形式主義
戦後、日本人は、形式張らずに率直に話し合う、つき合うことを民主主義だと思っている節がある。しかし、これは、錯覚である。
その結果、形式を目の敵のようにする。国家、国旗、礼儀作法、儀式、しきたり、こういった事柄一切合切を否定する事が、進歩的だと錯覚している。
しかし、形式に囚われない事と民主主義とは関係がない。形式に囚われずに実質を重んじるのは、アメリカ流のライフスタイルであり、民主主義とは、直接、関係ない。むしろ民主主義は、形式を重んじる思想と言うより、形式主義そのものである。民主主義とアメリカのライフスタイルとが、見分けがつかないだけである。
民主主義は、言葉ではなく、形で表現する思想である。
無形も形の一つ。乱調も形の一つ。
美は形式にある。
思想は、何も文言によってのみ表すものではない。多くの思想は、形で表す。その際たるものは、芸術である。音楽は、思想を音で表す。また、ファッションは、最も身近で、手軽な思想表現である。身近で、手軽なだけに、重要なのである。恋愛は、人を愛することによって表す思想表現である。子育てや育児は、思想そのものである。だから、対立する。妥協できないのである。文言で表す思想というのは、むしろ、限られたものなのである。故に、形式という物は、雄弁に思想を物語る。
思想が悪いのは書物の性だという者は、あまり居まい。確かに、むかし、焚書坑儒というのがあった。ヒットラーのように書物を焼かせる者もいる。しかし、それは、例外である。ところが、形式を否定する者は、思想が悪いのは、形式の性だと形式そのものを否定してしまう。
服装が良い例である。貴族的な服装は、悪いと言って、ラフな格好をしても、それ自体が思想表現なのである。形式を否定するのは、愚かなことだ。多くの思想は、形式によって表現される。
民主主義とは、形式主義である。形式によって思想を現すのが、民主主義の本質だからである。論理的形式、観念的形式よりも実質的形式を重んじる。特に、アメリカ流の思想は、(プラグマティズム)この傾向が強い。
故に、形式に囚われずに率直に、ざっくばらんに話し合うというのは、アメリカの形であり、それも形式の一つである。形がないというわけではない。それなりの形は持っているのである。ただ、それが、従来持っていた日本人の形と違うだけである。
実質的形式とは、無形な形式ではなく、何らかの形で表に現された形式である。例えば、礼儀作法、象徴、式典、儀式、国家、国旗、法令、制度、仕組み、組織と言ったものである。つまり、観念として文章に表された体系ではない。実質を伴った形式である。
手順、段取り、手続きも形である。仕事を覚えたいのなら、本を読むより、手順、段取り、手続きを覚える事だ。社会人として自立したいのなら、知識を丸暗記するより、手順、段取り、手続きを丸暗記した方がいいに決まっている。
将棋も囲碁も麻雀も手順、段取り、手続きを競っているのである。将棋、囲碁、麻雀は、良い勉強である。
日本流の形式を否定し、アメリカ流の考え方が、長じると無形な物を尊び、形ある物を疎んじる傾向が生じる。しかし、この考え方は、アメリカ流の考え方の対極にある。アメリカ人は、実質を重んじる。目に見えないものを信用しない傾向がある。要するに、儀式や作法という形式を否定していながら、アメリカ流の形式を理解できない軽薄な人間が、ただ闇雲に、形式を否定した果ての結果に過ぎない。
最初、第一歩が大切なのだ。行動や形に現すことが重要だ。
形は大切である。しかし、その形を全て形式的だ、意味がない、封建的だとさして根拠のない理由で否定してしまっている。
アメリカは、儀式を重んじる。これは、社会主義国でも同じだ。レーニンも言っている。革命が起こった時、指導者は、部屋に閉じこもって論文を書くべきなのか、それとも、民衆の前にたって、姿勢を示すべきなのか。明白である。だのに、日本の知識人、知識人と自らを称する者達は、形式を蔑視する。
封建主義的形式主義もあれば、民主主義的形式主義もある。戦前の日本は、全体主義的形式主義であった。故に、形式によって表現されたのは、全体主義である。だから、形式が悪いのではなく、土台の全体主義が悪いのである。そこで形式の全てが悪いと決めつけたら、形式を土台にしている民主主義を理解することはできない。仮に、形式を否定している民主主義者がいたら、それは、偽物だと思えばいい。
独裁主義や封建主義は、必ずしも、形式を必要としない。なぜならば、どちらかといえば、属人的な体制だからである。全体主義は、形式を必要とする。それは、全体を維持するためには、形式が必要だからである。ただ、形式には、力がある。故に、独裁主義も封建主義も形式を大いに利用する。
それに対し、民主主義は、形式を重んじる。それは、民主主義が制度的思想だけである。
形式は、構造である。
組織を維持するためには、形式が必要である。大体、組織自体が一つの形式である。故に、組織が拡大すると、必然的に形式が生じる。
スポーツが良い例である。スポーツは、ルールやフィールド、組織といったいくつもの形式が組み合わさって成立している。極めて構造的な物なのである。
形式やモラル、規律が否定されるのは、形式やモラル、規律自体が問題なのではなく、形式やモラルが矛盾していたり厳格すぎるからである。
