C−2 教育主体

 教育主体は、教育の場によって違ってくる。何も、学校の先生のみを指すわけではない。家庭では、両親、兄弟が、職場では、上司が、社会では、先輩や住民が場面、場面で教育主体となって立ち現れてくる。

 教育主体は、教育が行われる場に応じて、様々な形で現れる。それは、自覚的に現れることもあれば、無自覚に現れることもある。また、直接的な働きをすることもあれば、間接的な働きをすることもある。また、主導的な働きをすることもあれば、補助的な働きをする場合もある。故に、その場に働く教育主体が何なのか、また、どのような働きをしているのかを理解しないてと、意図した教育的効果は望めない。

 例えば、家庭空間においては、母親が主導的な働きをする。それに対し、父親は、基本的には、補助的な役割を果たすが、状況によっては、主役と脇役が入れ替わることもある。また、学校教育が間接的な影響を及ぼす。こう言ったことを踏まえて教育方針は、たてなければならない。

 教育主体は、学習主体の表裏の関係にある。つまり、ある意味で一体の者である。教えるという事は、教わると言う事である。逆から見ると教わるという行為を通じて教えた方が効果的であることもある。いずれにせよ、教育主体と、学習主体は、鏡像関係にある。

 このことからも解るように、教育は、相互作用である。

 教育は、双方向なものである。学校教育、集合教育において、一方通行的な教育が見受けられるが、それは、ただ単なる情報の伝達に過ぎない。教育は、一方通行になされるものではなく、双方向的に為されるものである。

 情報の伝達は、教育ではない。教育とは異質なものである。教育というのは、相手の成長を促すものでなければならない。情報の伝達には、この要素が決定的に欠けている。故に、ただ単なる情報の伝達は、教育ではない。

 外部からの圧力によって従えるのは、教育ではなく、調教である。大声で叱ったり、叩いたりして、恐怖心を相手に植え付け。その恐怖心に条件付けすることによって服従させる。それが調教の一般的手段である。これは、人を臆病にするだけである。

 教育は、学習主体の主体性に根ざしたものでなければならない。つまり、内的な世界に取り込まれることによってはじめて成立する。外的な圧力によって相手を従わせるのは、調教であって教育ではない。相手が、言うことを聞くのは、服従であって自律的な意志ではない。調教は、自律的な意志の成長を阻害するやり方である。調教によって外見は、行儀がいい、躾の良い子に見えても、それは、自律的に従っているわけではないので、自律的な判断は、当然できない。

 調教に用いられるのは、飴と鞭である。これは、基本的な価値観や危険な行為に対する判断基準を植え付ける時には、効果的である。しかし、それも信頼関係が成り立っていての上でである。信頼関係が成立していないのに、飴と鞭による条件付けをすれば、それは、自律的意志の発達を阻害するだけである。

 自立とは、自己の内的世界に価値体系を構築することが前提であり、価値の基準を外部に依存している限り、成立しない。故に、調教によっては、自律的な自己は、発達しない。怯えや恐怖心によって従っているだけであり、心底から相手を受け容れているわけではないからである。
 故に、調教によっては、真の信頼も敬意も得られない。

 調教よりも洗脳的教育は、更に危険である。自分で自分がコントロールできなくなるからである。

 価値観は、特に共鳴・共感によって内部に刷り込まれる。共鳴・共感がないところに同調は起こらない。逆に擬似的に共鳴・共感するだけでも価値観を刷り込むことができる。それは、洗脳的な手法である。この場合、価値観の一部に刷り込まれるため、無自覚に作用することがある。この様な洗脳的な教育は、人格面においても致命的な欠陥を作り出すことにもつながる。共鳴共感は、本来、信頼関係の上になり立つものであり、信頼関係が築けなかったり、現になかったたりした場合、この様な洗脳的な教育が有効になるのである。

 共鳴、共感、共振によって相手と自己とを同調させることによって相手の世界を内部に取り込んでいく過程が学習である。
 故に、根本的には、真似や模倣からはいる。赤ん坊の微笑みに母親が微笑み返し、その反応をみて、赤ん坊も微笑み返すという同期化による共振が、学習の基本である。
 共鳴、共振によって外部社会と自己の内的世界を同期化(シンクロナイズ)し、それによって外部世界を内的世界に結びつけ、取り込んでいく。
 価値観は、この様な同期化によって自己の内部に刷り込まれていく。この様な同期化(シンクロナイズ)は、特定の対象からでなく、その場、空間に働く力によってももたらされる。故に、教育主体は、その場に働いている力にも十分注意をする必要がある。その場の力は、その場の規範が源泉である。子供達を教育しようとした際、その子供達の集団に働いている規範を明らかにする必要がある。

 自己は、間接的認識対象であるから、自己の内面を外部の対象に投影して自己認識をする。その自己を投影する対象として学習主体は、教育主体に期待する。自己を写す鏡としての働きを教育主体に期待するのである。教育主体と学習主体とは、鏡像関係にあるのである。
 つまり、教わる者は、教える相手に自分を見いだし、それによって自己の在り方を捕捉・修正するのである。この様な関係を鏡像関係という。
 この鏡像関係は、教育主体との関係に見られるだけでなく、外部世界との関係にも見られる。外部と自己との間にある鏡像関係は、学習という形で現れる。

 反面教師というのは、この鏡像関係を応用したものである。つまり、ある対象や人物、出来事を自分と対極に捉えることにより、自己の像を捕捉・修正するのである。

 教育主体に要求されるのは、相手と、共鳴・共感・共振し、相手の実像を正確に反映することである。言い換えると、教育主体に要求されているのは、教えるのではなく、観察し、指導するのである。相手(学習主体)との間に共鳴、共感がなく、良好な信頼関係が築けなければ、相手は、心を開いてはこない。そして、自分の弱点や欠点を見せようとはしない。それでは、教育のしようがないのである。
 教育的な手段が見つからずに、短期間で成果を上げようとすれば、必然的に調教的、洗脳的な手段に訴えることになる。これは、教育に見えて、教育ではない。

 故に、教育の根本は、観察である。相手をよく見て。相手の話をよく聞き。相手の考えを自分の考えに置き換え。相手の立場になって考え。自分が手本を示すことによって、相手の同調を促す。それが教育である。学習は、自分でやるのである。相手の話を聞くだけでも、教育の効果は現れるものである。




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