平等と同等



 全ての人を一律同等に扱うことは、階級格差を生じさせる。なぜならば、一人一人の人間は、それぞれ、固有の属性をもつからである。

 天は、人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。人間の平等は、所与のもの、先天的なもの、普遍の原則であるがのごとく学校では教える。しかし、現実は違う。現実の社会は、違うことを皆、知っている。人は、皆違う。違うからこそ、自己がある。そして、それぞれの役割が生じる。問題なのは、その違いによって差別されることなのである。違いは、原因であり、差別は結果である。これを見極めないと、重大な過ちを犯すことになる。同じ原因から、同じ結果が導き出されるとは限らない。ある原因から、間違った結果が導き出されたら、その過程にのどこかが間違っている。問題なのは、何処で間違いが生じたかを明らかにすることである。
 大体平等と同等とは違う。それすら解っていない。人間が平等というのは、その存在、自己の存在においてである。確かに、それは、所与のものである。しかし、平等の権利となるとこれは違う。平等の権利となると、それは、存在から派生する権利であるが、同時に、反対方向に、義務が派生する。そして、権利と義務は一対で成立する。その上、権利も義務も与えられる物ではなく、獲得する者である。故に、それは、所与のものではない。更に、同等となるとこれも違う。
 同等論は、人間の分業を否定する。つまり、人間の持つ属性は皆違う。故に、その属性に応じて人は、分業する。同等論というのは、この属性を等しく見ようと言う考え方である。これは、平等に反する。なぜならば、人の属性は皆違うのであるから、外形を等しく扱おうとすれば、内面は平等でなくなり。内面を等しくしようとすると外形は、不平等になるからである。

 平等は、自己存在の絶対性から派生する概念であり、同等は、自己の属性から派生する相対的概念、同一のレベルでは語れない概念である。

 現実の社会生活では、何を信じ、誰に従うかが重要な意味がある。しかし、現代の学校ではそれは意味のないことである。つまり、教師を除いて、学校では全てが平等だと教えられるからだ。それでいて、学年は、絶対的なものである。学年が違えば、天と地ほど差がある。ただ、これを差別だと思っている人間は少ないが。この意識は、学校を卒業してもついて回る。
 学校の中では、人間関係なんて、毛ほどの価値もない。多くの教師は、処世術などというものは、下世話で、卑しいことだと思っている。すくなくとも、学校で教えることではないと考えている。

 学校では、人は、皆、同じだと教える。だから、皆、平等にしなければならないと教える。しかし、子供でも人は、皆、違うことはわかる。だから、平等の意味が分からなくなる。人は、皆、違う。だから、平等に扱う必要が出てくるのだ。

 一つのクラス、学年では、生徒は皆平等であり、人間関係などあまり意味を持たないと考えられている。これは、真の意味で平等ではない。同等である。

 あるのは、成績と学年だけである。成績によって差別し、落第点をつけることによってによって罰する。全ての価値観は、成績と学年によって要約される。それによって人生の進路までが決せられるのである。そんな馬鹿げた話はない。同等に扱うことによって成績と学年による差別が生じている。そのことに気が付いていないだけである。

 平等と言うことと同じと言うことは違う。ところが現代の学校教育では、同じと言うことと平等と言うことを混同している。そして、全てを同じに扱おうとして不平等が生じていることに気がついていない。

 女性を子供を産む機械と発言して顰蹙(ひんしゅく)をかった大臣がいる。この様な発言は、言語道断である。この大臣に限らず、男性一般に女性を蔑視する傾向がないかと言われれば、否定しきれない。自分も女性を蔑視しているつもりはないが、相手がいることであるからないとは言いきれない。ただ、それが実害がある場合は、許されるべきではない。女性に対する不当な差別は、徹底的になくさなければならない。それは議論の余地はない。それでも、あえて、男と女は違うといわざるをえない。
 黒人の差別撤廃運動にも二通りある。一つは、黒人も白人と同等の立場を勝ち取ろうという思想であり、今一つは、黒人は、黒人独自の立場を勝ち取ろうという思想である。前者は、本来主流的な思想であるが、白人同化思想ともとれる思想であるのに対し、後者は、ベトナム戦争を契機に黒人本来の文化を見直そうという機運の中から、ブラック イズ ビューティフルという合い言葉によって象徴されるように発展してきた。これを女性解放運動に置き換えれば、男と女の違いを認識しつつ、女性の立場を確立しようという事になる。むろん、だからといって現に存在する差別をないがしろにして良いというのではない。女性という理由だけで差別を受けるのは不当である。しかし、男女のトイレをなくすとか、旅行や合宿の時、一つの部屋で寝起きをするというのは、行きすぎだし。教育上において、男の子や女の子をまったく区別をしてはいけないというのも行きすぎである。それは、一人一人の個性をまったく認めてはならないというのに相等する。

