青春期


 動物園で育てられた動物は、子育てができないと言う。子供を産んでもどうしていいか解らない。ネグレクトか、幼児虐待、最悪は、子殺しをする。人工授精をしたパンダは、なぜか、性行為そのものができなくなるともいう。
 このことは、人間社会にも当てはまる。というよりも、現代社会の病巣がそこにある。、ネグレクト。ストーカー。幼児虐待。それらは、人間が本来学ばなければならないのは何かを忘れたことに原因がある。
 青年に対する一番の教育は、親学である。母親学、父親学である。母親や、父親になるのにも学習が必要なのである。
 親になる準備をするという事、自分の意志で親になることを選ぶと言う事、そのことの重要性を現代人は、無意識にか、それとも故意にか、いずれにせよ忘れている。その結果、何の覚悟も準備もしないうちに、また、自分では望んでいないのに、親になるケースが増えている。そこに、全ての不幸の始まりがある。
 青春は、無軌道、無自覚では、済まされない。

 可能性と未熟さが混在する年代、それが青春である。人生の中でも青春は、光り輝いている。それだけに、青春の光の陰に潜む罠に嵌(はま)らないように気をつけなければならない。
 青春には、成長、研鑽、停滞、そして、衰退の全てが順序よく現れる。人生を山にたとえるとその頂(いただき)が青春なのである。
 二十代は、お肌の曲がり角という言葉に象徴されるように、人生の曲がり角、全ての変化が集約された形で現れる。
 それでいて自分の力で自分の進むべき道を切り開かなければならない。時として、その道は、人跡未踏の道であり、これまで誰一人行ったことのない道かもしれない。その道へ分け入れば、誰一人助けに行くことができない道。だからこそ、若者に求められるのは、勇気と断固とした決意なのである。

 その道は、ただ一人で行かなければならない。それ故に、若者には、強い意志が求められる。自己研鑽が必要なのである。

 吉田松陰。坂本龍馬。高杉晋作。西郷隆盛。大久保利通。橋本左内。近藤勇。明治維新は、若者達が起こした。第二次世界大戦後に日本の経済的発展の基礎を作り上げたのは、若者達である。ガロア。ニュートン。アインシュタイン。彼等が基礎的な理論を構築したのは、二十代である。青年期である。多くの人間には、錯覚がある。人間がその能力を開花させるのは、ずっと遅くだという。五十、六十洟垂れ(はなたれ)小僧という言葉があるくらいである。しかし、その多くが若者の力を抑え込むために使われたのは、残念なことである。人間は、想像以上に早熟である。

 若者に求められるのは、責任感と志である。だからこそ、若者達には、ある程度責任を持たせながら、自分の夢や希望に向けて発進させる必要がある。それが教育である。

 若者達には、可能性がある。未来がある。その若者達の可能性や未来が新しい時代を切り開いていくのである。若者の力こそが社会を動かす原動力である。

 青春は、トキメキ。躍動。若さ。
 青春は、人生の船出。
 青春は、旅立ちの時。飛躍の時。チャレンジ、挑戦、冒険である。

 若さは、時には、暴走に繋がる。
 若い力は、荒々しく猛々(たけだけ)しい。
 若者の行動は、直截的、直情径行的である。自分の思いに純粋、純情である。悪く言えば、ゆとりがない。思慮分別に欠ける。経験不足を有り余る行動力で補っていく。
 そこに青春の光と陰がある。
 未熟であるが故に、純情であるが故に、相手も自分も傷ついていく。しかし、傷つくことを怖れていては、未来は拓けてこない。
 若い時は、時間がその傷を癒してくれる。だからといって全てが許されるわけではない。そこに、青春の光と陰が色濃く刻まれていくのである。若者は、傷つき倒れ、やがて立ち上がっていく。
 だから、青春を舞台にして、映画やテレビ、小説が作られてきたのである。

 青年は、社会活動の中核的担い手である。若者達の可能性が未来を開く鍵である。若者にチャンスを与えられない社会に未来はない。
 社会の発展や危機に対する対応の推進力は、青年や壮年にある。それを制止するのが、中高年である。青年、壮年では、社会を動かし、状況を打開するのは、主として青年であり、それを抑え、制御するのが壮年である。若者達が自由闊達に力を発揮し、若者が暴走したり、逸脱するのを防ぐのが壮年である。
 青年の活力が社会を活性化するのである。この様な若者達の行動を型にはめ、枠に押し込めようとすると、社会の活力はとたんに失われ、若者達は暴発する。かといって、好き勝手させれば、無軌道になる。若者達の行動力をうまく制御する事が、青年期の教育の目的なのである。

