思春期


 子供を取り囲む世界には、臭いがない。テレビやビデオ、漫画、テレビゲームは、あくまでも映像と音の世界であり、その他の部分、臭いや痛み、温度、味といった感覚には、ほとんど働きかけてこない。その結果、映像と音だけが、彼等にとって妙な現実感を以て認識されていく。その結果、実際の現実と彼等の現実とが転倒してしまい。彼等の内面にある映像的空間が実際の世界よりも生々しく認識されてしまう。
 漫画の世界が身近に感じられるというのは、錯覚である。現実の世界と観念・内面の世界が転倒しているに過ぎない。つまり、仮想された世界、作られた世界の方を現実の世界と取り違えているのである。それは、認識以上である。実際には、観念の世界を現実の世界に取り違えていたら現実の世界では生きていけなくなる。適合できなくなる。ところが、その状況でも、庇護者がいれば、生きていくことだけではできる。それが現代の日本の社会である。
 あるニュース番組の中で、あるコメンティターが漫画の中の純愛に憧れる若い女性に関連し、それだけ、世の中には、純愛がないのだと発言していた。
 純愛はないのではない。純愛は、何処にでもある。その中年のコメンティターの内面の世界にはないのかも知れない。また、彼を取り囲む世界、マスメディアの中にはないのかも知れない。しかし、若者達の恋心は、基本的には、純である。純愛である。それを大人達の薄汚れた目で見ると薄汚れて見えるのである。それは、対象は、純なのだけれど、見る者が不純だけである。ただ、テレビで純愛はないと断言したことが問題なのである。その悪影響は、発言した人間が無自覚であればあるほど大きい。受けた者は、この世に純愛はないのだと思い込んでしまう。
 純愛は、何処でもある。それは、普通の恋である。極日常的で、ありふれた恋である。決して、美男美女だけに許された、特別な恋などではない。初恋は、どんな人にも純愛である。だからこそ、夢や希望があり、平等なのである。それを平等というのである。それを教えるのが真の教育である。

 大人達は、勝手な理由を付けて自分達を正当化する。しかし、犯罪は、学習さられるのである。犯罪は真似(まね)をされる。テレビやビデオ、漫画、映画、テレビゲームで繰り返し流される情報が、価値観が揺れている思春期の子供達に悪影響がないと言い切れるであろうか。いや、悪影響がないと考える方が余程どうかしている。

 思春期は、危機の時代でもある。思春期は、肉体的にも、精神的にも動揺しやすい。肉体の急成長、性的成熟、そして、精神的未熟が交錯して現れるからである。この時期に、刺激の強い情報を流し続ければどうなるのか。その明白な事実を前に、無責任に、強い刺激の情報を流し続けるメディアの人間は、自分の行動をどう正当化するのであろうか。(「なぜ「少年」は犯罪に走ったのか」碓井真史著 KKベストセラーズ)

 思春期は、テイク・オフ(離陸)、巣立ちの季節である。家庭生活と社会生活との端境期(はざかいき)である。離陸のための助走の時期である。

 思春期は、第二反抗期とも言われ、自立を促す期間である。反抗というのは、反面において自立を意味する。自己の自立をうながし、アピールしていこうとする。この時期に、無理に自立を抑え込み、学習主体の主体性を認めようとしないと反抗という形で現れてくる。それでなくとも、自立しようとする意志は、対外的に攻撃的、破壊的な行動によって現れてくるのである。
 性行動がその典型である。人は、愛を学ぶことによって自分を抑制することを覚える。衝動が抑えられないほど欲望が強くなってくる前に、愛する意義を覚え込ませなければならない。人を思いやる気持ちを植え付けなければならない。それを植え付けるのが、思春期の教育である。

 ところが、現代の学校教育では、性教育ばかりを問題にしている。現代社会は、精神的自立を認めずに、性的成熟を促している。人の道を教えずに、性の知識ばかりを与えている。しかも、公教育の場でである。これは、極めて危険なことである。抑圧された精神は、むき出しの性的衝動、性的行動として顕現するからである。進歩的知識人とと称する不逞の輩、性の解放と称して、一方において人間的自立を抑制し、他方において、欲望を解き放って、自制心を失わせる。それは精神を抑圧して、欲望を解放することになる。それが思春期の年代の子供達には、大変抑圧となり、ストレスを貯めることになる。
 自分をどうコントロールして良いのか解らないのに、力ばかりを漲らせる。それは、運転の仕方が解らない者に、車を全力疾走させるようなものである。ストレスが溜まらないはずがない。反抗していると言うより、暴走しているのである。自分で制御ができないのである。制御の仕方が解らないのである。
 先ず、自分の行動に責任を持たせることによって、精神的に自立を促し、自制心を養わせることが肝要なのである。それから、肉体のことを教えても遅くはない。