 平等と同等は違う。
 自然の法則は、平等である。しかし、運動能力や肉体的特徴は同じではない。運動能力や身体的特徴に合わせて教育すべきである。人間の能力や体格に差があるのは当然である。能力や体格を無視して教育すれば、心身を痛めつけてしまう。人の成長はそれぞれ違う。それを一律に扱うことは危険なことである。成長段階を無視して教育すれば、成長に齟齬が出る。平均や標準は、極端な話、誰にも適合いない。平均や標準という概念を教育に持ち込むべきではない。それは、全ての人間に適合しない教育を施すことである。

 違いを認めた上に平等がある。だからこそ、権利と義務が成り立つのである。もし、同等と平等を同一視すれば、権利も義務もなくなってしまう。なぜならば、一人一人の違いや差を認めないからである。
 男女同権の危険性はそこにある。男女同権というのは、男と女の違いを認めたところに成り立つ。つまり、男らしく、女らしくすることである。男と、女の長所と欠点を対等に捉え、それを認めあい、そのお互いの長所を伸ばし、欠点を補い合うことから成り立つのが、男女平等である。男と女を同一に扱うことではない。男と女を同一に扱ったのでは、男の権利、女の権利、男の義務、女の義務を相殺してしまう。それは、女の男に対する劣等感が為せることである。女にできて、男にできないことはいくらでもある。そして、そこにこそ女の権利の源泉がある。女と男がどうかしてしまえば、権利も義務もどうかしてしまう。それは、新たな差別を生み出すことである。

 男と女の差や肉体的、能力的さを認めることが、即、差別だと考えるのは、お門違いである。差別というのは、物理的・肉体的差を指して言うのではない。それによって社会的な待遇や処遇、権利に差が生じることによってはじめて成立する。逆に言えば、男と女の肉体的な差を認めずに同等に扱うことは、差別なのである。要は、個体差というものを認め、その上でその差をいかに緩和するかが、本来の平等の在り方なのである。

 近代スポーツは、平等主義を追い求めてきた。その近代スポーツを見れば解る。
 男女を同等に扱っている近代スポーツはまだない。なぜならば、それが女性に圧倒的に不利になることが明らかであり、平等の精神に反するからである。
 プロスポーツやオリンピックの世界でも、女子の活躍はめざましい。また、女子の方が男子よりも人気のあるスポーツも沢山ある。それは、男女差を認めた上で極力男女差がハンディにならないように制度化した結果である。また、この様な制度は、体重差やゴルフのハンディキャップ制にも現れている。それを差別という人間は少ない。いるとしたら、過激な男女同権論者ぐらいであろう。

 だからといって、私は、男尊女卑を是とするわけではない。男性蔑視であろうと、女性蔑視であろうと根拠があるわけではない。むしろ、男と女が置かれている立場と、その捉え方にこそ問題があるのである。それは、従来のまた、既成の家族制度の構造的欠陥でもある。

 大体、男と女どっちが優れているかなどと問題にすること自体間違いなのである。それこそ、差別の根源である。男と女の優劣を競うのではなく、お互いを認め合うことである。男と、女の差は、妊娠と育児、それと肉体的な差、生理的な差以外は、問題にならない。問題にすべきできない。それ以外の差はどこまで行っても確率統計の世界から出られない。その上で、家事、家内労働の地位を向上させることである。それ以外で基本的な能力の差は認めないし、あったとしてもそれは、個人差の問題にして片づく。後は、適正である。人、それぞれの向き不向きである。男と女の差を何らかの制度や処遇待遇に反映するのは、間違いである。だからといって男と女の差を認めないのは、尚おかしい。それこそが、新たな差別を生み出すことである。それに、測ることのできない差が人間には多くあり、総合的な判断をする以外にない。計り知れないことを測ろうとするのは、人間の性(さが)である。足らざる所を補い合ってこそ人と人の関係は成り立ちうるのである。