 若者には、夢がある。希望がある。その夢や希望を大切にし、尊重した上で、その夢や希望を実現するために助力することが青春期の教育なのである。青春期の教育は、実践あるのみ。行動、体験を主体としたものでなければならない。教育を推進するのは、当人の夢であり、希望であり、実力である。

 受験勉強のような先のない事に精力や労力を費やせば、燃え尽きてしまう。逆に、何も打ち込む物が見いだせず、青春時代が不完全燃焼な時は、いつまでも、自分の境遇に不満を抱き、人を受け容れたり認めることができなくなる。こういった青春期の生き方は、後に続く壮年期の生き方を決定付ける。燃え尽きてしまった者は、虚脱感、無力感、空疎感に囚われ何事にも熱中できなくなったり、生きる目的を見失う。また、不完全燃焼だった者は、鬱々として楽しまず、劣等感や焦燥感に苛まされ、同僚や後輩の足を引っ張る。重要なことは、自分達が今やっている事が、自分達のこれからの人生にどうか変わっていくかを正しく認識しているかどうかである。連続性、継続性のない一過性の物事に関わっていたら、大切な自分の人生を台無しにしてしまう。だからこそ、周囲の大人が見通しを立てて適切な助言と指導を繰り返すことが大事なのである。それが、青春期の教育の基本。実際は、その人当人に決めさせ、実行させることが肝心である。つまり、良きサポート役、コーチ役に徹する事が肝心なのである。チャンスを与えなければ、実力を身につけることはできない。

 青春で大切なのは、出逢いである。良き師、良き友、良き仲間、そして、良き恋人。青春での出逢いがその後の人生をも決すると言っていいほど出逢いは大切なのである。逆に言えば、出会いの機会がどれだけあるかが大切なのである。この時期に、引き籠もってしまうと、決定的に、その後の世界・人生が小さく限られたものになってしまう。

 健全な男女交際というのは、知識人やメディアの人間から見ると諸悪の根元らしい。自由恋愛、フリーセックスこそ、人間らしい生き方を保障するものだと言うことになる。とにかく、健全な男女交際を奨励することは、彼等にとって営業妨害にあたるらしく下手をすると訴えられかねない。とにかく、人が不幸になる方が、新聞や週刊誌、小説が売れるから、人を不幸にすることばかりを売り物にする。それがマスメディアの基本戦略である。マスコミは、不健全な男女交際を問題にしてても、結局、健全な男女交際には、否定的である。同じ週刊誌の中でも一方今の若い者はとろ、誹謗中傷する記事を載せながら、他方で悪い事をそそのかす記事が載っている。だから、若者達は、大人を信用しなくなる。典型的マッチポンプである。悪い事は悪い。良いことは良いとなぜ言えないのであろうか。若者達を信用していない証拠である。

 青春は、恋の季節である。良い恋をどれだけできるか。失恋しても、恋をしないよりもずっとましである。人は、先ず愛し方を学ぶべきである。愛し方とは、相手への思いやり、接し方、話し方、周囲への配慮といったことである。
 恋は、単なる想いではない。現実である。適齢期の男女は、傷つきやすい。健全な交際を通して相手の人柄を知り、信頼関係を築き上げることである。長い人生を伴に生きていくための決断をしなければならない。その為の準備期間である。付き合いは、真剣で誠実でなければならない。いい加減な気持ちで付き合えば、傷つけあうだけで終わってしまう。だから、学校の性教育やマスメディアが奨励するような性欲の充足や快楽の追求を目的とする事ではない。先ず若者が学ばなければならないのは、愛する者のために、我慢、自制することである。愛すると言う事は、自制心を養うことである。だからこそ、性や快楽を知る前に、愛し方を学ばなければならない。相手を思いやる心を身につける必要がある。

 人を愛する事によって若者達は、多くのことを学ぶ。だからこそ、人を愛する事は、最高の勉強なのである。つまりは、恋愛こそ青春期最大の教育の機会なのである。

 だから、かつては、社会や大人が恋愛の場や機会を準備したのである。世話役や仲人といった人達も社会的に認知されてきた。確かに、当人の了承も受けずに強引に結婚を強いるのは、行き過ぎである。しかし、何の方策も採らずに放置するのは、無責任すぎる。社交の場を設けるのは、他国では、当たり前なことである。

