C−1 学習主体

 学習は、自分でするものである。それが学習主体である。つまり、学習は、純粋に主体的な行為であり、内面の動機による。内面の動機に基づかない教育は、主体的能力に反するのである。
 要するに、学習主体を観察しながら、彼等の内面の主体的力を引き出し、それに一定の方向性を与えるのが教育なのである。学習をするのは、教育主体そのものでなければならない。

 学習主体には、志向がある。つまり、学習しようとする主体的意志と方向性である。一番重要な志向というのは、生存のための志向である。強弱は別にして何らかの障害がない限りは、この志向は、先天的に備わっている。この志向こそが、学習の柱であり、当然、教育の柱でもある。
 この志向の方向性には、内面に向かうものと外面へ向かうものとがあり、両者は、作用反作用の関係ある。つまり、求心力と遠心力である。この求心的作用と遠心的作用が、学習主体と他者とを結びつけているのである。
 これは、意志の方向の問題である。教えるという事と教わると言う事は、対を為す作用なのである。そして、外的な世界を内的な世界へ取り込んでいく行為、過程が学習なのである。

 この志向性は、何らかの動機付けや自分は何ものかと言った意義付け、つまり、内面に対する根っ子を持つと強くでる。それが内面の動機と結びつくと強い信念や確信になる。

 志向は、言語能力が発達していない時は、問いかけや興味、好奇心、遊びという形で表現される。

 言語能力が未発達な時期に自主性を重んじると言って論理的な教育をするのは、むしろ、自主性を阻害することになる。理解することや判断することのできない者に対し、相手が理解したり、判断したりしているかのごとく仮装するのは、一種の刷り込みでしかない。それは、洗脳の一種である。

 むしろ、彼等の意思表示は、彼等の行動や一連の動作、問いかけのような所に現れる。それをよく観察し、子供達の志向性を読みとるのが、教育の原点である。ある種の観念的思想の刷り込みは、最も危険な行為である。

 なぜ、できないのか。それは、能力の問題以前に意識の問題である場合が多い。
 できないと解っているのに、その人に強要するのは、ただ単に自分の優位性を誇示して、相手を隷属させようとすることである。又、相手の欠点を強調するのは、自分の劣等感の為せる業である。それは、教育ではない。教育は、相手の優れた点を見いだし、認めるところから始まる。
 故に、教育の基本は、観察と指導なのである。

 学習は、外界への働きかけによって、外界を自己の内部へ取り込んでいく行為である。この学習には、教わるという働きと、その反作用として教えるという働きがある。表に顕在化している作用は、教わるという作用であるが、裏側に、教わるという作業がある。もう一つの働きは、学ぶという働きである。学ぶというのは、自己の肉体を通して、外界へ働きかけ、その働きかけに対する反応を、自己の内部に取り込んで、自己の内部に再現、再構築する過程である。故に、学ぶという行為は、自己の外界への働きかけと内面への摂取という働きの双方向の働きがある。この二つの方向の働きかけを分析することにより、学習の効果や成果、今後の指針を明らかにすることができる。

 ここで言う外部への働きかけには、見る聞くと言った受動的な行為も含まれている。
 聞くという行為は、一見受動的に見えるが、実は、能動的な行為である。例えば、議事で質問する側、つまり、聞く側が防御側なのか、攻撃側なのかを考えると解る。裁判や国会を見れば解るように、聞く側が、攻撃的なのである。
 子供は、なぜなぜとやたらに聞く。これなども、聞くという行為が能動的であるということが解る。見るという行為も同様に、観察という観点に立てば、能動的な行為である。つまり、見るにせよ、聞くにせよ、意識の在り方によっては、能動的にも受動的にもなるのである。

 学習した事を自己の外部に表現し、再認識することによって学習効果が上がる。つまり、自己の内部と自己の外部とは、鏡像関係にあり、自己の内面の世界と外部の世界とを比較することによって自己の内面の世界へ外部の世界を写像していく過程が学習であり、教育なのである。
 外部への表現は、基本的に行動である。故に、行動を規制したり、強制したら、暗示的効果は上がるが、学習的な効果は上がらない。ただ、表面的には、暗示的な効果によって教育効果が上がったように見える。しかし、それは、外見的なものであって内面の世界は、萎縮しているか、抑圧されている。高じると主体性の喪失になる。
 外部への表現も問いかけや、興味、関心、好奇心、そして、遊びとして現される。
 志向性や外部表現でも、いずれも、遊びを注意深く観察することが前提になる。

