教育の主体

 自己とは、何か。まず、自己とは、すべての存在の前提だと言うことである。次に、自己は、存在それ自体である。そして、自己は、独立し完結した存在だと言う事。つまり、自己は、それ自体で存在している。また、自己は、自己の唯一の体現体だと言う事。つまり、自己を、体現できるのは、自己だけなのである。そして、自己は、主体であるという事。また、自己は、今しか存在しない。そして、自己は、霊的な存在である。最後に、自己は、間接的、認識対象だと言う事である。

 この自己が主体である。そして、学習するものの主体が、学習主体である。教育の中心は、この学習主体に対する考察から始まる。

 教育に関連する主体は、一つではない。学習する者の主体。保護者の主体。教育する者の主体。施設を管理する者の主体。地域住民の主体。国家の主体。こういった複数の主体が絡み合って教育の場や構造を築き上げている。そして、これらの主体のベクトルがあっていないと、教育は、効果を上げないどころか教育を受ける者の主体性を分裂させてしまう。故に、それぞれの主体の役割を明らかにし、その働きに応じて、役割を与えていかなければならない。

 では、どのような主体が教育の場には、存在するのか。それを明らかにしていきたい。
 先ず、基本的な主体としては、学習主体と教育主体である。
 学習主体とは、教育を受ける主体であり、教育主体とは、教育をする主体である。
 学習主体と教育主体の関係は、教育における中心的な働きをする。二つの主体の相互作用によって実際の教育は、展開していく。この二つの主体は、対極にあるように一見して見えるが、実際は、一体的な働きがあり、また、一体的な働きでないと効果が上がらない。教わるという働きは、その反作用として、教えるという働きがあり、教えるという働きは、その反作用として、教えるという働きを持つ。そして、この二つの作用が均衡したところに学ぶという働きが生じるのである。
 つまり、学習主体には、三つの働きがある。一つは、教わるという働きである。もう一つは、学ぶという働きである。もう一つは、教えるという働きである。この三つの働きの調和こそが、教育効果を最も上げることなのである。
 教わり、教えるという働きの他のもう一つの働きとして学ぶという働きがある。これは、外部への働きかけを通じて、自己と外部との関わりの過程において多くの知識や情報を習得することである。

 学校教育におけるの教育現場を構成する主体には、学習主体と教育主体がある。この他に、学校教育に関わる主体には、保護者や地域コミュニティなどがある。教育主体と保護者、地域コミュニティとの価値観の整合性が最も重要なのである。故に、教育者と保護者と地域住民は、常に協議し、相互の価値観の統一を図るように心懸けなければならないのである。
 その為に、重要なのは、学校の人事権である。つまり、学校の人事権を誰が握るかである。

 教育主体と保護者と地域コミュニティとの整合性を保つためには、学校のマネージメント業務は、独立させた方がいい。その上で、三者が協議して、教育の枠組みを設定するのである。

 なぜ、国家が、教育を司る必要があるのか。それは、民主主義に反する。地域コミニィティと保護者、そして、教育者の合意に基づいて教育は為されるべきなのである。さらに、この三者は、水平的関係である必要がある。
 国家が介在できるのは、物理的なことでしかない。なぜならば、教育に直接的に携わるのは、保護者と教育者と地域コミュニティだからである。教育の本質は、児童の主体性を喚起することである。それは、国家的に平準化、標準化するような性格のものではない。それぞれの個性に応じたものである。国家は、その環境を整備するのが本来の働きなのである。全国一律に平準化、標準化しようとすることは、個性を抹殺することになりかねない。故に、国家が、個々の教育を全国一律に規定するのは、危険なことなのである。




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