎も、浄瑠璃も、浪花節も浪曲も、落語も講談もその時代の価値観を反映していた。現代のテレビや映画、漫画は、我々の時代の価値観を反映している。暴力やどぎつい性描写を是としているかぎり、暴力や性犯罪が横行するのは、防げない。
 それを芸術と称するのは、芸術に対する冒涜である。芸術とは、表現である。では、過度の暴力やどぎつい性描写で何を表現したいのか。人間に対する底なしの絶望感なのか。ならば、人間に対して絶望させることが目的なのか。そして、自分の人生を否定させることが目的なのか。暴力を美化し、賛美することが目的なのか。ならば、なぜ、同じ人間が、暴力反対を言うのか。

 現代社会は、悪い手本ばかりである。それは、社会が、それで良しとしているからである。それで、子供達を責めるのは、お門違いである。ただ、世の中は、悪くなる一方である。

 犯罪者、無頼漢、異常者、変態を美化し、賛美すれば、犯罪は、はびこるに決まっている。アンチモラルを是とすれば、道徳はなくなる。形式を無闇に否定すれば、礼節が失われるのは、必然。優等生ばかりをもてはやせば、徳は、廃れる。金ばかりを尊べば、金だけの世界になる。欲ばかりを教えれば、愛情は失われる。金を卑しめば、経済が成り立たない。世の中が選んだ手本通りの社会になる。それが、道理だ。道理を教えなければ、道理すら解らなくなる。道理が解らなくなれば、世の中の乱れの元を理解することができなくなる。世の乱れを正すことができなくなる。

 清く、正しく、美しく。その手本を作り出し。それを真似させ。写させる。それこそが、教育の原点である。その為には、自分達が与えた手本に責任を持つ。戦後の日本人は、戦前に子供達が与えた手本が悪かったと思いこんでいる。思いこまされている。しかし、だからといって手本を示さないのは、自分の責任を回避しているに過ぎない。要するに、薄汚い負け犬根性である。
 子供に見られて恥ずかしいと思うような生き方をすべきではない。堂々たる人生を歩むべきなのである。そして、それが、一番の教材なのである。
 凛として生きよう。それを見て、子供達も凛となる。





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