 同等に扱うと言う事は、分業も否定する事である。故に、学校教育の中では分業も生まれない。つまり、チームワークが求められないのである。これでは、チームワークなど学びようがない。リーダーシップやメンバーシップなど絵に描いた餅である。
 過激な男女同権論者には、肉体的な生理的な男女差別すら認めようとしない頑なな者もいる。しかし、出産や育児、女性固有の生理的、肉体的問題を考えると同等の扱いをする事は、甚だしく女性に不利になる。まあ、過激な男女同権論者は、女性そのものを否定しているのかもしれないが・・・。
 外に働きに行くのと家事は、どちらが意義があって、どちらが楽かと比較するのも馬鹿げている。あるとしたら、向き不向きの問題である。それと、家事や育児が不当に低く見られていることである。現金収入を担う者に依存せざるをえない体制である。家内労働者と育児をする者の生活をいかに保障するか、それは、真の平等社会を考える上で欠かせない事柄である。
 男に生まれたことや女性に生まれたことに罪があるわけではない。それぞれの在り方・仕事・役割を尊敬し、尊重しないから問題なのである。

 同等性を極端に推し進めていくと、人間性の否定につながる。人間性というのは、個性や自主性から派生する。同等性は、個性や自主性を粉々に打ち砕くからである。そして、人間を一個の物体に還元してしまう。そこから生まれるのは、非人間的な体制である。

 平等主義と単一主義とも違う。全てを同一なものと考えるのは、単一主義である。平等も自由も自己の存在から発するものである。平等主義とは、自己という存在において人間は、平等であり、存在から派生する権利は、その属性によって差別されないという事である。それは、自己と他者との違いを否定する事ではない。逆に、自己と他者との違いを正しく認識することによって成立する。違いを認めなければ、差別が生じる。なぜならば、現実を認めずに、自己の基準を相手に押し付けることになるからである。その基準にそぐわない者は、差別されることになる。そして、個体差は、自己が主体的存在であることによって自明なのである。現実の差が自明ならば、その差を認めなければ、必然的に差別が生じる。自己と他者との違いを認めないのは、全体主義、統一主義、単一主義で、平等の概念の対極に位置するものである。

 差を認めずに全てを同一に扱うことは、個体差を切り捨てることを意味する。それは、即ち、基準以外の全てを差別することにつながる。しかし、その基準自体が、主観的な意識、又は、合意によって設定される尺度であるから、最初から平等と言う事はあり得ない。

 男と女の問題に例をとると、確かに、男らしさ、女らしさという事を嫌う人もいます。そう言う人を一方的に否定する事は、差別につながります。しかし、同時に、男らしさ、女らしさを否定するのは、男らしさや、女らしさをこの無人間を差別することにつながるのです。しかも、男らしさ、女らしさの基準は、あくまでも主観的なのです。だから、男らしさ、女らしさを肯定しようが、否定しようがいずれにしようと、それを何らかの強制力を持つ制度に結びつけた時に、差別が生じるのです。要は、外形的差は、差として認めながら、それをどのようにして処理するか、その仕方に対する合意を形成するための仕組み作りを考えるのが、民主主義的在り方なのである。

 属性によって存在を否定するのは、差別である。

 女性という属性が差別を生み出すからといって女性という存在そのものを否定するのは、差別である。有色人種という属性が、差別の源だと言う事で、自分が有色人種であることを否定するのは、差別である。仏教徒という属性が、差別の対象になるといって仏教や宗教を否定するのは、差別である。
 ただし、この場合の属性は、自己の存在から派生する属性であり、地位や立場といった社会的属性から派生する属性ではない。

 男と女の差を突き詰めると存在に行き当たる。必然的結果である。個体差を切り捨てて、共通点のみを抽象すれば、存在しか残らないからである。だから、こそ、平等と言うのは、その存在に立脚した概念なのである。そして、存在とは、自己の存在である。