 いつまでも子供扱いをしている癖に、妙なところで大人扱いをする。思春期の子供達には、どんどん責任を持たせなければダメ。どんどん大切な仕事を任せるべきである。大人の話し合い、会議にも参加する機会を増やすべきである。
 責任を持たせない癖に、扱いは、どんどん大人になる。話し合いに参加させずに、罪ばかりを問題にする。少年犯罪を問題にするならば、彼等にどれくらい責任を持たせるべきかを考えるべきである。子供扱いしている癖に、刑罰だけは大人並にしろというのは片手落ちである。

 思春期には、社会人としての自覚を促し、責任感を醸成すべき時期なのである。その為には、彼等の意見、意志を尊重し、反映できる機会を作ると同時に、徐々に自立していくように促すべきなのである。学校で言えば、学校の授業よりも部活で、責任を持たされた者の方が、社会人としては成長する。学校の授業だけに偏り、子供達を勉強部屋に隔離することは、百害あって一利なし。寛く見聞を広め、社会人としての自覚を促すべき時なのである。それを無理矢理、狭い部屋に拘束し、反抗的な態度をとったからと言って反抗期と見なすのは、見当違いである。

 この年頃になったら、自分で稼ぐことを経験させる必要がある。それは、家の手伝いでもいい。自分が汗水垂らして働いて、お金を稼ぐ。その経験を通じて働くことの意義や経済を身を以て体験することが大切である。そうやって徐々に社会に出ていくための準備をするのである。自覚が大切なのである。

 この時期に自律的な価値観が完成されていく。形成し完成される段階でいろいろな試行錯誤が繰り返される。その中で、取り返しの付かない大きな逸脱が生じるのもこの時期の特徴である。

 考えてから決めろは、間違い。決めてから考えろが、正解。決断は、第一感でするものである。決断する前に、考えさせると、第一感を信じなくなる。結果的に決断力がなくなる。その為に、決断せずに、いきなり行動に移るようになる。
 そのうえ、第一感で決めた事を否定するようになる。最善なものを選ばなくなる。何事に対しても懐疑的になる。第一感を否定すると迷うようになる。醒めてくる。決断力が鈍くなれば、自分で決められなくなる。自信がなくなる。自分がなくなる。
 決断力を身につけさせたければ、第一感を磨くことである。その為には、常日頃から、決断を重視することである。考えたら決められなくなる。決断すれば、次がある。第一感で決めさせ、その上で、責任を持たせるのである。抜刀する気合いで決断させよ。その上で考えさせる。

 考えさせない訓練・考えない訓練も大切である。

 自律的な価値観が完成されると同時に社会へ出ていくための準備がされる時期である。思春期で大切なのは、語り合うこと、そして、経験することである。その為に、大切なのは、語り合える、また、時には、競い合える良き友と導き手としての良き師である。

 社会へ出ていくためには、対人関係の基礎をかためる必要がある。故に、教育の目的は、特に、この面に向けられる必要がある。礼儀や作法、人との付き合い方が重要な課目にならなければならないはずなのである。対人関係の基礎が確立できなければ、引きこもりや不登校、自殺の原因になる。
 親は、子供達の自立を妨害、阻害してはならない。可愛い子には、旅をさせろである。

 思春期は、心が揺れ動く時期である。それだけに周囲の人間の理解が必要な時期でもある。理解といっても子供達の変化を注意深く観察した上でなければならない。心が揺れ動いている時に、独断や決めつけ、偏見でもって自分の考えを押し付けるのは、一番危険である。もはや子供ではないのである。同時に、まだ一人前の大人でもない。極めて不安定な年頃なのである。だからこそ、頭から押さえつければ反発するし、世の不正には、憤(いきどお)るのである。自信をつければ、天まで昇る。この時期にこそ人生の可能性は、大きく飛躍するのである。

 同時に、思想的にも、政治的にも自分の意見。主張が強くなる時期でもあり、ある意味で、大人と対等、特に、親と対等に立場、時には、実力的に上まわるケースもある。子供達の意見を尊重しながら、時には、教えを受けるぐらいの気持ちで接する必要がある。