 主体が、間接的認識対象であり、認識が相対的なものである以上、外部の世界を内面に取り入れる場合、内面に一つのモデルが必要となる。最初の内的モデルは、子供が一番信頼しているものから学習する。それは、一種の刷り込みである。故に、母子関係が重要なのである。また、その内的モデルが基礎となるから幼児教育や幼児体験が重要なのである。

 内面のモデルを持たせるためには、手本を示すのも一つの手段である。手本を示しながら、その人が持っている、能力・才能を引き出すのである。これも、学習主体と教育主体の合意の下に行われなければならない。テレビは、この合意がない。一方的に、ある種の手本を刷り込んでいる。悪い事に、送り手の側にも自覚がない。あるとしたら、それは、洗脳である。少なくとも、保護者の了解なく、手本を幼児に刷り込むのは、危険な行為である。

 手本があると子供は、真似る。この真似るという行為が重要なのである。この真似は、一種の疑似体験である。この様な疑似体験は、遊びの中に頻繁に現れる。ごっこ遊びである。ごっこ遊びは、学習や教育の原点なのである。

 主体(学習主体)は、間接的認識対象であるから、一旦、自己の内面の世界を外部に投影しなければ、自己の内面の価値観を認識、構築、修正、再構築しえない事を意味する。それは、自己は、学習しなければならないようにできていることを意味する。学習を繰り返さない限り、自己は、深化、進化していかないのである。

 同時に学習は、外部との働きかけと内部への働きかけの二方向への働きが同時に進行する。求心的働きと遠心的働きである。また、この働きは、反発(斥力)と従順(引力)の働きの周期的運動をうみだす。しかし、それは、表面に現れている、外部に向けられている働きの方向を示しているに過ぎない。必ず、その反対方向の働きが隠されている。その双方向の働きを均衡させることが教育の一つの目的でもある。

 内面の世界は、言葉だけで構成されているわけではない。映像や匂い、音声、感触、感覚、色、味覚、形象といった複数の要素が複合されて成立している。また、論理的な世界でもない。しかし、外部の世界を内部に取り込む場合、外部の世界を一旦、意識の上に投影しなければ認知できない。意識の上に一旦投影した上で、それを自己の内部の世界、無意識な部分も含んだ世界に取り込んでいくのである。その際、言語的手段が重要な役割を果たす。そこに、教育上における言語的手段の役割があるのである。
 学習とは、意識的に学び、無意識下に消化するのである。車の運転を例にとると、車の操作の仕方は、一旦、言葉によって伝達される。それを意識によって受け止めるが、一旦、車の操作をマスターすると無意識に運転する。マスターした後に意識させられると、とたんに運転ができなくなる。教育は、意識上において伝達され、習得は、無意識になされるという過程を指して言うのである。それ故に、教育的手段は、座学と実践の二つを組み合わせないと成り立たないのである。

 また、注意しなければならないのは、無意識下に働きかける行為による作用が意識上に現れる言語による働きよりも大きな影響力を持つ場合が多々ある。教育者の何気ない行動や言動が、教育上の重大な支障を引き起こしたり、教育者の内面の状況が教育を受ける者、特に、子供達に投影されてしまうなどという事が往々に起こるからである。また、洗脳的教育は、一見どうでも良いような行為や行動を変えるような所から為されることがあるからである。仕草や言葉遣い、服装を変えただけで思想やモラルに影響がでるのである。逆に、教育は、姿勢や、言葉遣い、服装を正すだけでもかなりの効果が上げられる。これは、両刃の刃なのである。

 学習主体と環境との適合性なのである。この環境を作るのが、環境を成立させている諸々の主体による働きである。
 教育環境、つまりは、教育の場や教育の空間に働く力は、その場や空間を作り出す主体の相互作用によって生み出される。それぞれの主体が、それぞれの役割に応じた働きをいた時、教育の場に働く力は、均衡し、効果的な教育が可能となる。調和を生み出すためには、学習主体に働く力のベクトルが一致していなければならない。故に、そのベクトル合わせが一番の課題なのである。

 教育環境を構成する主体には、学習主体と保護者とコミニティがある。義務教育の場は、コミニティの委託を受けた学校である。この学校教育の場と補完関係にある場が家庭である。そして、学校と家庭を包含した場が地域コミュニティである。この三つの場に働く力が調和してはじめて教育の効果は上がる。この三つの場が対立関係にあると教育の効果は、著しく低下する。場合によっては、人格の分裂を引き起こす危険性すらある。




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