 存在に行き着いたと言っても存在によって全ての問題を集約してしまうというのは、暴論である。存在の問題は、始点であって終点ではない。全ての問題は、存在に帰結するのだから、全ての差を意味のないものにしてしまえと言うのは、前提によって結論を否定する事に相違ない。存在は、前提なのである。その前提に条件付けをする事によって物事の認識は、成り立っているのである。それは、存在が前提であり、意識は、存在から派生することを意味している。男女同権論者や急進的平等論者、つまり、単一論者は、平等に対する概念があって平等が存在する。言い換えれば、男と女の差別意識があって男と女が存在するといった転倒した論理を展開するものもいるが、存在があって観念が生まれるのである。むろんそれは、男と女を識別することを意味することであり、、中性的な人が存在することを否定する事とは、意味が違うのである。

 男が女を必要とし、女が男を必要としている。そのように神は、人間を作られた。なぜ、それを否定する必要があるであろう。それこそ、人間の思い上がりである。神を否定する者は、自らを神とする。同性愛のような例外的な者を引き合いに出し、一般的な在り方まで否定するのは、独裁的であり、少数者の多数者に対する差別である。過去において男が女を差別的にあつかったからといって男と女の存在を否定するのは、愚かである。それは、在り方の問題であり、存在そのものの問題とは違う。存在そのものを否定してしまったら、在り方を正すことすらできなくなる。存在を認め、尊重した上でこそ、在るべき姿を討議できるのである。

 存在が平等だから、全てを統一してしまえと言うのは、つまり、男と女そのものをなくしてしまえというのは、錯誤である。それは、男と女の生理を否定する事にもなる。それは、差別である。

 平等、公正の概念に客観性を持ち込むが、平等と公正と客観性は、本来結びつかない。というよりもなじまない。平等は、存在のみに客観性があり、公正も主観的な基準に基づくからである。つまり、何を公正とするかは、主観によって決められるのである。

 客観性というのは欺瞞である。区別する基準は、意識が生み出すものである以上、恣意性を排除できない。人の容姿は、全て違う。違うことを前提とできないのは、異常である。しかも、その容姿をどう思うかは、主観の問題である。客観的な問題ではない。しかも、自分が好ましいという基準で、相手を区別しなければ、自分の伴侶なるべき人を識別できなくなる。識別できなければ、相手は、誰でも良いという事になる。それは、平等とは、かけ離れた、似ても似つかない概念である。平等というのは、容姿以前の概念である。

 平等論者が往々に乱婚主義者、反家族主義者になるのは、平等の真の意味を取り違えているからである。

 個体の差を認めないのは、人の身長を一単位とするようなもの。それは。平等ではない。基本的に基準としての働きをなさないのである。基準としての働きをしないものを基準とするのは、最初からその働きを否定しているのと同じである。
 人の身長を一単位と決められれば、確かに全ての人間の身長は、同じになってしまう。しかし、それは、身長を測るという働きを最初から放棄していることである。それでは、尺度を決める意味がない。平等と同等をはき違えると、この様に、本末転倒したことである。平等という概念と、身長とは、本来、無縁なことである。身長で平等を測るのは、馬鹿げた行為である。

 平等は、個性や個体差を超越したところにある。突き詰めると存在そのものにしか平等性はない。しかし、その事実が、重要なのである。
 
 平等は、存在関わる事だけである。それなら、客観性は、保持できる。しかし、そこまでである。その存在関わる諸権利に格差を付けるべきではない。その上で、人を差別するのである。言うなれば、平等というのは、人を区別するための大前提、以前の問題なのである。

 区別と差別は違う。
 認識は、区別である。自分の子と、他人の子は違う。その違いを正しく認識しなければ、子育ては出来ない。教育は、観念ではない。現実なのである。
 比較するから区別が生じる。認識は、比較することから得られる。故に、区別は、認識から生まれるのである。認識上の区別は、本来実体を持たない。実体を持たない区別に、実体を持たせることによって、差別が起こる。しかし、その問題は、区別することによるのではなく、区別に社会的実体を持たせることによって起こるのである。

 生徒を認識すれば、自ずと区別が生じる。その区別に応じて教育をすれば、必然的に差別は生じる。だからといって、その区別をなくせば、認識そのものを否定する事になる。それは、教育そのものの否定である。