 現行の教育制度下では、学力は問うても、人間性や社会常識は問わない。ならば、思春期で一番重要なのは、学力であって、人間性も社会道徳も重要ではないことになる。しかし、思春期で一番学ばなければならないのは、自制である。人間としての在り方、矜持(きょうじ)である。人と人との関わり方である。思いやりである。
 その一番、肝心なところを学校教育では削ぎ落としている。一番肝心なところを自分達で削ぎ落としておいて教育問題を論じるのは、喜劇を通り越して、悲劇である。家庭の中で、また、友達との関わりの中で、師弟関係によって人間性を磨く大切な時期に、受験勉強によって人間関係を遮断される。それが何を意味するのか、現代人は、気が付いても良い頃である。
 初恋に心をときめかせ、友との語らいに仲間としての絆を強くし、集団生活の術を身につけ、師によって人生の意義を学ぶ。旅に出て見聞を広め、住む世界を大きくする。いろいろな人生経験を積んで、心身を逞(たくま)しくする。それが思春期の勉強である。それを支援するのが教育である。
 そして、親は、子離れしていかなければならない時期なのである。子供が親離れできないのではなく。親が子離れしていないのである。だから、親子間で摩擦が生じる。巣立ちの時なのである。子供より、親に問題があるのである。

 思春期は、社会人・成人に向けた第一の関門をくぐらなければならない時期なのである。社会人・成人になるというのは、一足飛びにできるものではない。いくつかの関門を通り抜けなければならない。その一番最初の関門・通過儀礼が思春期にある。

 昔ならば、元服の歳である。日本には、昔、成長に合わせて改名をした。更に、切腹の仕方を教えたのである。切腹というと仰々しく聞こえるが、要は、責任の取り方、名誉の守り方、自己の尊厳の守り方を、身を以て仕込んだのである。それは、優れた通過儀礼であった。名を変えることによって成長してきたのである。日本人は、元服前後、つまり、思春期の教育を最も重視してきた。
 身体だけは成熟し、大人になるのに精神は、子供の儘だ。そう大人達は、言うけれど、それは、大人達がそうしてしまっているのである。性の知識ばかり与えておいて、大人としての自覚を促さない。ある種、子供のペット化をしてしまっている親が増えている。それが問題なのである。肉体は、大人になったのに、精神を子供扱いしていれば、必然的に、肉体と精神のバランスは崩れる。
 家庭の大事なこと、当人の進路について何も相談もせず意見も聞かない。お為ごかし、あなたは、勉強にだけ専念していればいいのよと言う。それがどれ程、思春期の子供達の誇りを傷つけていることか。元服が過ぎれば、すぐに初陣である。それが、日本人の教育法であった。子供だと思うから間違うのである。ある意味でもう幼虫ではなく。蛹(さなぎ)なのである。全てではなく、年相応に、その子の意志を尊重し、取り入れていくべき歳なのである。