 青春期は、俗に言う適齢期でもある。つまり、結婚を前提とした男女交際の時期であり、結婚による自立と環境の変化が劇的な起こる時期でもある。
 中には、適齢期という言葉自体が差別的だと禁じる向きもあるが、結婚相手が見つからないというのは、深刻な社会問題である。自称知識人の言葉狩りもいい加減にした方がいい。
 結婚は、責任と経済的な負担の増大が同時に起こる事を意味する。また、女性の場合、仕事を続けるか、辞めるか。更に、出産、それに続く育児、場合によっては、高齢者の介護と、男性に比べて精神的・肉体的負担が増大する問題でもある。基本的には、見ず知らずの他人の中に一人で、結婚相手の愛情を信じて侵入していく事になる。女性の負担の増加に比例して、本来、男性の責任も増大する。それを考えると男性の裏切りは重大である。
 女性は、結婚に際し、多くの物を失うと、同時に、多くの負担を背負い込むことになる。本来、その精神的、肉体的負担の増加に配慮して、家事や育児に専念させるために、専業主婦という在り方が定着したはずなのである。ところが、いつの間にか主婦が弱い立場に置かれ、それに比例して、家庭に入らない女性が増加している。その根本は、周囲や社会の無理解さに起因する。
 物心両面で多くの物を失った上、更に、物心両面で両面で負担が増加する。その上に、経済的、社会的弱者になるのでは堪らない。保育園や幼稚園といったハード面での補助をいくら増しても根本的な事柄に対する理解が足りないのでは、解決には至らない。少子化対策を主婦や適齢期の女性にのみ、それも個人的に押し付けるのではなく、社会全体が物心両面で取り組まない限り、解決できない。これは、政治や経済の問題ではなく。文化の問題である。

 現代日本は、予防は悪い事であると決めつけている。犯罪を未然に防いだり、予防することは悪い事であろうか。警察が予報的な処置をすることが悪いという。しかし、何か災害があると人災だと騒ぎ立てる。教育は、本来予防的なものである。未熟で自制心に乏しい若者達に予防的な教育をすることまで、否定してしまっていいのだろうか。犯罪が起こってからでは遅いのである。粗暴犯や性犯罪は、被害者の心身に取り返しの付かない傷を負わせてしまう。なぜ、性教育ばかりして、愛し方を教えてはならないのか。性知識は、客観的な知識であって愛し方は、思想だからだというのか。人間性を忘れた教育の実態が、そこにある。愛こそモラルだ。自制心だ。

 青年期で重要なのは、経験である。それまで禁じられていた行為も解禁される。同時に、それまで義務の方に大きく置かれていた比重が権利に移っていく。当然、それまで認められていなかった権利も付与される。その好例が参政権である。
 青年に欠けているのは、もう、知識、技能ではない。経験である。だから、経験を重視した教育が為されるべきなのである。ところが、現行の教育制度は、幼児教育、初等教育のやり方を引きずっている。つまり、座学、一斉授業、集合教育中心の教育である。その為に、学歴の高いものほど現実の社会とのギャップ・不適合に悩むことになる。学校で徹夜までして学んだことは、社会に出たら何の役にも立たない。それは、社会への出発した時点から挫折することになる。そのダメージから回復するだけで相当の時間を無意味に費やすことになる。回復できなければ、必然的に社会から脱落していくことになる。

 若者が学ばなければならないのは、自制心である。若者が、積まなければならないのは、経験である。若者が自覚しなければならないのは、責任である。若者が担わなければならないのは、発展である。革新である。若者に必要なのは、信念と志である。若者が頼らなければならないのは、自信とより良き助言である。若者が語らなければならないのは、自分の思想・信条、主張である。若者が、為すべき事は、自身の決断と実行である。それまで受けた教育を自分の自家薬籠中の物とし、自立していかなければならない。飛躍。それが青春である。
 ならば、青春期の教育とは何か。武者修行であり、遍歴である。若者よ旅に出よう。可愛い子には旅をさせろである。
 突き詰めてみると、大学の役割の中で、何が、最も重要な役割なのであろうか。それは、第一に若者・学生を親元・故郷から引き離す事である。旅立たせることである。そして、第二に、志を同じくする者達が集う場所を提供することなのである。出逢いの場を提供することである。そこに青春がある。青春の学舎(まなびや)がある。もはや教わるのではなく。学ぶのである。



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