 区別は、意識の問題なのである。対象を認識した時点で人間の意識が働く。意識は、識別、区別である。故に、区別は、意識の問題なのである。
 相対的な基準に基づいている限り、区別はなくならない。意識を働かせる以上、区別を受け入れなければならない。
 問題なのは、その区別によって仕事や報酬、待遇に差が出たり。名誉や自尊心を傷つけられたり。権利や義務が侵害されたり。自由が侵された場合である。それが差別である。しかし、差別も全てが悪いというわけではない。言われなき差別。根拠が不当な差別は、悪いのである。この様な差別は、意識的に区別をしなくても生じる。なぜならば、認識をしなければ、判別ができないからである。判別ができなければ、判断が下せない。判断できなければ、行動を制御することはできない。故に、制御された行動の背後には、何らかの区別があるのである。問題は、区別を意識していない、つまり、無意識にしていることである。意識していない以上、意識的に制御することができないからである。

 差を差として認められないのは、差別である。一目見て、明らかに解る差を差として認めないのは、悪意でしかない。それは、悪質な差別である。しかも、その差別を平等の名の下に行うとしたら、それは、悪意の極みである。

 男と女を同等に扱うのは、差別である。
 男と女の差は歴然としている。ただ、それによってどちらが、優れているかという判断はできない。要は、総合性と適合性の問題だからである。
 人間として、男と女は、平等である。だからといって、男と女は、肉体的に同じだというのは、暴論を通り越して、異常である。
 男と女の差を認識した上で、それぞれの長所、欠点を総合的に評価し、それぞれの個性、特徴に適した教育を施すべきなのである。

 現行の学校教育は、生徒、子供を同等に扱うことによって、不当な差別が生じている。しかも、その差別に対し、教える側が自覚していない。故に、その差別から生じる障害を防ぐことができない。
 画一的な教育によって子供の能力を平凡化している。生徒を同等に扱う事で、教育の標準化、平準化が進んでいる。標準化、平準化する基準に客観的根拠、客観的裏付けはない。なぜなら、基準そのものが実社会から遊離しているからである。また、平等という概念そのものが客観という概念になじまないからである。あるとしたら、何らかの権威の働きかけである。ただ、その権威そのものに信憑性がない。故に、標準化、平準化することから生じる差別は、何らかの恣意に基づく不当なものである。
 そして、標準化、平準化することで、人の個性は、歪められている。人を鋳型に押し込むように、一つのサイズの服を着せるような教育は、人の心身を不自然に歪めてしまう。いわば、纏足のような教育である。

 学校教育では、一芸に秀でても評価されない。皆、同じでなければならない。つまりは、何でも平均点が基準なのである。
 画家になるのに、英語や数学が必要なのかが、問題にされるのではなく。全ての学科において一定の点数以上をとることが、要求される。これは、その人の正しい評価につながるのだろうか。

 教育には、区別、差別がつきまとう。なぜならば、教育の対象となる生徒、一人一人の個性、能力が違うからである。違う事を、前提としなければ、教育は、成り立たない。それを強引に同じものにしようとする。その上で、個性だ、自主性だ、独創性だといってもはじまらない。個性や、自主性や、独創性を頭から否定していながら、個性や、自主性、独創性を尊重するというのは、明らかに矛盾している。そんな簡単な矛盾にすら教育の現場では気がつかないのである。それで、まともな教育などできるはずがない。

 問題なのは、区別、差別なのではなく、区別、差別の正当性である。故に、区別、差別を問題にするのではなく、その背景、根拠とそれが引き起こす結果である。その根拠と背景が正当なものであり、悪影響が出ないと見極めたら、教育は、個々の生徒の個性に応じて、区別していくべきものなのである。

 人は、自分の人生を選択しなければならない。選別しなければならないのである。全ての物を等しく見ていたら、選択も選別もできない。仕事も生涯の伴侶も一つだけ選択、選別しなければならない。なぜならば、自己は一つだからである。その為には、対象を選別するための基準を与える必要がある。その基準は基本的には差に基づいている。その差は、認識上の差である。

 今の学校の先生は、生徒となれば、アインシュタインにだって平気で理科を教えるだろう。その上に、アインシュタインに間違いを指摘されても認めようとはしまい。それが彼等の言う平等なのである。何でもかんでも、平等に間違えているのならば、それは正しいのである。それが、学校の先生の言う平等である。

 人と人との違いを正しく認識し、その上で分け隔てなく教育する。それが、平等教育である。人を区別しないで全てを同等に扱うことではない。

 全ての人間を同じ方向に走らせようとする事自体、異常であり、不当な差別を生み出す原因なのである。





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