 昔は、やくざでも仁義を払った。今は、まっとうな大人でも挨拶一つできない。かつての日本人は、生きる事そのものを修業だと考えていた。無宿渡世のやくざでも、遊侠道、任侠道と自分を磨く道だと信じていた。だから、日本人は、道という言葉を好んで使った。この道という言葉は、仕事や遊興、芸事、武芸、スポーツすらも修業であり、職場や遊技場をも人生の修業の道場とするという思想に基づく。
 特に、職場ではことさら厳しく。職人道を教え込まれた。だからこそ、仕事に出ることを奉公と言ったのである。奉公とは、公に仕える(つかえる)ことである。
 この奉公は、思春期に始まる。思春期以降では、遅いとされた。大体が、親方や御店に住み込み、礼儀作法から仕込まれた。いきなり、仕事を仕込むのではなく。下働きによって、仕事に対する基本、生き方から躾ていった。その基本は、掃除、洗濯、道具の手入れ、親方、兄弟子の世話である。女性も嫁入り前には、女中奉公と言って大きな家の女中として住み込みいろいろな躾(しつけ)をされたのである。また、地域コミニティでは、少年団、青年団、壮年団といった組織によって地域住民を組織化し、冠婚葬祭を通じて、地域住民としての自覚や結束を図っり、古老を中心として子供の躾をしてきた。この様にあらゆる機会・あらゆる場所を通じて子弟の教育をしてきた。いわば、社会全体が教育機関だったのである。特に、思春期の教育は、少年団、青年団の名が示すように、ある程度の自主性を持たせ、役割、責任を持たせることによって行われてきた。十把一絡げ(じゅっぱひとからげ)に人を扱うのではなく。単にお仕着せの教育ではなかった。一人前の大人として尊重もしたのである。それが今日の日本の礎(いしずえ)を築いてきた。
 しかし、職場こそ教育の場であり、教育は、全人格的なものであるという思想は、戦後廃(すた)れた。それに伴って学歴社会が出現し、学校の成績が全てを支配するようになったのである。そこか思春期の子供達に対する見方が社会中心の見方から学校中心の見方に変わった。その結果、学校から溢れ出した者は、社会からも溢れ出してしまったのである。
 かつては、あらゆる所に道があった。人生の道、生きる道があった。今は、一本道しかない。その一本道も、引き返すことの許されない道である。つまり、その道からはずれたら生きにくい社会である。子供達は、下を向いてただひたすら目の前の道を歩み続けるしかない。周りの景色を見るゆとりすらなくしている。逃げ場所もない。脇道に逸れたら、自分の居場所までなくなってしまう。しかもその道は、生きることや人間としての在り方を教えてくれる道ではない。人の道ではない。獣道のような道である。そのことに早く気が付かなければ、人は、人の道を見失ってしまう。
 思春期は、社会への入り口に立つ世代である。それだけに、子供達は、神経質になり、怖れや不安を抱く。社会全体が、思春期の世代をしっかりと受け止めなければいけない。それも仕組みとしてである。よく子供達を理解することだという者がいる。しかし、子供達をただ理解しただけでは、かえって子供達の反発を招くだけだ。理解すること以上に彼等を認め、責任を持たせ、チャンスを与えることこそ肝心なのである。

 思春期には、本格的な集団生活も経験し始める。部活の合宿や修学旅行などが、好例である。それから、現在は少なくなったが全寮制の学校のように本格的なものまである。思春期における集団生活や団体行動は、社会へ出るための準備として不可欠である。
 その重大な意義は、第一に、集団の規律を学ぶと言う事、第二に、親元を離れると言う事である。
 この時期には、集団生活や団体行動の規律を学ぶ事と自立心を養う事は、社会に出るためらは、不可欠なことである。
 しかし、この様な集団生活や団体行動も実社会、世間から隔離された形でされたら、意味がない。逆効果である。それに、集団生活と言っても組織化されていない集団で生活するだけでは意味がない。それは、ただ集団生活をさせられたに過ぎない。ある意味で牢獄と変わりない。また、いきなり何年にも亘り長期間、親や社会から隔離すると弊害が生じることがある。
 なぜ何のために、集団生活をするのか明確にすべきなのである。集団生活そのものに意義があるのではない。目的を持って集団生活をするから意義があるのである。集団生活で身につけるべきなのは、組織的活動の原則である。つまり、リーダーシップ、メンバーシップ、チームワークなどである。その根本にあるルールの意義を理解することである。だから、全員を均一に扱ったり、同等に扱ったら意味がないのである。全員に役割を与え、それぞれが与えられた立場によって組織的な機能を持つことが肝心なのである。また、同様の意味で実社会から切り離されたところで行われても意味がない。どんなに永くても家族との縁が疎遠になるほど永くしてはならないのである。

 犯罪の低年齢化が言われて久しい。ここ数年、少年犯罪が急増しているといわれている。しかし、ちょっと待って欲しい。その犯罪の中に確信犯的なものは含まれているのであろうか。かつて学園紛争が華やかだった時、多くの青年達は、破壊活動を行った。それは、明らかに反社会的行動である。それを思想的だったから、また、社会の不正に対する憤りが根底にあるからといって多くの知識人は、正当化する。しかし、思春期における犯罪の多くは、社会や体制への反発に根ざしている。社会の矛盾や大人達の不正に対する憤りの現れである。もし学園紛争時の犯罪が正当化されるのならば、現在の非行も許されることになる。体制の過ちは、過ちである。それと、犯罪とは異質のものである。その点を明確にしない限り、教育の意義など意味がない。だいたい、確信犯的犯罪を増長しているのが、教育の現場であることすらあるのだ。教育関係者は、反体制的、反社会的思想を子供達に教え込むのは、自重すべきである。私的思想教育は、公的教育の現場に持ち込むべきではない。公的教育は、国家理念に基づいて為されるべきなのである。
 団塊の世代は、社会的に責任ある立場に立とうとしている。過去を懐古するだけではなく。きちんと総括し、清算することが求められているのだ。




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