形式主義にも、良い形式主義と悪い形式主義がある。形式の本質を理解しないで形式に囚われるのは、悪い形式主義である。形式の基礎にある本質に伴って柔軟に形式を変えることのできる形式主義は、良い形式主義である。
形にも、良い形と悪い形がある。形の良し悪しを判断するのは、美意識である。故に、形式の判断基準は、美醜である。
生活の形は、習慣を形作る。習慣にも、良い習慣と悪い習慣がある。意味もなく、惰性で続ける習慣は、悪い習慣である。だらしなく、醜い習慣は、悪い習慣である。ダラダラとして、けじめのない習慣は、悪い習慣である。自分を堕落させる習慣は、悪い習慣である。不健全な習慣は悪い習慣である。悪い癖は、悪い習慣である。
自分を向上させる習慣は良い習慣である。自分の生活を律する習慣は、良い習慣である。自分を見つめ直させる習慣は良い習慣である。美しい習慣は、良い習慣である。人間関係を円滑する習慣は、良い習慣である。一日を充実させる習慣は、良い習慣である。心身を鍛える習慣は、良い習慣である。
形式には、力がある。故に、間違った形式、悪い習慣を身につけると一生祟られる。良い習慣を身につけさせるのが、教育である。
形には、意味がない。一つ一つの動作には、意味がない。一連の動作になってはじめて、意味が生じる。
一連の動作が流れるように行われた時、美が生じる。形式の基準は、美意識である。礼儀作法が正しいかどうかは問題ではない。正当であるか、異端であるかも。真であるか、偽であるかも。さして、問題ではない。それが、美しいか、どうかが、問題なのである。形式の価値基準は、美なのである。美であるから、言葉で説明することができないのである。だからといって下等な表現だというのではない。むしろ高等な表現なのである。
形に心や気持ちをこめる。心や気持ちをこめることを忘れたら、ただの儀礼である。形に心や気持ちをこめるのは、自分である。形式に意味がないというのは、自分が意味を持たせていないからである。形式には、意味がない、礼には意味がない。意味のない形式や礼に心や気持ちをこめるのは、あなた自身である。
形から入り、形に終わる。
形式の重要性は、はじめと、終わりに特に現れる。次に大事なのは、つなぎの部分である。個々は、日常生活の中の定型的な部分だからである。始動と中継ぎと終了、それが重要なのである。定型的であるから、形で覚えなければならない。定型的であるから、意味がない。あっても標準的な意味である。
試験勉強の思考回路は、入り口と出口がない。閉ざされた、自己完結的な回路である。だから、始まりと終わりの形がない。
プロの板前の修業は、包丁の研ぎ方から教える。調理場の清掃から、調理道具の準備、後始末。そして、ジャガ芋の皮むきのような仕事から始める。それを封建的というのは、間違っている。本当の教育を知らない者が言う台詞である。
現行の教育は、いきなり、調理方法を教科書によって教えるようなものである。そんな事、素人向けの料理学校でもしない。それで料理を教えているつもりになっているのが恐ろしい。しかも、相手が、料理を学びたいのか、否かの、確認すらしない。それでいて、自分は、人を育てるプロだと自認している。恐ろしい事である。
礼儀作法も形式である。礼儀作法というのは、自発的、自生的法である。つまり、権力による強制力のない法である。故に、古来最高の法、境地とされてきた。そして、その礼を重んじる事で、日本社会は、高度の文化を保ってきた。それなのに、戦後の知識人は、形式的、封建的と礼儀作法を葬り去ってきた。自虐的だといわれても仕方がない。
礼儀作法は、マナーや道徳に直結している。礼儀作法を否定する事は、倫理観を否定する事につながるのである。
形を変える。外見を変える。言葉を変える。髪型を変える。服装を変える。下品な服装や言葉を使うと、品性まで下品になる。なぜならば、自己は、間接的認識対象だからである。考え方を変えるよりも、行動を変えた方が、根本の価値観は、変えやすい。姿勢を正す方が、過ちを改めやすい。良い習慣を身につけた方が、生活を立て直すことができる。服装を変えた方が、人の見る目を変える事ができる。話し方を変えた方が、認識を改めることができる。頭を丸めた方が信じられやすい。改心できる。
形で考え、形で覚える。
形で考える。形で覚える。これは、習慣である。
自分なりの形を作ることが大切である。幸せを形にする。生活の形を作る。仕事を形にする。指示、命令を形に置き換える。自分の気持ちを形にする。形にすることで具体的な構想や計画が立てられるようになる。
生活は、服装や言葉遣いから乱れる。一度形が乱れるとそれを立て直すのは、難しい。だから、形を保つのである。
威儀をただし。姿勢を良くする。言葉の使い方を改める。
秩序は、形から乱れる。文化、伝統は、形から崩壊する。日本の文化を破壊するために、日本を占領した者達は、徹底的に日本的な形を破壊した。日本が、独立国として、日本人の誇りを取り戻すためには、日本の形を再構築する必要がある。
家族や郷土、国家、会社を守ろうという意志や気持ち、心が大切なのである。良い形を守ろうとしなければ良い形は護れない。
形から入り、形に終わる。礼にはじまり、礼に終わる。それが教育の根本である。
基本は形である。
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